ファレル・ウィリアムズはわれわれ男性たちにとって、「好きにならずにはいられない男」と言って過言でない男です。

 彼は長年スポットライトを浴び続けながらも、現在、世の中はますますキャンセル・カルチャー(有名人の過去の悪さを平気で暴露するようなカルチャー)が激化していく中に身を置きながらも、魅力を失わずにいる稀有な存在なのです。では、なぜそうなのでしょうか!? 

 その答えは、彼が仕事や個人的なアジェンダに対しても、すこぶる自然体であり打算も感じさせることなくアプローチしているところにあるのではないでしょうか。「シャネル」のファッションショーではモデルとして登場したかと思えば、アディダスとのコラボスニーカーの品揃えを増やしたり、あるいは世界各地で行われているチャリティーコンサートに出演したり…と、彼は多忙を極めていながらも…なのです。

 この米ノースカロライナ州出身のマルチタレントが抱く仕事への厳格な倫理観とともに、クリエイティブの世界で他との違いを生み出すし続ける献身ぶりには、誰もが肯定的な理由で注目し続けているのです。 
 
 ファレルの姿勢は当たり前の考えややり方、あるいは簡単に予想できてしまうような事柄を一貫して覆してきました。ですがこれは、単に彼の好奇心から湧き出る根本的な感覚から生み出されたものであり、つまりは、自分自身とは違う「誰かについてもっと知りたい」という情熱から生まれてきたものではないでしょうか。そして彼はそうした考えを大切にしながら、企業とのコラボレーションでも如何なくその実力を発揮し続けてきたのです。

 私たちは、そんなファレルにインタビューを行い、彼のさまざまなコラボプロジェクトに共通する点、ますますバラバラになる社会の中でのアカウンタビリティ(責任を取ること)について、その役割とは何か? そして、「いま、女性が立ち上がるべきとき」と彼が考える理由などについて話をうかがいました。

ファレルにとってコラボは、
「曲作り」によく
似ている 

自分にとって、誰かとコラボレーションすることは、自分自身や他の人たちについて新しいことを知る機会であると思っています。また私が、新しいテクニックや新しい考えを知るのもコラボレーションを通じてになります。そう、コラボレーションというには、自分にとって自分自身を高めるひとつの手段なのです。コラボレーションを通じて私は、いままで非常に多くのものを手に入れきました。それは音楽から得たのと、同じくらいたくさんのものです。それは2つ、3つ、4つの音がぶつかり合ってコードや和音ができるのと同じようなこと…。私がほかの人間と一緒に仕事をするときにも、それと同じ原則が当てはまります。コラボでは複数の人間が持つ、それぞれ異なる創造性が組み合わさって、新しいものがつくり出されるわけで…。最後には、新しいものを見つけたり知ったりすることになるわけです。
Performance, Entertainment, Music, Performing arts, Music artist, Concert, Event, Public event, Musician, Stage,
Getty Images
「グローバル・シチズン・フェスティバル」でジェイ・Z(左)と共演した、ファレル・ウィリアムズ。



「文化の私物化」の問題はすべて、
「誰が絵筆を手にしているか」にかかっている

この問題の答えは、「誰がそれをやっているか」にかかっているんだ。文化的に適切かどうかは、あるグループに属する人たちが自分たちにとって(自分たちの慣習に照らして)切実な問題であるかを問うようなもので…ふつうなら関係なさそうなグループの人たちが、それを「攻撃的だ」と感じたときに、「文化の私物化」がなされのだと思っている…。


私が思うに、それを丁寧に話そうと試みるのだれでも、「そうすることはどうも難しい」と悟ったときに起こるものではないだろうか…。私は普段、それを別の言い方で口にするだけさ。でも、それを言う一番いいやり方は、次のように言うことだと思っているよ。「私たち米国人は、現在あるマトリックスの中で暮らしている。でも、そのマトリックスは主に年齢の高い、ストレートな性的嗜好を持つ白人の男性のためになるようにつくられている」ってね。米国の白人文化には、ある特権がある。この特権は、ほかの多くの米国人(白人の女性もある程度はその中に含まれる)にはないものであり、それで特権層出身の人たちが他の文化(の人たち)にとって神聖あるいは不可欠と考えられていることをしているのを目にすると、「文化の私物化」が始まるのだと思っている…。ただしそれに頻繁に出くわすのは、単に私たちがその特権(他のマイノリティは手にすることのできない特権)に慣れている国に暮らしているからに過ぎないのです。
 
これを「哲学の違い」と捉える人たちもいます。このことは人類によって永遠のテーマとも言えるでしょう。自分が真実を口にしようとしていることが理由で、人を不安にさせるというようなことも頻繁に起こる…それにはいつも困りはててしまう…。そんな中、「クリエイティブな世界」では、明確な違いがあっても人を不安にさせることはないだろう…むしろ、その違いが魅力となっていく世界だと思っています。そう、文化的に適切かどうかというのは、「どんな人が絵筆を手にしているか? それ次第だ」というのが私の考えになります。


Performance, Entertainment, Music artist, Concert, Performing arts, Rock concert, Music, Stage, Event, Public event,
Getty Images
世界中の音楽ファンから愛されている、ファレル・ウィリアムズ。

 
 

LGBTを貶める言動が原因で、ケビン・ハートが
アカデミー賞の司会者から外された問題について

でも、私たち全員が、「自分で自分の責任を取るべきだ」と思っているよ…なぜなら、私たちは何をしている人間であるかに関係なく、全員が「人類の一員」なのだから。例えばメール室で働いている見習いであろうと、自分の名前を冠したテレビ番組を持つ有名人であろうと、誰にも自分の言動についての責任がある点は変わらないこと…。私たちが一緒になって、それぞれ自分を高めるということが、社会をもっとよくできるただひとつの方法なんだと思っている…。


私たちの社会は寛容に対するアプローチについて格闘する必要がある

社会は「寛容」と「救済」に関して、「間違いなく問題を抱えている」と私は強く思っています。私たちは誰でも、後になって「言うべきでなかった」とか「やらなければよかった」と思うようなことを口にしたり、やってしまったりしたことがあるはずです。そしてすべての人にとって、それをやり直す機会があってしかるべきだと私は考えているのです(もっとも皆さんが神であり、「あの人はそれに値しない」と強く思っている場合には、その話は別となりますが…)。でも、誰を、いつ、そして何について許すのかを決めることについては、すべて当人が決めるべき道徳的な質問だと思っています。


メジャーな賞についての最大の問題は、
裏側に男性たちがいて決定を下していることだ  

彼らは、多くの男性によってグループ化されています。もし私たちがさまざまな物事について、もう少し女性中心に考えていたら…物事はもっと違っていたと私は思うのです。私たちは、「女性へのエンパワーメント」に関して話続けています。そして、女性が力のある立場についていることを目にすることは「とても素晴らしいこと」だと感じることでしょう。現在では「エンパワーメント」という言葉は、この上なく乱用されているのも事実。そんな渦中にいる人の中には、「いったい自分は何をしているのか?」と不安に陥る人も少なくないでしょう。現在、女性たちはいまだに男性に比べて少ない報酬しかもらえていないのも事実です。社会全体として、私たちは全員が地に足をつけて、女性のために立ち上がる必要があるのだと私は強く思っています。

  
いまこそ女性は立ち上がるとき

ご存じかもしれないが、こうした考えに同意せず、「自分たちのためになる」とは必ずしも限らない政治的なアジェンダを支持する女性、馴染みのある物事しか好まない女性たちもいまだにたくさんいます。そんな女性の中には、アメリカをもう一度「偉大な」国にしたいと、本当にそう思っている人もいます。でも、私がワクワクするのは、「いまこそ女性が立ち上がるとき」だと思っている女性です。

良くも悪くも、あるいは中立でも、そこには女性たちがいます。そして、もし彼女たちが共通する部分を見つけ、自分たちの人生をもっと容易にするために連帯して立ち上がることができれば、私たち全員の人生も、もっと容易なものになるでしょう。女性であればこそ、命を生み出すことがどれほど大変なことであるか知っています。ならば、原爆のボタンを安易に押したりはしないでしょう。女性の中には(妊娠して)9カ月もの間、自分の体の中に新しい命を抱えながら生きている人もいるのですから…。 

 
 これまで多くの音楽やアートなど、あらゆることを創造してきたファレル・ウィリアムズ。世の中のことを熟知しているからこそ、素晴らしいクオリティの作品を世に送り出せているのではないでしょうか…そう確信させるインタビュー内容でした。

 男女平等化がすすむ中、彼が思い描いている社会がどのようなものなのか? とても気になるところでもあります。 
 
 
From Esquire US
Translation Hayashi Sakawa
※この翻訳は抄訳です。