父方の祖父は、白洲次郎、祖母は白洲正子という家に生まれ、本物に囲まれて見て育った白洲信哉さん。骨董の専門誌の編集長も務めていた白洲さんが、モノを見極めるには? センスを磨くにはどうしたらいいのか? 白洲さん流のモノとの関わりから、“見る眼の育て方”を教えてもらいます。
古唐津は、本連載三回目である。
唐津は、虹の松原で名高い景勝地で、この唐津湾から焼きものを積んだ船が出航したことからその名がとられているが、カラは、中国の唐や、韓国のカラに、古代の加羅など異国の香り満載である。以前に述べた通り古唐津は、桃山時代終盤、豊臣秀吉による朝鮮出兵によって生まれた新しい焼きもので、その焼きもの利権は黒田藩の高取焼や細川藩の上野焼など、「古」がつく同時期のものは作風が似ているモノもある。
お隣の古伊万里(いまは 有田焼とも呼ばれている)の兄貴分的な存在で、朝鮮人陶工によって始められ、その製品は京・大坂の茶人や戦国大名に愛され、桃山陶芸の伝統を引き継ぎ、現在でも数多くの作家や、工房がある焼きもの産地の中心は、織部縁の初代唐津藩主寺沢家が支配した唐津であろう。
古唐津の温雅な釉色には、「枇杷色」、「朽葉色」といったゆかしい名で呼ばれて、茶陶としての評価が高いが、僕はとりわけ古唐津の酒器に惹かれることはすでに述べた。土ものは酒を呑めば、注げば注ぐ程に、手に馴染み土味も変化し、段々と世界でただ一つの自分だけの盃と化してくる。
今日写真に掲載したものは、小さな盃ではなく、大きめの焼きもの、筒茶碗である。名前の通り、野点など比較的平易な折に点 てる抹茶茶碗だが、美濃焼との対比で言えば、茶陶のみならず、普段使いの大皿など雑器を量産したことであろう。その幅の広さは、知られているだけでも200を超える窯跡が、作風の多様さを照明している。
この絵唐津筒茶碗は、文字通り器に文様を描いたもので、桃山古唐津最盛期の慶長年間(1596〜1615)に量産されたものであろう。「なんの造作もなさそうな粗野な禿筆になるバカバカしいような絵ではありますが、しかし、古今を通ずる名画の味がありますね。蕪村などの力では遠く及ばないほどの筆力の雄頸さがあります」。北大路魯山人の言葉だが、伸びやかな筆の自由さは、卓越しているように思う。同じ図柄が出光美術館にあるが、同時期の瀬戸や美濃焼とともに、「見せる器」として、国産初の試みである筆で文様を描いたのである。
夏の盛りの夕刻、ビールグラスとして、また日本酒のあとのロックグラスとしても珍重する。写真では難しいが、片身は薄らピンク色で、いつも酒が入っているかのようで、また黒い輪線は徐々に黒さが増してくるように感じている。
カラになった器をひっくり返し高台を眺める。
酒だけではなく、目福の相乗効果で、目をとじれば玄界灘の荒波のなかで揺られているようである。僕は無地の盃を入れ子に、特注の木箱にいれ旅に出る。唐津の寿司屋での晩は、格別なものであったことは言うまでもない。
白洲信哉
1965年東京都生まれ。細川護煕首相の公設秘書を経て、執筆活動に入る。その一方で日本文化の普及につとめ、書籍編集、デザインのほか、さまざまな文化イベントをプロデュース。父方の祖父母は、白洲次郎・正子。母方の祖父は文芸評論家の小林秀雄。主な著書に『小林秀雄 美と出会う旅』(2002年 新潮社)、『天才 青山二郎の眼力』(2006年 新潮社)、『白洲 スタイル―白洲次郎、白洲正子、そして小林秀雄の“あるべきようわ”―』(2009年 飛鳥新社)、『白洲家の流儀―祖父母から学んだ「人生のプリンシプル」―』(2009年 小学館)、『骨董あそび―日本の美を生きる―』(2010年 文藝春秋)ほか多数。近著は、『旅する美 (目の眼ブックス)』(2018年8月 目の眼)。
撮影/白洲信哉