MAVERICK OF THE MONTH:HIRANO AYUMU
スタッフたちは朝からそわそわしていた。そして彼が現れると歓声に近い声を上げ、まとわりついて離れない。彼のさまざまなパフォーマンスを挙げ、あれはすごかった、これもすごかったと熱弁を振るう。彼らだって名の知れた、しかも親子ほど年の離れたトップ・アーティストだ。それを子供のようにはしゃがせる。そんな様子を彼はニコニコと聞いている。撮影の後、聞いてみた。おじさんたち、はしゃぎすぎじゃなかったですか?
「そんなことないです。普段、競技関係以外の人に会うことがあんまりないから…なんか楽しかった」
オリンピックで銀メダルを2度、手にしている彼を“異端児”と呼ぶのはどんなもんだろうかと思わないでもなかった。頂点に立つ選手であるということは、その世界の真ん中にいるということではないだろうか。
「逆かもしれません。少なくとも僕は人とは違うということにすごくこだわっています。トップの立場でやっていくためには、自分だけのアイデアを生み出す必要があるし、その先に、人とはかぶらないものを目指さないと、ほかの人たち以上のハードルは越えられない」
例えばこういうことらしい。
「自分も見たことがなくて、こういうのができたらいいなとか、こうしてみたいなというのを積み重ねて、自分のスタイルと呼ばれるようなものができることを目指しています」
その途中経過であり、ひとつの完成形でもあったかもしれないのが、平昌オリンピックの決勝である。特に2本目の滑走では、4回転の高難度トリックを完璧に、しかもふたつ続けて成功させた。オリンピックで4回転を連続で成功させたのは彼が初めてだ。
「2回目の滑りは自分が長年練習してきたことを、1回の滑りでまとめてつなげられたものでした。自分でも、今の自分にしかできないルーティンだったと思うし、技の構成、組み合わせだったと思います。正直、4回転を連続でやるのはチャレンジだったけれど、なんのためにここまでやってきたかといえば、目指すところはひとつしかなかった」
それがあの2本目の滑り?
「そうですね」
その心情は中継画像でも十分に伝わってきた。それくらい滑り終えた彼は晴れやかな顔をしていた。が、その直後に滑ったショーン・ホワイト選手がそれを2.5ポイント上回る得点をたたき出す。その瞬間の彼は少し呆然として見えた。それでもメダル授与式では満面の笑みを見せていたので、彼なりに納得したのだろうと思った。
「いえ、悔しさだけです。それしかなかった」
そのときの感情を反芻するみたいにそう言った。
「ショーンは滑りもよかったけれど、前回のソチで金メダル確実といわれながら4位だったこと、彼にとって最後のオリンピックになるだろうこと、そしてケガからの復活だったこととか、いろんな要素があってあの空気になったと思うんです。でも、悔しいことに変わりはないです」
でも、授与式では笑っていたけれど。
「カメラとかがあると笑わなきゃというのもあったし、どんなに悔しくてもそれを表には出したくないんです。本当の自分は見せたくないというか」
彼がひと回り年上のショーンを知ったのは2006年のトリノ・オリンピックだったという。のちにレジェンドといわれるようになるショーンが最初の金メダルを手にした大会である。彼は7歳。小学1年生だった。
「ショーンに興味を持ったのは、スノーボードとスケートボードへの関わり方が自分と似ている気がしたからです。僕は今のところ、競技としてはスノーボードしかやってないけれど、滑りの基本のほとんどはスケートボードで学んだといってもいい。もちろん、スノーボードは足がずっと板にくっついているのに対して、スケートボードはそうではないし、縦回転もできない。トリックも全然違います。でも、ヒントになることがたくさんあって、悪い癖の修正はほとんどスケートボードでやってきたんです。その頃、スケートボードとそういう関わり方をしている人はあまりいなかったから、ショーンを見て、自分と同じことをやっている人がいるんだと驚いたんだと思います」
Photograph / Makoto Nakagawa(3rd)
彼がスノーボードを始めたのは4歳のときだ。父親の英功さんが携わるスケートパークで、兄の英樹さんの後を追うようにして練習を始めた。早くから英功さんに付き添われて各地を転戦。遠征費を浮かせるために、車中泊することも珍しくなかったという。中学生のときにはスポンサーがつき、15歳でソチ・オリンピックの銀メダルを獲得。同じくスノーボードで活躍する三男の海祝さん含め、3人の息子たちを両親は全力でサポートしている。
「父さんは客観的な目線で、僕らにスノーボードとスケートボードを教えてくれました。一番近くにいる人が競技者目線ではないのはよかったんじゃないかと思います。兄は、今、僕がこのポジションでスノーボードをやれているそもそもといっていい。いつも自分の前には兄がいて、最初の頃はその後ろでこそこそとやる、という感じでしたから。母さんは横乗り生活の疲れや気持ちの整理、栄養管理などをしっかりやってくれています。でも、母さんはやめたければやめればいいみたいなところがあるんです。全力で支えてくれていながら、そういう空気でいてくれるのはありがたいことですよね。スノーボードをやめたくなったことは何度もあったけれど、変なプレッシャーを感じることはなかったから」
昨年3月、彼はUSオープンで大けがを負っている。左足のじん帯と肝臓を損傷。当たり所が1センチ違ったら命を失いかねないといわれたケガだった。
「初めての大きなケガだったので、それを乗り越えるにはものすごく大きなエネルギーを必要としました。ただ、プロのスノーボーダーとして活動しながらオリンピックに出場することもまた、大きなエネルギーを必要とするんです。種類は違うけれど、もしかしたら、僕にとってはアクシデント以上に乗り越えなければいけないことが大きかったかもしれません」
プロのスノーボーダーである彼は、シーズン中、世界中を転戦し、結果を出し続ける。そういう生活の中で、4年に1度、オリンピックがやってくる。
「オリンピックって特別すぎるんです。ほかの大会とは違うプレッシャーがあるので、普段の感覚、状態そのままではいられなくなります。ある意味、自分がスノーボーダーとして追求している滑りとは違う部分を出さなければならなくて、そこの切り替えがすごく難しいんです。1、2年前から“その日”に焦点を当てて準備をしなければならないのは、自分が求めている生活とは必ずしも合致しない。もちろん、オリンピックに出ることで得ることはたくさんありますが、オリンピックだけをよりどころにはしたくないんです」
▶▶▶平野歩夢さんへのインタビュー全記事をご覧いただけます。
『メンズクラブ2018年8月号』
◇PROFILE
平野歩夢さん
…1998年、新潟県村上市生まれ。4歳のときに父親が携わるスケートパークで、スケートボードとスノーボードの練習を始める。15歳のとき、初出場のソチ・オリンピックで銀メダルを獲得(冬季オリンピックにおける日本人最年少記録)。Xゲームでは2度、バートングローバルオープンシリーズでは4度、ワールドカップでは1度、金メダルを手にしている。昨年から木下工務店を傘下に持つ木下グループと所属契約を結んでいる。
Still Photograph & Video Photograph / Makoto Nakagawa(3rd)
Photo Retouch / Antonio Pizzichino
Styling / Babymix
Hair & Make / Toshihiko Shingu(VRΛI)
Text / Yukiko Yaguchi
Edit / Emiko Kuribayashi
Video / Mitsuhiro Kubo
Video edit / Tsuyoshi Hasegawa
Web / Hikaru Sato