彼女との会話したときの印象を言えば、それはまるでベルベットを撫でたときのように心地よく、さらに気品とともに優しく包み込んでくれる…。まるで、その空間が繭となり、そっと包まれたように。
公開した「なまみのマナミ 」Trailerをご覧になっていただけましたでしょか!?
もはや橋本マナミは、単なる「愛人にしたい…」という表現で済ますことはできません。愛人特有の「都合のいい」などという形容を超え、逆に「都合ならこちらが…なのでなんとか…」(笑) というぐらい、逃したら120%後悔する女性だったのです。
では、そんな彼女を逃さない方法はと言えば…。そう、僕らにとっての「なまみのマナミ」は、“Mon amie”にすべき最高峰の女性ではないでしょうか!?
【幼少期の終わりに】橋本マナミの作り方
癒(いや)らしいお姉さんとして数々のグラビアを飾り、「平成の団地妻」や「愛人にしたいNO1」のキャッチコピーで今ノリにノッてる彼女。昨年から引き続き、その人気は2015年も継続中です。そこで人気となればなるほど、その裏側を知りたくなるのは人の常?ではないでしょうか。そこで皆さんの気持ちを代表して、メンズ・プラスがインタビュー。そこにはもちろん、担当編集者(♂)の個人的な思いを半分以上載せながらですが(笑)…。
それでは皆さんもこの機会に、彼女が放つ言葉一つ一つから、その魅力の奥にあるものを読み取っていきましょう。その持前の癒(いや)らしさ、「愛人」とまで言われたその奥ゆかしさは、どのようにして育まれたのか…。写真では写せない、「なまみのマナミ」を!
“わがままは言いたくなかった~橋本マナミの幼少期”
「実はすごく内気で、自己表現をすることが苦手な子でした。正しくは“自己表現”といっては語弊があるかもしれません。“自己主張”と言ったほうがいいですね。家族に自分のわがままを言うようなことは、したくなかったんです。なぜか? それは今は治っているので言えるのですが、私が幼少期の頃に弟は病気を患っていて、山形から東京に通院しなくてはならない状態だったんです。その様子を日々見ているうちに…、『自分のことで家族に迷惑は掛けたくない』という思いを、いつも抱くようになっていました」
モニタや誌面などに映し出される橋本マナミをチラリと見るだけで、たちまち感じるベルベットのような包容感。その花の種を見つけたような気がしました。自らは「自己表現が苦手」と言っていましたが、それは人の気持ちがわかりすぎるほどわかるから…。感受性が人一倍強い子だった証拠ではないでしょうか。その場に出くわす、すべての登場人物の気持ちを察知するできるから、自分の立ち位置を弁えることができる。そこには、“自分を抑える”という自己表現をし続けていた、とも解釈できます。つまり彼女は、正しい自己表現ができる子だったのだと理解したのでした。
「だからでしょうか…。女優としての仕事の場合は、与えられた役柄になりきることは得意だったりするんです。でも、バラエティとなると…、まだまだ勉強不足ですねぇ。素の自分を出すことが、まだまだ苦手のようです。でも今年は、『しっかりと自分を出せるように!』と頑張っています。小学校までは一切意見を言わない子だったんです…。友達にも、あまり本音を喋ることができなかったんです。そうしているうちに、弟の症状も改善してきました。その明るい兆しと同様の大きさで、自分自身も変えたいと思ってきたんです。もっと人前で表現しなければ、表現したいって…」
【中学生日誌】子どもから大人のマナミへの成熟
“本当の自分探しはじめた、いわば思春期!?”
小学校を卒業し、子どもから大人への準備となる中学時代からはどうだったのでしょうか。
「13歳の頃に、オスカーという芸能事務所に入ったんです。実は芸能の仕事は、早くからしていたんです。中学から高校時代はそれまでのような内気な自分が嫌で、そこから抜け出そうと必死に自分を探っていましたので。でも、やり方がわからなかった…。どうしたら抜け出せるのかわからないまま、一生懸命もがいていた自分を記憶しています」
感受性が強い分、周囲の人の気持ちがわかり過ぎるのでしょう。自分が前にでたら、人がどのような気持ちになるのか? 幼少期からのいわば鍛錬とも言える習慣からでしょうか、マイナス面ばかり見える子だったのかもしれません。
「オスカーという事務所はモデル部門と芸能部門がありまして、私はずっと芸能部に在籍させていただいたんです。ありがたいことに、当時は大きなお仕事やCM等たくさんのチャンスをいただきました。ほんと感謝しています。2003年16歳のときには、大河ドラマ『武蔵 MUSASHI 』に千姫役で出演させていただいたりもしたんです。いい役ですよね。でも…、いい演技ができませんでした~。グラビアという仕事の分野を、意識し始めましたのもその頃です。でも、最初はそれもうまく表現ができなかった…。太っちゃったりしたのもあって(笑)…。自分を見せるのが、すごく嫌な時期でもありましたねぇ。オスカーにいた頃は、まだ自分が確立できていなくて、自分の出し方を全然わからなかったです。プロとしてしごと与えられた仕事をこなさないといけないのに、『やらされてる感』みたいなものが自分の中にすごくあって、やる気はあるのにやり方がわからない。まさに空回りみたいな…。せっかくのチャンスを生かし切れていなかったんですね、ほんと『申し訳ありませんです』という言葉しか見つかりません」
【ハイスクール目覚め組】人との関わり方が見え、「女」へ
“自分探しの延長戦~永すぎた思「春」期”
「17歳で山形の高校から、東京の高校に転校したんです。言うまでもないことですが、東京での生活は様々な刺激を私に与えてくれました。でも、高校卒業したときです。大学に進学しなかった私は、『いま私には何が残っているのだろう?』って考えてみたりしたんです…でも、何もなかったんですよね。太っていたこともあったし…、仕事も全然なかったんです。毎日、どうしたらよいか葛藤して、模索していました…」
現在、30歳の橋本マナミ。“遅咲き”と言っても過言ではない可憐は花は、どんな土がいいのかどんな肥料がいいのか…、双葉からつぼみができるまで様々な葛藤があったよう。そんな自ら探究の日々を重ねることで、「少女」jは「女」へ、つぼみから花へと成長していったようです。
「当時は毎日、『自分には何が足りないんだろう?』って考えるようになっていましたね。それまではあまり考えたことはなかったんですが…。それで、分からないなら分からないなりに、『自分が興味ある事からやってみよう!』と答えを出して、自分の殻を打ち破らないとって考え、行動するようになりました。そして、より多くの人と接しようと心掛けるようになったんです。同時に追い詰められてもいたので、自ずと誰かに頼りたくなっていた時期でもあったんです。そのときから、人と深くかかわる事が苦にならなくなり始めました。こんな風に思い起こせば、本当の自分が見え始めたのは、東京で一人暮らしをしてからですね。それが、本当の自分が見え始めたトリガーみたいなものですね。東京で生きていく上で、自分に向き合わないといけない時間ができたわけです。まぁ実際、仕事がなかったからなんですが…(笑)。そこから変わり始めたと思います…。周りを気にして生きてゆく、私のなかの『遠慮』というツボが満杯になった時期でもあったかなぁ…と」
【一人暮らしのとき】負けず嫌いの自分が浮上
“このとき、愛人にしたいNO.1の橋本マナミが生まれた”
高校を卒業してからも、自分探しの旅を続けていた橋本マナミ。では、いまの地位が見え始めたのはいつ頃だったのでしょうか。“グラビアの橋本マナミ”となったのは?
「実際は、2年前くらいからではないでしょうか。いまから10年弱くらいの前の21・22歳くらいの頃も、結構グラビアの仕事をさせていただいていたんですよ。でも、自分の持ち味とか、どうやったら自分らしさが出せるのか?みたいなところが、まだまだぜんぜん分からなかったんです。毎回、模索しながら撮影していただいていたって感じでしたね。有り難いことに、そんな当時の自分でも当時からたくさんのファンの方に支えられいたんですけど…。ほんと、ありがたいことですね。それだけに、自分の思った通りの成果が出せない、さらに同期位の矢吹春奈ちゃんや瀬戸早妃ちゃん、小林恵美ちゃんたちに。完全に置いて行かれているなぁって自分で思ってて…。すご~く負けているな自分、って感じでした。ずぅ~っと悔しいし、ファンの方に申し訳ないと思っていました。それで、やっと24、25歳くらいになったときです。『こういうことやりたい!』ていうのが、徐々に自分のなかで固まってきたんですよ。それで、当時の所属事務所だったオスカーさんにお願いしたんです」
当時の彼女は、インプットがまだまだ足りないと思っていたようです。女優になるためのステップアップとして、自ら日舞や着付けなどを習っていたそうです。事務所へのアピールもしたかったのでしょう。
「だけど、上手くいきませんでした。そりゃそうですよね、いままでチャンスをいっぱいもらってきたのに、それに応えることができなかったんですから…。で、ドラマに出たければ名前を売らなきゃ、名前を売るためには、まずバラエティでがんばろうって決意して、それならまず特技が必要ね!って考えて、ゴルフを100切るまで頑張ってみたりもしました~。でも途中で気付いたんです、『芝居がやりたいのに私は何でゴルフをやっているんだろう…』って。なんだかんだ、いろいろ悩んだりして…。で、27歳のときです。事務所を移籍して、一から頑張ろうってみよって思いました。それが2012年。いまの事務所に所属させてもらえることになったんです!」
27歳の女性タレントともなれば、すでに出来上がっている歳ではないでしょうか。この歳で大物タレントが移籍するというのであれば、迎い入れる事務所側も売り出し方が見えてるので安心かと思いますが、当時の橋本マナミはまだまだ不安定な時期。それを引き受ける現・所属事務所のアービングの懐の深さにも感動を覚えます。しかしそれ以上に、このことを一番不安に思っていたであろう橋本マナミ自身のこの行動力、この意思の強靱さ、芯(心)の堅さは、もはや感動の領域です。
「27歳での移籍です。それを快く引き受けてくれた事務所に対して、すぐにでも恩返ししなくては…『いまの私にできることって何?』って考えました。『そうだ、私にはグラビアがある。いや、むしろグラビアしかない!』って割り切った回答が、自分のなかにコロリと登場してきたんです。そのあとはもう余計なことは考えず、死に物狂いでグラビアの仕事をやりました」
橋本マナミにとって、この選択は最後の賭けだったのかもしれませんね。そして、それが功を奏したのではないでしょうか。窮地に立たされたものだけが得られる、悟りにも似た集中力。一心不乱となった彼女だからこそ、本当の自分を見出すことができたのかもしれませんね。
「そうしたなか、たまたま移籍後の第1作目となった写真週刊誌『フライデー』の仕事で、スタッフ的にも読者的にも高い評価をいただいたんです。それを契機に、いろいろと仕事が広がっていって、現在に至るって感じなんです。そして、ようやく自分にしかできない“グラビア”というのを表現できるようになってきたかな、って思えるようになりました。これが“橋本マナミ”です、って訴えることができたような…。一般のグラビアって、やっぱりイメージの先には『セックス』があるじゃないですか。でも、“橋本マナミ”場合は、それだけじゃないって思ってもらいたい…。アイドルではできないことを表現したい、もっと悲しみや憂いとか、切なさみたいな、日本の大人の女性特有の美しさ、嫋やかさを表現できたらって願っています。それを自分の持ち味にしたいので、『和』の世界を大切にしています。グラビアに着物を織り交ぜた表現をしたり…、そうしているうちに最近、自信と言えるぐらいの力がついてきたかなぁって思っています(笑)。私は、この世界から生まれたきたんだ、って思うようにもなりました」
【愛人にしたいNO.1】これが彼女の本領なのか!?
“時代が追いついたのか~ちょっと前の橋本マナミ”
彼女の魅力を第三者の眼から分析してみましょう…しかも、女性目線です。「何事にも“NO”と言わないであろう、母性にも似た柔軟な姿勢」、「男性を立て一歩後ろを歩く、心の奥から垣間見える優しさ」が見えてくるんです。実際に会って、お話を始めてからの印象なので、かなり正しい見解かと思います。でも実際、そのような女性が現代にふさわしいかふさわしくないかは全くわかりません。が、事実として、30代以上の男性が購読する『フライデー』にでの展開でヒットすることになったのです。彼女からは、かつて日本に生息していた「大和撫子」とはこのことか?と思わせるほど、嫋やかで美しいオーラを放っていましたから…。それも単に優しいだけでなく、「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」といった多面性も併せ持っている。きっと和服姿となれば背筋をピッ伸ばし、凛とした表情を見せてくれるでしょう…実に奥行のある佇まい。女性としても、非常に勉強になる女性だったんです。
『一歩引いて育った幼少期の体験が、私をこうさせたのかもしれません。早熟だったんでしょうか。いまになって、やっと自分の外見と年齢が重なり合ったのかもしれませんね。ちょっと本音を言わせてもらいますと、実は移籍を考えていた頃、正直こうなるなんて全く思っていなかったんですよ。当時は、やっぱり最初は女優メインで受け入れてくれる事務所を探していたんです。でも、ご承知のとおり、27歳での移籍は厳しいじゃないですか。ありがたくご紹介していただいた事務所でも、次々と断られ続けていたのが事実なんです。そして、ようやく移籍先が決まったんです。もう崖っぷち状態の自分に励ますためにも、また逆にきっぱりと諦める気持ちを作りためにも、その第1弾の仕事となった『フライデー』さんで、出せるだけの自分を出して、もし受け入れられなければ、この世界で生きることは辞めようってう気持ちで臨んだんです。そんななかで、沢山の人に助けていただきました。これまでダメなときだって、ほんと人との巡り合いにはすごく恵まれていたと思うんです。そういうのが重なって、徐々にいまの自分に繋がってきたんですね。ほんと、徐々にでしたけど…(笑)』
“橋本マナミ”が、時代に追いついたと思う人もいるかもしれません。でも、実際に話してみると、その考えには少々違和感を覚えるのです。彼女の心の芯はブレてないと…。確かに、最初はさまざまな肥糧に埋もれていたのかもしれません。いまでは時の流れとともに洗われて、ようやく本当の自分を見つけ出すことができたわけなのですが、実際はそれは昔のまんまの“橋本マナミ”だったのでは?と思えてならないのです。で、ようやく時代が追いついてきたのだと…。いや、ようやくこの時代に生きる男たちが彼女の魅力を可視化できるようになった、という表現が確かかもしれませんね。
【イマの私】橋本マナミのモチベーションは何?
“時代が追いついたのか~現在進行形の橋本マナミ”
27歳という比較的遅い年齢でのブレイク。大抵のアイドルや女性タレントであれば、かなり前に諦めていたと思うんです、正直に言わせていただきますと。で、そこまで自分をがんばらせた思いといいますか、そのモチベーションはどういうものだったのですか?
「今だったら、素直に“親のため”って言えるんですが…、私も正直に言わせていただきますが、苦労していたあの頃は、あまり考えてなかったですねぇ。今思えば…、それが悪いところなんですけどねぇ(苦笑)…。芸能界に居続けた理由を強いて言うなら、2006年22歳の頃、『シオンの桜』というお芝居を初舞台・初主演で銀座の80人ほど入る劇場でやらせていただいたんです。4日ほどの短い期間の講演だったのですが、日に日にお客さんが増えていって最終日には満席で立ち見が出たりして…、その時に感じた快感や観客の皆さんとの一体感・心の共鳴、そしてファンの励ましなど、今思い出しても胸が熱くなるほど、感動をいただいたんです。それがパワーとなって、ここまでやって来れたんだと思います。できでば再演したいほど、素敵な脚本でした。好きな人と戦争によって引き裂かれてしまう恋愛のお話で…。いま演じたらって考えると、いろいろアイデアも出て、楽しみでしょうがありません。またお芝居したいですねぇ~(ちらりとマネージャーさんの顔を伺う笑顔が可愛い!)』
初芝居の演技では、緊張で頭が一杯となる人が多いなか、その役を“橋本マナミ”演じきったのでしょう。ある意味、日に日に増すファンたちに肩を押されまくったのかもしれませんね。演じることの高揚感、そして観客との一体感が頂点に達して、いわゆるアクターズハイを早くも体感したんですね。まさに女優にふさわしい逸材ではと思わせるほどではないでしょうか。それが現在は「愛人にしたいNO.1」の称号をもつ、グラビアタレントとなっています。そこの彼女自身、違和感がないのでしょうか?
「いいえ、そこに違和感はありませんでした。この先、また女優となって演技をしていきたい思いは強くもっています。ですけど、いま自分にできる最高の仕事がグラビアだと思っていますから、プライドをもってグラビアに臨んでいます。そこで“橋本マナミ”にしかできないグラビアを、表現していきたいって思っています。『フライデー』に登場するようになってしばらくして、まずは“癒(イヤ)らしいお姉さん”というキャッチコピーをつけてくれたんです。その後、TBS系のテレビ番組『サンデー・ジャポン』さんに出演させていただけるようになって、そこで“昼下がりの団地妻”というキャチコピーを付けていただいて(笑)。そして現在は、『愛人にしたいNO.1』なんて…。グラビアでキャッチコピーなんて、なかなか付けてもらえないものだち思っていたので、凄く嬉しかったんです。壇蜜さんもその頃から『フライデー』で人気となっていて、“すぐそばにいるちょっとエッチなおねぇさん”としいうキャッチフレーズだったんです。そこで私には“癒らしいお姉さん”として、壇蜜さんの裏側で登場させてくれたんです。壇蜜さんのグラビアとはちょっと違う、ブラウスやスカートを着用してから展開する、強くないグラビアというのを…。見てる人が、自然に入っていける情景のなかで繰り広げられる癒らしいグラビアを」
【ダメ出しの連続】本当の自分は人が見つけてくれるもの!?
“気が付くと天を見上げる私~バラエティのなかの橋本マナミ”
「TBS系のテレビ番組『サンデー・ジャポン』をやらせていただいているタイミングで、『バラエティ番組にも出演して芸の幅を広げてゆけたら…』、そう願っていました。そうしたら、運よくバラエティ番組にも呼ばれるようになったんです。でも、ちょっと厳しいですね、まだまだ。自分磨きが足りないって、つくづく思いました。制作のスタッフさんを含め、視聴者の皆さんは壇蜜さんのイメージの延長に、私もいるのだと思っているかと思うんですけど…。実際、地の私は壇蜜さんのようにゆっく りとしゃべったり、ちょっとけだるい感じを出してしゃべることができないんです(笑)。実際の私のキャラ、そんな感じじゃないんですよ、すみません」
なるほど、橋本マナミのしゃべり方は確かにそう。自分の中心から湧き上がる思いを、ブレることなく誠実に正面から話タイプに見えました。かと言って、我を張るわけではなく、相手の思いにも気を配る凛とした佇まいをもっているのは、このインタビューを通してわかったことでした。でも、それに対して、彼女どう対応しようとしているのでしょうか。ストレスになってないのですか?
「このことが、いまの私の大きな悩みの一つですね。でも、昔はこれを私一人で悩んでいたので、確かにストレスになっていましたね。でも、今は違うんです。事務所のスタッフとか関係者の方々に、相談できるようになったんです。この点が、昔の私と大きく変わった点でもあります。本質的な部分へと鋭いアドバイスをいただいては泣きそうになりながらも、ほんと感謝しています。今まで言われたことのないようなことを、沢山アドバイスしていただきましたから…。普段の生活の中での努力の足りなさや、苦手なことは後回しにしてりしている悪いクセなんか、全部見抜かれているんです。それを親身になってアドバイスしてくれるんですよ。ときに怖く(笑)。そして、こうも言われました。それらすべてにきちんと対峙して、それを乗り越えようとする向上心があるのなら、今後も一緒に仕事をしていこうって言われて…」
なるほど、やはり第三者からの意見は大切ですね。それが経験値の高い人なら尚更ですね。いくら自分で考えても、橋本マナミをどうか評価するのは同じく第三者であるファンの皆さんですものね。でも、そんなキツイこと言われて大丈夫でしたか?
「負けず嫌いな部分がすごくあるので、いつも最初は凄くムカつくんです。そして悔しさが込み上げてくる。でも、すぐに納得しゃうんです。ほんと、その通りなので…。次に『このままじゃ私ダメだ!』と思って、もがきながら前に進もうとします。その人から認められる存在にならなくちゃって思いながら。まだまだですけど…、いつかその人と対等に話ができるようになりたいと思っています」
その連続から、今の“橋本マナミ”が形づくられてきたわけですね。つぼみから花開くって感じで…。
「そうかもしれませんね……。そんなスタッフとのセッションができるようになったきた頃、10年ぶりに写真集を出そうっていう話になったんです。それで、今までにないグラビアをやりましょうという話になり…。そこでニプレスを外して、“胸ポチ”を出そうということになったんです。“胸ポチ”って、実はグラビア界ではかなり禁断の領域なんです。自分としても、すごく悩みました~。これを出したら、次はもっと過激なことを求められるんじゃないか…って思って。でも、よく考えたら、『これやらなければ前に進めない!』という答えが出てきて、さらに『やらなかったところで、自分にはもう守る物は何もない』ってことにも気付いて…。『やります!』って言ったんです(笑)。その写真集をキッカケに、“愛人にしたいNO.1”のキャッチコピーを付けていただいたわけなんですよ~。それで、走り続けることができてるん感じですね。私の細くて今にも切れそうなものだった芸能人生も、ここで死ぬ気で取り組んだことをキッカケに、少しずつ太くなっているんだなぁって思っています。他のタレントの皆さんに比べると、確かに時間はかかっています。でも、それも大切な時間、必要な時間だったのだとつくづく思っています。埋もれていた時代も、今の肥糧となる出会いをいっぱいしてきたのだと…。(笑)こんな遅咲きのパターンの方は、なかなかいないですよね。25、26歳でデビューして、30過ぎてからブレイクしたっていう方ならいるかもしれませんが…。私のデビュー、13歳!ですから・・・(笑)」
【30歳の恋愛白書】ポロリと本音トーク!!
しかし、果たして“橋本マナミ”、「愛人」と言われることについて、一人の女性としてどう考えているのでしょうか。
「嬉しいです嬉しいです! とっても嬉しいことです!! でも、ほんとは『お嫁さんにしたいNO.1』が良かったです(笑)…。でも今さら、この歳になってお嫁さんキャラも、イタいだけじゃないですか(笑々)。学生時代から、愛人キャラで見られることはすごくあったので、自分に向いているんだなぁって思ってました。『おじ様と付き合ってそう』とかって、言われてましたね(笑)。…“愛人”って、男性が求める1番贅沢な領域じゃないですか。奥様も子供もいて、幸せいっぱいの方がそれでも“愛人”が欲しいって思うものですよね。そういう女性のイメージで見てもらえることは、すっごくいい見え方だと…ほんと有り難いこと、光栄です」
では、“橋本マナミ”は、リアルに“愛人”体質なのでしょうか?
「実生活だったらもちろん、本命がいいですよ~。たった一人の私を愛してほしいですね。実際の私は、付き合った人に依存してしまうタイプなんです。ぐいぐい追いかけちゃうタイプなんで…うまく距離感がとれなくなるんです。で、いつもそれが障害になっちゃいますね(笑)。じっと待って3歩下がって着いていく…、実生活でもそんな愛人タイプの行動ができれば、恋愛ももっと楽になるのかなぁって思いますけど…」
【マナミの近未来】女優という彼方へ
“次のステップ~女優として男をたぶらかしたい”
今後は、どのようなステップアップを望んでいるのでしょうか、やはり女優!?
「はい、最終的には女優業をやっていきたいと考えているので、今年は女優業への足掛かりとなる年にしたいと思っています。いま一番自信をもってできるのはグラビアなんですけど、これから一番戦っていきたいと思うのは、女優業なんです。女優業が一番自分が出しやすいところだと思っているので…。以前は、あまり人と話すことに努めなかったので、曖昧なまま遠のいるんですけど、今の自分は違うって、自分が一番わかっているんです。周りの意見も聞けるようになりましたし、自分の意見を交えて、物事を発展させてゆく面白さも知りました。なので、演技への思いと今の行動力を重ね合せれば、もっと成長できるのり代は十分あると思ってます」
2014年は、“橋本マナミ”を目にしない日はないくらい、大人気でした。グラビアをはじめ、バラエティ番組や旅もの・グルメもののレポーター役までも。そんななか、これは自分に合ってるなぁと発見したものなかったのでしょうか。
「ほんと幸せなことに、去年なんかはいろいろなお仕事をさせていただきましたね。そんななか一番楽しかったのは何かというと、やはり女優の仕事でした。なので、今後もそこを目指して、自分を磨き上げていきたいと思っています。そして、いい作品をみんなで作って、仕上げていきたいんです。またあの初舞台のときのような、感動や達成感を味わいたいと思っています! 舞台の感動をもう一度味わいたいんです。役者同士の意見交換なども、自分にとってすごく刺激になりますし…。お客さまやキャストの皆さんとの一体感、毎回の公演ごとにアドリブで変化していくワクワク感は堪りません。そして、それに対するお客さまの反応も自分の目の前で、肌で感じ取れますから…。そうして迎えた千秋楽。その達成感は、涙が止まらないくらい感動しますよね…」
【10年後の私】永遠のセックスシンボルに
芯のある女性~だからこそ、柔軟に演じられる
実際、2015年はどのような“橋本マナミ”を露出していく予定なのでしょうか?
「いろいろ相談している段階ですが、今年秋以降くらいから演技にシフトできたらと願って、事務所と話し合っているところです。もしこれを読んでいる舞台やドラマなど、お芝居関係の方いらっしゃったら、お芝居のオファーくださ~い(笑)。かといって、他をお断るするなんて考えは毛頭ありません。バラエティ番組も、今度も積極的に出ていきたいと思っているんです。バラエティ番組って、毎回が“試合”なんです。たった一言の発言で、勝負が決まっちゃったりするんですね。やり直しがきくわけでもないので、すごいプレッシャーなんですよ。でも私、負けず嫌いなので、その場で勝利できたらって、いつも挑んでいるんですね。周りから見たら華やかな世界に感じるかもしれません。私も努めて涼しい顔でいるかと思います…。でも、実際の心の内は…それはもう煮えたぎってますよ、アッチィッチィです。もう必死で頭を回転させているんですが、それが全然…。出演しておることに楽しさと快感がまだ得られないでいます。だから、時々スタジオの天井を見上げて、溜息ついちゃたりしちゃうんです(笑)」
“橋本マナミ”のこの勤勉さは、どこからきているのか。いったいどんな女優になりたいのでしょうか?
「ズバリ、男をたぶらかす役(笑)がやりたいです。『その役なら“橋本マナミ”しかないでしょう』というレベルまでになれたらって願っています。実際の生活では、とてもじゃないけどできません。むしろ、たぶらかされるほうなので(笑)…。表ではいい顔しているのに裏では悪女のような…2面性のある悪女役ほどやりがいががあります。2004年にテレビ朝日系列の“木曜ドラマ”の枠で放送されていた『黒革の手帖』。そこで米倉涼子さんが演じていた主役、原口元子みたいな役を演じたいんです。そして、あとは愛人役ですね。もとろん不倫で、ドロドロ~のドロドロ~系です(笑)。自分の本質とは全く違う役のほうが、私の場合、じっくりと演技にのめり込めるんです。そのためにも、いろんな考え方や表情を見たくて…。多くの人とお話をするのって、ほんと勉強になります。そして、それに気付きの遅かったじゃないですかぁ(笑)。だから、今それを取り戻そうと必死なんです(笑)」
では、そのままステップアップしていった“橋本マナミ”の10年後とは? 中長期的の目標は定めているのでしょうか?
「ずっ~と女優をしていたいですね。木村多恵さんのような、ちょっと影のある演技ができる女優になっていたいです。それでいて深津絵里さんのように、ずっとイメージの変わらない女優でいたいんです。自分があるから、どんな役にもなりきれる…。あ、ちょっと矛盾しているように思えますね…。それには相当の演技力は必要ですし、それ以上に本人にあふれ出す魅力がないとダメだと思います。なので、いまの私は毎日が勉強です。“セックスシンボル”としても、一人の女性としても、いつまでも魅力を失わず、時代に左右されない女優になりたいって思っています!」
ブレイクして数年ですが、芸能生活はすでに18年目。きっとたくさんの悲しい思い、悔しい思いをしてきたに違いありません。なのに、「もともと自分の事を話すのがとっても苦手なんです」と言いながらも、インタビューに対し丁寧に応えてくれた彼女。言葉に詰まりながらも自分なりの口調で、「そこまでいいの?」って確認してしまうくらいの本音を語ってくれました。常に全力投球な彼女。自分の芯(心)から、その思いを汲み取る姿勢は、対面していて非常に心地よかったです。“なまみのマナミ”は、実に芯の通ったまっすぐな茎を柱に、ときにエロく、ときに上品な美しい花を咲かせていたのでした~。
「癒(いや)らしいお姉さん」、「昼下がりの団地妻」「平成の団地妻」、そして「愛人にしたいNO.1グラドル」の異名をとる“橋本マナミ”と、“なまみのマナミ”との出会い。幼い頃からの豊かな感受性と優しさから得てきた様々な“感情”は衣となって、強靱なトルソーに包まっている。これが、このインタビューを終えたときの“橋本マナミ”のイメージです。自らの芯(心)をしっかともっているからこそ、周りの期待を純粋に受け止め、それを自分のフィルターにすぐさま通しながら解き放つこともできるのでは。そうして自分自身とまったく異質な人物になりきれる…。もしや彼女は、演技をするために生まれてきたのでは…とも思えるぐらいでした。
皆さんもぜひ、そんな“橋本マナミ”の未来を応援してください!!
【グラビアはSEXです!】Behind the Scenes「なまみのマナミ」
彼女は常々、「グラビアはセックスです」と言う。この日も、彼女は言ってくれました。実はそれだけで、インタビューは十分だったのです…(笑)。。。
◇衣裳クレジット
Model/Manami Hashimoto
Photograph/Hiro Kimura
Styling/Miwa Nanamori
Hair & Make-up/Masataka Enomoto
Video/Team Hiro Kimura
Video Editing/Katagiri(D-fact)
Text/Yuko Yano