フランスを代表する俳優アデル・エネルが、映画業界の性犯罪者擁護を理由に引退を宣言した際、具体的な事件として挙げたひとつに「ドミニク・ブトナ事件」がありました。男性による男性への性的虐待疑惑といったスキャンダル性以上に、この事件には想像以上に複雑な問題が背景に潜んでいるようです。 

容疑者は文化省機関CNC(国立映画センター)のトップ

劇場チケット、テレビ・ビデオ映像など販売額の一部を税金として国が徴収し、それを映像制作のために還元する優れた仕組みをもつフランス。その資金を振り分ける中枢機関がCNC(国立映画センター)です。そしてCNCは文化省直下の政府機関であり、支援先は主に制作会社、配給会社、セールス会社、興行会社どこにどれだけ支援金を出すかを決定する組織なのです。つまりそのトップは、映画業界にとってどれだけ重要な存在かは容易に想像がつきます。

とは言え、その事件が発覚したのちの選挙でブトナは再選を果たします。これに対し、監督組合など一部の業界グループや一般からの声は、「事件が解決するまで彼の地位は保留にするべきだ」と反発しました。ですが結局、現在に至るまで彼はプレジデントの席を明け渡していません。ちなみにCNCは、カンヌ国際映画祭の公式パートナー機関でもあります。また彼は、マクロン政権に非常に近しい人物として語られる人物でもあるのです。

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Sylvain Lefevre//Getty Images
ドミニク・ブトナ(Dominique Boutonnat)、クロード・ルルーシュ(Claude Lelouch)

被害を訴えたのは「代父」をつとめる21歳の男性

ブトナを訴えたのは、彼の「名づけ子(filleul)」。名づけ親(parrain, marrain※)は出生後、協会で洗礼を受ける際に立ち合い、赤子の名付づけ親や後見人のような存在となります。血縁ではありませんが、小さい頃から知っている「おじさん」と「甥っ子」に似た関係性。その「名づけ子」の男性(当時21歳)が2020年の家族旅行時に、同行したブトナにより性的暴行を受けたと告発しました。

AFP」が申し立て書類を確認したうえで伝えたところによれば、事件は同年8月3日の夜、ギリシャへのバカンスに一家で旅行に行ったギリシャで人気(ひとけ)のなくなったプールで泳いでいたところ、「自分の性器に触れてきたため、それ以上自分に触れないように仕方なくブトナに手淫(しゅいん)した。その後、ブトナがフェラチオをするよう強制しようとした」とするものでした。

ハリウッドレポーター」によれば、ブトナが「映画およびテレビ業界のセクシュアルハラスメントに対抗するイニシアチブ」を発表してから間もない、同年10月に被害者の青年は訴え出ました。そうして2021年2月にブトナは拘留され、強姦未遂と性的暴行の容疑で起訴されたものの、検察は強姦未遂での立件を手放し、最終的に性的暴行で裁判にかけることを選びました。 

「私たちが望むのは、ドミニク・ブトナが法廷で自分の行為に対して責任を負うことです」と、今や23歳となった被告の弁護士であるカロリーヌ・トビーは、フランス通信社(AFP)に語りました。そして、「完全な司法調査の結果、裁判官はドミニク・ブトナを法廷に送致する十分な証拠があると判断したのですから…」と彼女は続けました。

※映画界では、新人にアドバイスする先輩的な大御所俳優を指すことも。 

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Francois Durand//Getty Images


性暴力裁判で被害者の口をふさぐ「リベンジ訴訟」

警察での拘束が終わった2021年2月、ドミニク・ブトナは強姦未遂と性的暴行の罪で起訴されました。しかし検察側は最終的に、性的暴行の裁判を要求。強姦未遂に関しては除外していたのです。そして裁判官は同年9月28日(水)の判決で、ブトナ側の陳述に従いました。そんなブトナは、被害者男性との身体的接触自体があったことは認めるも、今度は弁護士を通じ「訴えたことを訴える」と、いわゆる“リベンジ訴訟”を仄めかしたというわけです。

そしてドミニク・ブトナの弁護士であるエマニュエル・マルシニは、「まだ主要関係者に通知されていないにもかかわらず、検察庁がこの送致情報を発表したことに憤慨している」と述べたのです。マルシニによれば、「検察は起訴状で強姦未遂の罪を放棄しなければならなかったため、面目を保つための行為だ」というものです。「捜査によって明らかになった要素に直面し」、「告発の虚偽性を証明」したということ。「架空の犯罪の糾弾と、誹謗中傷の訴状が提出された」と訴えはじめました。

フランス通信社によれば、捜査の結果、「ドミニク・ブトナ氏が性的な侵入を行う意図を持っていたことを立証することはできなかった」ということ。しかし、CNCの会長は、「名づけ親にキスをしたことや、名づけ親のベッドに裸で横たわり、その性的な問題に対する未熟さと同性愛の方向性を知っていたこと」については、「何ら異議を唱えていない」と捜査官は指摘していました。したがって、非難された事実が強姦未遂に該当しないのであれば、性的暴行の事実を証明するには十分なことである "とも述べています。

このように20歳そこそこの若者の訴えに対して、裁判所の決定を待たずに脅しをかけたともとれるこの発表は世間に衝撃を与えました。推定無罪を盾に権力をもつ容疑者が、これまで同様に経済活動ができる状態では、高額な裁判費用・弁護士費用をねん出し続けることが可能になります。豊富な資金を背景に別件で裁判を起こし、相手の経済力と体力を奪うことで日常生活を送れないようにし、裁判を継続できなくなるように追い詰めることもできます。これは韓国などいくつかの国でも問題化しており、そのため米国の複数の州で禁止もされているのです。

  • ※ 裁判所は心理鑑定の結果、被害者青年が「虚偽告発をする精神的傾向はない」と発表している

富裕な大物プロデューサーとしての顔

このようにブトナの事件が問題視されるのは、彼が行政機関のトップであるからだけではありません。『最強のふたり』(2011)『バツイチは恋のはじまり』(2012)『ハイエナたちの報酬 絶望の一夜』(2017)など、ヒット映画を生み出すプロデューサーとして活躍してきた彼から、これまで多くの監督や俳優たちは恩恵を受けています。そのため、表立って非難しづらい状況でもあるのです。つまり、ハリウッドにおけるハーヴェイ・ワインスタインと同じ立場にいるといういわけです。

子どもへの性犯罪がはびこるフランス。近親者による幼少期の性被害、1割が経験

アデル・エネルが、この事件を単なる性暴力疑惑として見過ごすことができなかった背景には、フランス社会が抱えるある「闇」があると考えられます。世界的リサーチ企業イプソスが、保険企業アクサの関連企業AXA Atout Cœurと協同し実施した調査によれば、「フランス市民の10%が、幼少期に近親者によるレイプもしくは性被害を経験している」という数値が示されています。被害者に近しい人間が長い時間をかけ青少年を手なずけ、性加害を繰り返す“グルーミング”は被害者に被害を認識しづらくさせ、事件として顕在化しづらいことが近年日本でも問題視されています。

フランスでは、未成年に対する性犯罪の多くが野放しにされている状況と言っていいでしょう。たとえば『グレース・オブ・ゴッド 告発の時』などでも描かれた「プレナ神父事件」は、カトリック教会全体を揺るがしました。20年もの間、多くの信者の子どもたちに性的暴行を働いていたプレナ神父は捜査中に認知症を装ったり、自分の行為を正当化するだけでなく、『ロイター』によれば映画の上映を差し止めさせるべく裁判所に訴えるなどの厚顔さも披露したということ。

また、著名な憲法学者のオリヴィエ・デュアメルが13歳の義理の息子を性的に虐待していたことが、被害者の姉カミーユ・クシュネル(有名弁護士)によって告発されるというスキャンダルも発覚しました。肝心の法律に携わる人物のペドファイル(幼児・小児を性的対象とする嗜好のこと。成人による性行為が犯罪となる年齢は国・地域によって異なる)事件は立法そのものへの不信感も招くなど、社会全体を蝕むような子どもたちへの性犯罪がたびたび露見しているのです。

これはyouTubeの内容です。詳細はそちらでご確認いただけます。
『グレース・オブ・ゴッド 告発の時』予告編 (7/17公開)
『グレース・オブ・ゴッド 告発の時』予告編 (7/17公開) thumnail
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法律の空白期間

フランスでは性的同意年齢の15歳に対し、性交渉自体がそのまま犯罪となる「法廷強姦」の被害者年齢は13歳未満に設定されています。つまり、「性的同意の能力は認められないけれど、大人が性交渉をしても犯罪にはならない」——というこの2年間にいる子どもたちへ、適切な保護政策が空白になっているのです。映画業界引退宣言と引き換えに、ブトナの疑惑を引き合いに出したアデル・エネルもまさに、12歳~15歳の期間に映画監督から繰り返し性被害に遭ったとしています。

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Laurent KOFFEL//Getty Images
アデル・エネル(Adèle Haenel)

エネルの訴えは、決して「推定無罪の否定」などという単純なものではありません。裁判とそれを取り囲む社会システムそのものにあるのです。自身も子役として働いていた時期に、映画監督クリストフ・ルッジアから性的暴行を受け、その後告発するまでに20年の時を要したエネルの憤懣(ふんまん)やるせない気持ちは、察して余りあるものがあります。ルッジアもまた当初弁護士を通し否定していたものの、のちに彼の元恋人で監督のモナ・アシャシュ含む4人の関係者の証言、SFR(フランス監督協会)による除名処分を受け、「過ち(erreur)」を犯したと告白しています。

映画を含むエンターテインメント産業には、多くの未成年者も関わっています。そのため、性犯罪には他業界以上に厳しく対応しなければならないはず。が、フランス映画界は、男児への長期間のグルーミングが疑われるこの映画界のドンに対し、態度をいまだ明確にしていません。このような背景をもってエネルは「彼らの仕事はキャンセルするべきだ」と訴えています。あらゆる場所で男女関係なく被害者が出続けている性犯罪。これをどう考えるべきか個々人が自分事として考える必要があります。