ハリウッドはこれまで、核戦争やパンデミック(病気の世界的な流行)、小惑星の衝突、エイリアンによる侵略などなど人類の存亡に関わる脅威を好んで映画にしてきました。
それなのに人気に最も敏感なこの映画産業の中心地で、人類にとって最も身近で大きな脅威である「気候変動」というテーマを、「なぜ意図的に避けられてきたのか?」と思わざるをえません。そして、なぜそうしたのか? 実に奇妙なことです。
2018年夏は、英国から日本、ギリシャ、アルジェリアまで世界各国が記録的熱波に見舞われており、この影響による負傷者や死者も増えています。そして、この気候変動によって、このような猛暑が世界を襲う危険性は、将来的に現在の2倍にもなると予想されているのです。
世界の1万5000人以上の科学者たちは2017年末、米『バイオサイエンス』誌の「人類への警告」という書簡に署名しました。地球に重大で取り返しのつかない損害がもたらされる前に、人類が引き起こしている気候変動を止めるための「道徳的要請」に応えるよう一般の人々に促したのです。
もはや「気候変動」の危機は、目前に迫りつつあります。実は、もうその真っ最中なのかもしれません。にもかかわらずハリウッドには、これまで「気候変動」を文明を崩壊させる怪物のように捉え直そうとした人はいませんでした。人気映画というものは、おおよそ伝統的にさまざまな不安を大衆を楽しませるスペクタクルへと変容して伝えてきたのだと思うのですが。
稀有な存在として、「気候変動」をテーマにした大作映画『デイ・アフター・トゥモロー』
気候変動が起こった後の世界を描いた映画については、良作がそれなりにあります。
たとえば『ブレードランナー2049』や『ソイレント・グリーン』、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』、『A.I.』などですが、こういった映画は「気候変動」をテーマにしたものとは言えません。
気候変動は、これらの映画の中の世界を支える構造の一部に過ぎません。
1995年の紛れもない駄作『ウォーターワールド』(ケビン・コスナーが「ドライランド」と呼ばれる陸地を目指して航海をする物語。温暖化の進行後の世界を描いている)には、1億7500万ドル(約194億円)もの製作費がかかりました。ですが、興行成績は、ハリウッドはこの失敗から、未だに立ち直っていないのかもしれません。
そもそも「気候変動」を描いたパニック映画は、流行遅れなのです。1つだけ大きな例外を挙げるとすれば、『デイ・アフター・トゥモロー』でしょうか。
ですが、「これは出来がイマイチである…ほとんど科学的根拠に基づいていない」という声も多いわけで…それに公開されてから、すでに14年間が経っているわけです。なので、気候変動映画の金字塔とは言えませんね。ハリウッドなら、もっといい映画を作れるはずでしょうし。
アカデミー受賞作の『不都合な真実』のような悲惨なドキュメンタリーが、少なくとも採算が取れたことを思い浮かべた人もいるかもしれません(ただし、2017年公開の『不都合な真実2 放置された地球』の興行収入は540万ドル(約6億1000万円)と、前作のおよそ10分の1に終わりました)。
他にも気候変動をテーマにしたドキュメンタリーは数多くありますが、そのどれもに『世界を欺く商人たち』、『The Eleventh Hour』(原題、タイトルを和訳すると『差し迫った時間』)、『Greedy Lying Bastards』(原題、タイトルを和訳すると『強欲な嘘つき野郎』)、『Cowspiracy』(原題、カウスピラシーとは牛の「Cow」と陰謀を意味する「Conspiracy」を組み合わせた造語)のような、陰鬱で少し陰謀論めいたタイトルがついています。
そして、これらのどの映画にも、2006年公開の『不都合な真実』がもたらしたようなインパクトはありませんでした。おそらく、これらの映画には好奇心を掻き立てるところがないのです。どちらかと言えば、何かのセミナーに参加する前に、「読んでおくように」と促される指定教材のようですから。
『ウォーターワールド』の世界観は?
映画製作者やスタジオは、「地球温暖化によって引き起こされる気候変動」というテーマが、「超巨大ザメに立ち向かうジェイソン・ステイサム(『MEG ザ・モンスター』)」といったものより魅力的でない理由は理解できているようです。
アクション映画は、とてつもない個人が周囲の環境を自らの意志に従わせる過程を描くものです。たとえばトム・クルーズを例に取れば、彼はテロリストの出現やプルトニウムの紛失といった厄介な状況のなかで、敵を叩きのめし、飛行機から飛び降り、妙な走り方を見せながら最後にはすべてに決着をつけてくれます。
それとは違って「気候変動」の恐ろしいのは、「主役がどれほど並外れた個人であろうと、止められることは用意ではない。むしろ無理」ということが見えるのです。この現状は、なすすべもなく世界中へと徐々に進んでいくものなのです。ストーリーの中心に据えるべきカウントダウンはありませんし、最終決戦の舞台となるような中央制御室もありません。いくら予告編で画面映えするからといって、「ザ・ロック」ことドウェイン・ジョンソンがロケット攻撃をお見舞いすれば解決するような問題でもないのです。
とはいえ、このテーマの不人気には、より根本的なことが影響を与えているのかもしれません。人類の活動が地球に与えているダメージは、言うまでもなく愚かで自滅的なものです。われわれは単に、それを面と向かって言われたくないのです。
環境ドキュメンタリー『The Age Of Stupid』(原題)が大した影響をもたなかったのはこのためでしょう。この映画は「ピート・ポスルスウェイトが演じる2050年代の『地球最後の男』が、21世紀初めの人間たちがいかに短絡的で愚かだったかを、信じられないという様子で振り返る」という内容のものでした。生真面目さの押しつけは、興行的・批評的な成功にはつながりにくいのです。
人々は基本的に、「地球をほとんど取り返しの付かないほど台無しにしてしまったのは、あなたたちだ」なんて言葉は聞きたくありません。
ですが、気候変動パニック映画は、このようなメッセージをとにかく声高に繰り返し伝えなければならないものなのです。それは正しいことでしょうし、誰もが同意するでしょう。ですが、人々は「強欲で軽率、傲慢で嫌なやつだ」と言われるために、映画鑑賞料金を支払いたいとは思いません。大半のパニック映画とは違い、黒幕は欲深い企業や悪徳政治家、エスカレートする研究を止められなかった科学者だけはありません。
そう、われわれは遅かれ早かれ、すべての観客が黒幕であると言うことに気づくのです。早く気づいた人は、映画館に行く衝動は減少し、遅く気づいた人は二度と気候変動パニック映画は観に行きたくないと思うのではないでしょうか。
Source / ESQUIRE UK
Translation / Wataru Nakamura
※この翻訳は抄訳です。