知っておくべき伝説のレーシングカー10選
男にとってクルマはあらゆるシーンでときめかせてくれるものです。日頃乗り回す、マイカーでさえドライビングに快感も覚える人もいることでしょう。
―しかし、一番心がときめくのは私たちの雲の上の存在に君臨する、レーシングカーを見ている瞬間ではないでしょうか? 唸るエンジン音、シャープなデザイン、力強いタイヤなど、多くの面で男らしさを感じるレーシングカー。
今回、米国で人気を博するモータースポーツ誌『Road & Track』に所属する世界のクルマに造詣の深いのエディター、コリン・ウッドロウ氏とブライアン・シルベストロ氏は、過去に活躍した伝説のレーシングカーを10台選びました! 懐かしのあのモデルが、ここに入っているかもしれませんよ。
アウディ 200 クアトロ
当時、排気量やシリンダー数、そして馬力も上回る他の車たちに立ち向う「アウディ 200 クアトロ」に、勝ち目などないように思われていました。ですが、ライバルたちは“全輪駆動”ではない。アウディだけが、全輪駆動だったのです。
そうして「アウディ 200 クアトロ」は、地面により多くの力を伝えることができる全輪駆動=4WD=quattro(クワトロ)により、1988年のアメリカの伝統的なトランザム・レースにおいて13レースのうち、なんと8レースで勝利! メーカー賞を受賞し、さらにドライバーであるハーレイ・ヘイウッドは、ドライバー賞を獲得するにいたったのでした。その印象があまりの強かったのでしょう、レースを運営する団体は翌年の1989年には、アウディにそのパフォーマンスを二度と再現させまいというほどのルール改正を行ったのでした。
ちなみにレース名である「トランザム」は、英語での綴りは「TRANS AM」。”トランス・アメリカン”の略で、本来の意味は「アメリカ大陸横断」ということ。アメリカの都市を回ることから、トランザム・レースと名付けられたのでした。正式には『Trans-American Sedan Championship』、通称”トランザム・レース”という市販車を使ったレースでの出来事です。
アウディ スポーツ クアトロ
アウディの全輪駆動技術が、前出のトランザム・レーシングで勝利を収める以前に、「クアトロ」はアウディがラリーで勝利するのに一役買っていました。数世代を経ながら、アウディの「クアトロ」は、次々とラリーで勝利し、「スポーツ クアトロ S1-E2」で最盛期を迎えたのでした。
WRCでは前バージョンほどの成功を収めることができませんでしたが、1987年、「スポーツ クアトロ S1-E2」はアメリカでは“インディ500”に次ぐ歴史を持つカーレース“パイクピーク・インターナショナル・ヒルクライム”で勝利。これは注目に値する出来事だったのでした。
使い勝手の良いハッチバックボディと、スポーツカー顔負けのパワフルなエンジンを両立させた“ホットハッチ”という言葉をご存じでしょうか。1970年代末にヨーロッパで誕生した車種である“ホットハッチ”ですが、この「スポーツ クアトロ S1-E2」の活躍によって世界的な人気を得ることにもなったのでした。
フォード GT40
誕生した車を「テスラキラー」だとか「911キラー」と呼ぶのはたやすいことですが、打ち負かしたい相手よりも実際に優れた製品であることを証明することは非常に難しいことなのです。
そう、フォードが新型車でフェラーリに対抗しようとしたときも同様でした。周りには、馬鹿馬鹿しい考えだと言われていました。1960年から1965年まで6連覇と、「24 heures du Mans(ル・マン 24時間レース)」に君臨していたフェラーリに挑戦状を叩きつけたのでした。「フォード GT40(当時はまだ“フォード GT”でした)」を引き下げ、その挑戦は1964年から始まったのでした。そうして1966年にようやく、「フォード GT40」は優勝にこぎつけることができたのでした。そしてその後4年間、どうにか連覇することができたのです。
ちなみに1966年の「ル・マン 24時間レース」では、8台の「フォード GT40 マーク2」がワークスマシンとして、5台の「フォード GT40 マーク1」がプライベーターとして出場。結果、ブルース・マクラーレン/クリス・エイモン組が優勝となり、さらに1~3位を「GT40」が独占したのでした。そして名前の由来は、この車の発表当時、その車高が40インチ(1016mm)という数値に驚いた記者が付けた通称だったのです。
ランチア ストラトス HF
1970年代以前、ラリーカーというのはラリー用に特別に製造されたものではありませんでした。当時は既存の車が、ラリーカーとして改良されていたのです。そこに一石を投じたのが、「ランチア・ストラトス」の登場です。これにより、この状況は一変したのでした。初めからラリーカーとして設計され、その結果、見事な成功を収めたのです。ストラトスはWRCで18勝を挙げ、1974、1975、1976年の世界ラリー選手権製造者部門のタイトルを獲得したのでした。
ちなみに車名のストラトスとは、「成層圏」という意味の英語の“stratosphere”またはイタリア語の“stratosfera”からの造語だとされています。“STRATOS”と表記される場合が多いのですが、実車のロゴをよく見ると“STRATO'S”となっています。
ロータス 79
現在のレースファンには考えられないことかもしれませんが、1977年に「ロータス78」が登場するまで、F1カーに“グランド・エフェクト”を利用されていなかったのです。“グランド・エフェクト”とは、いわゆる地面と車の間を流れる空気を積極的にコントロールすることで、地面に吸い付くような力を得る空力システムのこと。今のほとんどのレーシングカーで行われているダウンフォース獲得手段のひとつは、このときに生まれたのでした。
これの利用に最初に着目したのが、ロータスレーシングの創始者、故サー・コーリン・チャップマン。1977シーズン向けのマシン「ロータス78」でコク ピット横の構造(サイドポンツーン)を翼断面形状に整えて、前後に付加されたウィングでなく車体そのものでダウンフォースを得ようと考えたところに始まったのでした。つまり、ベルヌーイの定理に基づき、簡単に言えば「流体を速い速度で流すほど、より圧力が下がる」というものでした。
そして、その後継であるこの「ロータス79」は、「ロータス78」が開発したものを受け継ぎ、さらに進展させ、グランド・エフェクトを真に利用した初の車となったのでした。その結果、車の空気力学は大変革を遂げ、1978年には「打ち負かすことなどできない!」と誰もが叫ぶほどの名車となり、ロータスはその年のWCC(The Formula One World Constructors' Championship )で1位となったのでした。ちなみに、このときのエースドライバーが、マリオ・アンドレッティです。
マツダ 787B
マツダはロータリーエンジン好きで知られていたため、マツダがレーシングカーを製造するという道を歩んだことは、驚くべきことではなかったのです。「マツダ787」は注目に値するレーシングカーで、特に信頼性に優れていました。が、他のライバルに比べ、スピードは遅かったという事実はあります。
1991年には、なんと「ル・マン24時間レース」に勝利し、日本車初の快挙を成し遂げたのでした。そして同時にロータリーエンジンで優勝した、唯一の車でなったのです。ちなみに、このとき活躍したドライバーがジョニー・ハーバートで、なんと3シフト連続してのドライブを行い、見事優勝に! マシンがマツダピットに戻ってきたときには、ハーバートは長時間の運転による脱水症状によって倒れることに。表彰台に上がれなかったのでした。
ティレル P34
このリストに掲げたほとんどの車は、数多くのレースに勝利しているが故に、ここに含まれているのですが…。この「ティレルP34」は、1976年にスウェーデングランプリで1勝しただけでした…。
しかし、この写真を見てください! タイヤを6輪備えたこの車は、モータースポーツの歴史において、最も革新的なデザインであったと言えることでしょう。小さめのフロントタイヤを使用して、空気抵抗を減らし、ブレーキングを改善するという考えによるものであり、実際に一時期活躍していました。
この1976年のシーズン、チームはコンストラクターズ3位を獲得。最終戦の富士では雨の中、パトリック・デパイユが一時トップを走行。最終的には2位でフィニッシュし、日本人の間でも注目となったF1カーなのです。しかし、競争力を保つのに必要な開発を続けることができませんでした。1977年のシーズンを終えると、6輪の「ティレル P34」は引退ということになったのでした。
Road & Track 原文(English)
TRANSLATION / Spring Hill, Esquire JP
※この翻訳は抄訳です。