若干30歳という若さで、かつてフランクミュラーも所属し、 フィリップ・デュフールをはじめ世界的に有名な 独立時計師が所属するAHCI(独立時計師アカデミー)において、日本人初の正会員となった菊野 昌宏氏。 彼は独創的な「和」のデザインで、 世界の時計業界に新しいジャポニズムの風を吹き込む。
《Profile》
菊野 昌宏(きくの・まさひろ)
…1983年2月8日生まれ。高校卒業後、自衛隊に入隊。2005年、自衛隊を除隊し、ヒコ・みづのジュエリーカレッジにて時計について学ぶ。その後、同校に研究生として残り、独学で機械式時計を作り始める。2011年、世界の独立時計師によるAHCI準会員となる。 2013年には、その独創的なデザインと精緻な時計作りが認められ、日本人として初めてAHCIの正会員となる。
指定された場所に向かうと、そこはとてものどかな住宅街だった。世界の時計ファンを唸らせる時計が生みだされる所と身構えていたのが拍子抜けするほど、至極普通の穏やかな街並だ。出迎えてくれた菊野氏は、爽やかで涼しげな印象で、落ち着いた雰囲気に包まれていた。そして、案内されたアトリエは、文字通り、時計を生みだすための空間だった。
こぢんまりとした空間に、所狭しと置かれた机や作業台。あらゆるスペースは、金属を加工するための機械、顕微鏡のような器具、大小の工具など、時計を生みだすための道具で埋め尽くされている。そこは、まるで整然とした理系の研究室と、非整然とした町工場が一体になったような独特な雰囲気だ。壁際には、彼の趣味でもあるこだわりのカメラや、自ら撮ったというセンスの良いモノクロ写真が飾られ、ある種の大人の秘密基地といった風情すらある。
作品を見せてもらった。金属を重ねて打ち、木目のような模様をうむ木目金を使ったフェイスに、折り鶴。パタパタと羽をならし回転する鶴が、時間を告げる。静謐なアトリエに、繊細ながらも確かな音が響き渡る。「チクタク、チクタク……」 菊野氏によって命を吹き込まれた時計達の鼓動だ。 彼の時計のこだわりは、その徹底した手仕事にある。フェイス面のデザイン。小さいムーブメント。歯車にリュウズ。微細なネジからバックルの留め具。驚嘆に値するのは、ベルトの革とガラス以外、少なくとも表面に見える範囲は何から何まで全て手作りだという。例えて言えば、パンを作るために小麦やバターまで作るような、それくらい果てしない作業だ。
直径30ミリという小さな世界に新たな「時」を生みだす、若き匠。彼が時計を作るきっかけは何だったのか。その原点をたどってみたら、全く意外な所で時計と出会っていた。それは、高校を出てから入隊した自衛隊だった。
一体、なぜ時計がそんなに高価なんだ
「そもそも自衛隊に入ったのは、あまり学校の成績が良くなかったので、大学の進学を考えていなかったのです。とくに勉強したいものというのもなかったですし、デザインの専門学校という選択肢などもあったのですが、何かをすごくやりたいという訳でもなかったので、もし専門学校に行っても、2年間遊んで終わるだろうな、という気がして。それで、“進路、どうしようかな?”と思っていた時に、たまたま自衛隊の説明会を聞き、まんまと入隊してしまいました」
しかし、そこで彼は運命の出会いをする。それは、ある時計好きの上官がしていた機械式腕時計で、約30万円の時計だったという。当時、彼自身は数千円のクオーツ時計をしており、機械式時計についてはほとんど知らなかった。高そうだなという印象はあったものの、何でそんなに高いのか、率直に言ってわからなかった。だが、そのちょっとした引っ掛りがきっかけで、ある日、本屋で時計雑誌を手に取る。そこで、さまざまな時計の存在を知った。そして、何より彼の心をとらえて離さなかったのは、時計という器ではなく、機械式時計の中の機械そのものだった。その写真をみた瞬間、彼の鼓動は「カチカチ……」と音を立て、新たな時間が動きだした。
「機械の写真をみて、『これは複雑で面白そうだな』と思ったのです。しかも、電池や電気を使わないで、ぜんまいで動いている。こんなアナログなものがまだあるんだ、というのにビックリしたし、かつそれが何百万とか何千万とかするにも関わらず、愛好家が一杯いるというのも『すごいな』と思ったんですよね。こういう世界があるんだ、ということで、時計に興味を持ち、自分でもいくつか時計を買って使いました」
どうしても自分で作りたくなり、歩み始めた時計師人生
どこの世界でも名をなす人が強いパッションに突き動かされるように、菊野氏も4年間いた自衛隊をやめ、時計の世界に足を踏み入れる決意をする。
「雑誌の中で、スイスには独立時計師という人がいて、“個人で時計を作り、生計を立てています”みたいな記事をみて、それで『時計って、一人で作れるのだ』と思ったんですよね…。
…例えば、車などの工業製品は、一人で作るのはまず無理じゃないですか。でも、時計はそういうことをやっている人がいるのだな、と。それで、どうしても自分でやりたくなってしまって、日本で時計について勉強できる所を調べ、ヒコ・みづのジュエリーカレッジ(渋谷)という学校がでてきたので、そこに入学しました」
さらに、つづけて語ってくれた。
「学生時代に、国内外の時計の工場見学をさせて頂く機会がありました。日本のセイコー、スイスでは複雑時計を作っている工房などを見学しました。日本では、数千万もするような機械で部品を削り、すごく工場だな、という現場を目の当たりにしました。一方、スイスの独立時計師の工房には、むかしスイスで使われていた結構古い機械が一杯ありました。かつて日本のクオーツ時計がたくさん売れて、スイスの時計メーカーが廃業状態になったときに、そういう機械が割と容易に手に入ったらしいのです。長く時計産業が続いたお国柄ですね。日本とはそういう基盤が全く違うので、日本で同じような機械を手に入れるのは難しいだろうし、自分で時計をつくるようになるとしても、修理などをしながらお金を貯めて、道具を揃えて、という風にずっと先のことだろうな、と思っていました」
「万年時計」との出会いとハンドメイドへの道
「そんなときに、“万年時計”(*1850年、田中久重がつくったからくり時計の最高傑作)の復刻プロジェクト番組をみました。昔の人は、何もない状態というか、そんな時代にそんなにすごい時計を作っている、しかもその実物があるということに驚きました。それで、その限られた工具とか、学校の環境の中でどこまでできるか、というのにチャレンジしてみようと思い、研修生として学校に1年残りました」
そこで、菊野氏は学校のカリキュラムに存在しない機械式時計をつくり始めた。いくつかの時計をつくり、トゥールビヨンにも挑戦した。
「トゥールビヨンは、(研究生の)最初の年に作りました。一番初めに作ったのは、よたよたというか、かろうじて動くトゥールビヨンですね。基本的には独学で、本とかをみて、どう作ろうかというのを考えました。ただ、その部品をどう作るかというのは未知だったので、この時にノウハウ、といえる程ではありませんが、『ここを削ってこうやってやれば、なんとなくできるのではないかな?』という感触をつかみました。そして、今ある道具でもなんとかできるのではないかな、という手応えがありました」
一体、彼を駆り立てるものは何なのか、単純に興味が湧いた。
「昔の人ですね。過去の人がものすごいものを沢山つくっているので、それがモチベーションになりますね」
とても落ち着いた語り口で、一つ一つの質問に丁寧に答えてくれる、若き匠。彼には、時計作りにおいて求められるような、正確さと誠実さ、そして一定の安心感がある。そんな穏やかな印象の菊野氏からは、かつて自衛隊にいたという雰囲気は、完全に消え去っている。だが、自衛隊で学んだことは、少なからず今でも影響を与えているようだ。
「楽天的に物事を考えられるようになりました。深く根を詰めすぎない、というか、ネガティブ思考をポジティブ思考に考えられる様になりましたね。自衛隊の中で最初に教えてもらったのは、『バカになれ』。それで、すごく楽になったような気がしますよね。確かにそれは、今でも残っていますね」
>>> 彼の時計作りを支えるこだわりと、今後の展望については【後編】へつづく