私たちの社会は、「問題」にあふれている。では、その問題とはなんだろうか?問題は必ず解決できるのだろうか?

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本稿はポスト資本主義時代の起業術を伝えるメディア『42/54』の提供記事です。

 ジェームズ・ダイソンは「紙パックなど不要」という信念に基づいて、サイクロン型掃除機を開発・販売した。しかし、大半の消費者は掃除機に紙パックが付属しているのは当然であり、ここには何の解決すべき社会的課題(イシュー)など存在しない、という認識だったはずだ。いや、むしろ「そこにイシューなど存在しないと信じていたので認識できずにいた」と書いたほうが正しい表現かもしれない。

 「そこに課題がある」という共通認識が存在しないのが課題提案型(=問題提起型)事業の特徴だ。換言すれば、問題解決型事業は、それがすでに社会的コンセンサスを得た課題に対するソリューションとも言えよう(ただし、コンセンサスの取りやすさとその課題解決の難易度は無関係である)。

 課題提案型の典型が「新規事業開発」であり、その大半は失敗することになっている。社会からは単なる“余計なお世話”としか認識されず、歴史的には死屍累々なのだが、そのなかで“偶然”生き残ったものが事後的に“イノベーション”として礼賛される。

 市場は後知恵バイアスの塊なので、「いやぁ、僕も常々、ゴミが見える化できる掃除機を作れば売れると思っていたんだよ」というように、訳知り顔で論評する輩が必ず出現する。こういうタイプこそイノベーションから最も遠いところにいる善良な市民、愛されるべきビジネスパーソンなのだろう。この手の人物であふれた日本の家電メーカーからダイソン掃除機のパクリが続々と出現するのは時間の問題である(サイクロン型掃除機の関連特許については数多くのネタがあるが、本論とは無関係なので割愛したい)。

 さて、妙な制度やモノが出現して自分の生活や仕事が変わっていく状態を嬉しがる人はさほど多くないはずだから、イノベーションには社会からは歓迎されていないという謙虚さが必要だ。事業者としても、イノベーターがたまたま発掘したマーケットの後を粛々とフォローしていくほうがビジネスとしては安全だろう(ただし、フォロワーの大半はさほど儲からないはずである)。

 日本には、期待もされていない偶然としてのイノベーションなどを追求している余裕は残されていない。前述の「問題解決型」をさっさと片付けないとマズいでしょ、という状態に追い込まれている。自動運転車の開発に血道を上げてるヒマがあるのなら、崩れ落ちそうな橋梁をなんとかしてほしい、というのが庶民の本音であろう。

 さらに問題なのは、その問題解決型として設定されるべきイシュー自体が間違っているケースがあまりにも多いことだ(その好例は「閑古鳥鳴く官民ファンド」だろう)。マスコミの議題設定機能が激しく劣化していることに起因しているが、その遠因を作っているのは私たち国民一人ひとりが醸し出している“空気”のようなものなのかもしれない。改めて『空気の研究』を読み直したほうが良いのは間違いない(※1)。

 では、そもそも“問題”とは何か。ここで言う問題とは「社会的コンセンサスを獲得していると思われる解決すべき課題」だが、それらの問題は問題自体の性質によっておおよそ3種類に分けられる。すなわち「パズル」「パラドックス」「ジレンマ」だ(※2)。

3種類の問題

 「パズル」(puzzle)は、正解が一意に決定する。正解がひとつしかないものがパズルだと考えてよい。学校で提示される問題はパズル、またはパズルの変形であることが多いが、実生活や仕事のシーンにおける課題は、変数の数自体が爆発する(変動する要素が多すぎる=いわゆる複雑系、具体的にはカオス)のでパズルの形式で解けるものは皆無と言っていい。(学校教育での)偏差値の高さとビジネススキルに有意な相関関係がないのは、これが理由だ。

 というわけで、次に「パラドックス」(paradox)が登場する。パラドックスは正解が常識的な見解と矛盾するように感じられるもの、あるいは矛盾しているようで矛盾していない事象だと考えていい。典型的なのが「急がば回れ」だろうか。数学的にはより正確な定義が存在する上、議論を深めていくと面白いテーマなのだが、いまは先を急ごう。そちらのほうが重要だからだ。

 それが第三の問題「ジレンマ」(dilemma)である。「逆説」という日本語で展開しようとしている議論は多くの場合、「パラドックス」ではなく「ジレンマ」の話をしていることが多い。いわゆる「あちらを立てればこちらが立たず」がすべてこれに該当する。

 例えば、監視カメラが街のいたるところに敷設されれば安全は担保されるが、プライバシーは限りなくゼロに近づく。起業すれば自分の好きなように仕事ができるが、サラリーマン時代のお気楽さには別れを告げなければならない。消費税は誰が考えても増税しなければならないが、それを自分が言い出すと選挙に当選できない−−などが挙げられよう。

 このように、人間社会の大半はジレンマで構成されている。ジレンマはあちこちに転がっている現象ではなく、ジレンマで構成されているものを「世間」と呼ぶのだ。

 ジレンマは適当なところで妥協することでしか解決しない。したがって、折り合いのつけかた自体にある種の“技術”を持ち込む必要がある。日本の場合、ここに“空気”、いわゆる雰囲気(ムード)が投入されることが多い。

 例えば10年程度のスパンでみた場合、EV(電気自動車)は明らかにレシプロエンジンよりも環境にダメージを与えるはずだ。しかし、「みんながそうしている」ことからEVの開発が正当化されている。自動車メーカーはジレンマを感じならがも、“世間”の“空気”を読んで開発しているのだろう。その空気の中でマツダが技術開発の長期ビジョン「サステイナブル“Zoom-Zoom”宣言2030」を公表したのは、個人的には大英断だと思う−−もっとも、EVに出遅れただけ、という側面もあるかもしれないが。

作家の感性

 ジレンマを解決するときに必要なコンセンサスの一つは「時間軸」である。ある価値を提供しようとするときに、それが何年計画かということ自体にコンセンサスが取られていないのであれば、その上に乗るイシューの是非を議論する前提が整っているとは言い難い。そしてもう一つが、「これは不良設定問題だ」という認識の共有だろう。これは正解がないかもしれない、という予想の上で活動せよということだ。

 このあたりのことを見通していたのが作家・橋本治である。2001年に発行された書籍『「わからない」という方法』(集英社新書)で、「なんでもかんでも一挙に解決してくれる便利な“正解”などというものは、そもそも幻想の中にしか存在しない。二十世紀が終わると同時に、幻滅もやってきたと思う人は多いが、これもまた二十世紀病の一種である。やってきたのは幻滅ではなく、ただの現実なのだ」(p24)と喝破している。

 この著書の発行からすでに10年以上が経過した今、彼が、現在日本で起きている様々な「問題」について何を語るだろうか、という興味から作ったのが『橋本治の映像講義「最後になって突然、天皇の話が出て来たぞ!」』である。

 彼独特の教育論と仕事論だけでなく、最後は(実はこれが一番長時間になったのだが)かつて日本に存在した女帝の時代を振り返れば現在議論すべき天皇論が見えてくる、という話にまで及ぶ。時間にして1時間半、『マガジン航』発行人 兼 編集長・仲俣暁生の編集・編成による労作だ。YouTube上のPR動画は一見の価値があるはず。ぜひご覧いただきたい。

これはyouTubeの内容です。詳細はそちらでご確認いただけます。
橋本治の映像講義「最後になって突然、天皇の話が出て来たぞ!」【予告編】
橋本治の映像講義「最後になって突然、天皇の話が出て来たぞ!」【予告編】 thumnail
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※1:『空気の研究』山本七平(1983)文春文庫
※2:『論理パラドクス―論証力を磨く99問』三浦俊彦(2002)二見書房

Text:竹田茂