本記事は、実際に乳がんと戦った女性Assia Grazioli-Venier(アッシア・グラツィオリ・ヴェニエ)さんによる寄稿です。1980年代に始まった「乳がんで悲しむ人を1人でも減らしたい」という思いから始まった運動、「ピンクリボン」。10月はその「ピンクリボン月間」と言われる月です。女性だけと思われがちな乳がんですが、男性にも起こり得る癌の一種なのです。今日この記事にたどり着いたことをきっかけに、「乳がん」について改めて考え直してみせんか?

 I Was Diagnosed With Breast Cancer at Age 35 

 ベンチャーキャピタリストのAssia Grazioli-Venier(アッシア・グラツィオリ・ヴェニエ)さんは、彼女の人生を脅かすことになったその診断を、35歳のときに言い渡されました。

 そんな彼女は、病気が自らの体をむしばんでいく時間をむしろ糧に、自らのキャリアとプライベートの両方をステージアップする挑戦のときとしてその時間を有効活用したのでした。
 

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Courtesy of assiagrazioli(via Instagram)

「この機会に、きみの胸からすべてを取り出してしまおう」。

 2つの乳房切除術を受ける前、友人のライアンからある奇妙なアドバイスを電話で受けたのです。でもそれは、とても意味のある言葉でした。「きみが今まで持っていたすべての悲しみ・痛み・失望をすべて、ここで一度取りすんだ。そして改めて、それを胸に詰め込むことにするんだ。わかったかな?」

 
 そして私は「はい、わかったわ」と、電話越しに約束を交わしました。

 
 すると彼はこう続けます。 「いまの自分で考えられる、さらなる苦痛とは何かを探してみるといい。そして、そのことを反芻(はんすう)しながら気持ちの整理を施し、さらに充実した日々のために、そこでもう一度胸にそれを詰め込むといいよ」と…。

 そうして私は目を閉じ、これまでの自分の人生を振り返りました。

 手術室のテーブルに横たわり、そして心の中でライアンの声を聞きながら…。私は自分のこれまでの家族・キャリア・友人・恋人・ペット、そしてこれまでの自分が経験した様々な変化とアクシデントを振り返り、それらを整理して再び自らの胸に詰め込んだのです。その量は、バストサイズ34B(日本サイズではC75)の容量をはるかに上回るぐらいものでした。

 そうして私は麻酔が効き始めて意識を失う瞬間まで、過去の痛み…とりわけもっとも苦しかった記憶をこの手に掴み、そして自らの胸へと押し込むことをやめませんでした。

 
 やがて目を覚ましました。私は貴重な36歳の日々のうち2日間を失い、そしてさらには2つの胸も失っていたのです。胸部はチューブがいっぱい取りつけられ、極度の肉体的苦痛もありました…。

 ですがそのとき、気づいたのです。心の内側には、いつもと変わらぬ「安堵」のような安定した感情が存在しているように感じたのです。

最高の医師との出会い

 実のところ乳がんが、致命的なものとされる以前まで、私は自分の胸の大きさが平均的だと思うこと意外、自分の胸に対してあまり関心を寄せたことはありませんでした。

 なのでマッサージによって、自分の左乳房にしこりを発見したときには、私は精神的にひどく打ちのめされました。
  

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 悪性細胞が見つかり、乳房切除による治療が必要だと診断されたときには、「最高の医師の手が空いているように」と祈りました。そして数時間のうちに、友人が外科のヘレナ・チャン医師を見つけたのです。

 彼女は私に電話をくれ、治療が困難なことになるという真実を私に言い渡すときでさえ、彼女はクールで知的に振る舞ってくれました。それも私自身、大きな励みとなりました。私は電話中、「彼女ほど信頼できる人はいない」と確信しました。私には第2、第3、第4の手段を探す余裕もありませんでした。ただただ、急がなけばならなかったのです。

 これまでがんに直面してきた人(想像以上にその数は多いのです)にとって、「人生」と「仕事」というものは、そう簡単にすぐにやめられることではありません。さらにそれは、やめてもいけないものです。

 例えば私の場合…チャン医師が私に電話をくれたその日、私はテック系のスタートアップ企業創業者の1人と契約交渉を交わし、そのあと間髪も入れずに会議にも参加していました。

 その移動途中に、私はともに仕事をしたばかりであったその女性を抱きしめて、こう言いました。「私を強く抱きしめて…。私に次に会うときには、新しいおっぱいになっているから…。そして多分、すごく堅いものになっているわ」と…。  

 このときの私は、この診断が下されたあと初めてと言っていいでしょう…この病気が耐えられるほどの明るい時間が過ごせたのです。それは正直さとユーモアに溢れたひとときでした。

 本来ならこの状況下では驚いたり、狼狽(うろた)えたりするのでしょう。ですが私は、仕事に直面することで、自分自身に今後起こるであろうことを考える時間を与えないようにしていたのです。

 私は動き続けなければいけなかったのです。私は治療の計画を立てるために急ぎ、そこで私は他者からのさまざまな反応にも対応しなくてはなりませんでした。

 多くの人は思いやりのある対応をしてくださり、協力的でした。その他の人たちは善意ではあるものの少し気まずい表情を見せながら、私を哀れんだり、仕事に没頭しようとする今の私に対して批判的だったり…中には、奇妙なことを言い出す人までいたのは事実です。

 その奇妙な話のひとつは、「乳がんになったのは、長い間忘れていた性的虐待によるものだ」とか、「これまで抑え込まれてきたトラウマによるものだ」とか言ってくるのです。がんという病理に、メッセージ性はあるのでしょうか? 私は病気になったのです。

 私はその後、「誰から何を聞くべきか?」に対して、慎重に選ぶよう決意しました。Googleで「がん」というワードを検索したことは実は1度もありません。

 治療方針について決断しなければならないとくが来たとき、私は医師と母から助言を受けました。

 信頼できる2人と会議できたことによって、私は「乳がん」に対して急進的な出発ができたわけです。そしてすべての大きな決断は、ミニ・カウンセラー(母や医師など)によって決めることができたのです。

 自分でも驚いたのですが、私はSNSで自分の経験について話すことが嫌ではなかったのです。

 独り言のような投稿でも、大声を出したように多くの人に伝わります。さまざまなことを人々に先回りして教えることもできます。さらに私は、人々が私のことを話すのではなく、私と話をするように促したのです。がん患者は、つい公の場から引きこもってしまいがちです。でもインスタグラムで私は、自分の生活を他者に見せることができたのです。

 私のインスタグラムのポストへのコメントは、精神的な支援や思いやりのあるものばかりでした。
 

 
 チャン博士に両乳房を取り除いてもらう決断をしたときも、これらから予期せぬ形でプッシュバックを受けました。

「どうして2つ失うことを選んだのですか?」と、よく尋ねられます。そのことに対し説明し、証明することは自分のした選択に対してパワーを注入することができ、さらには再確認することのできるきっかけにもなりました。

 もちろん、「がん」という幽霊によって、私の残された多くの人生を削られることは嫌なものです。

 私がこのような決断をしておいて、こう言うのもおかしいかもしれません。が、この選択は実用的だったのです。まず、私は新しい胸を買わなければいけませんでした。同じサイズの胸を取戻したい気持ちは、女性ならば理解してくれるはずです。

 人生と同様に、ユーモアは「乳がん」からの回復を大きく手助けすることとなりました。それは乳房切除術後の数カ月ほどのころ、外科医のジャコ・フェステジアン医師が私のしおれてしまった胸の中にインプラント袋を入れたときのことです。

「どんな大きさが好みですか?」と彼が私に尋ね、それを膨らませ始めました。私はジム・キャリーを想像して、笑いがこみあげてきたのです。というのも、映画『ブルース・オールマイティ』で神さまを演じたジムは、指を軽く動かしてジェニファー・アストンの胸を大きくしたのです。胸が“成長”していく様子を見るのは、可笑しくもちょっぴり魅力的でした。

がんと仕事の両立

 それから徐々に私は、新しく丸い34Cカップの胸に慣れていきました、

 でも、回復へ向かう始めの8カ月間は、それらはまるで「バチボール」(イタリア発祥のボールゲームの球)のようでした。他の体と同様に馴染ませる必要があったのです。

 ユヴェントスFCの会議で私がボードの前に立っているとき、ふと部屋中の男性が不快感を見せていることに気づいたのです。それが何故なのか…? しばらくして気づいたのです。私は無意識のうちに、開襟ブラウスの下から新しい胸を無意識に擦っていたことに…。これはジェンダーの壁の前では、いけない行動でした。そのとき、私の胸の神経は(筋肉の)単収縮とズキズキするような痛みによって、熱くなっていたのです。そして私はそれを、無意識のうちに手を当てて癒そうとしていたわけです。

 それがわかったとき、私はとてもきまりが悪くなったことは言うまでもありません。この大きな部屋での会議ばかりではなく、普段の生活の中でも私はこのような行動を無意識のうちにしているだろうことが認識できたからです。なぜなら、わたしの乳首はおそらく永遠に、感覚がないからなのです。

 がんにより、私の体が変わることはわかっていました。ですが、それが自分の人生の他の部分でプラスの方向へと進化させることは期待していませんでした。ですが、「がん」はパワーをもっていたのです。

 私が病気になったときに気遣ってくれた男性を、私は永遠に感謝するでしょう。

 ですががんによって、私たちの長期的な関係の先にあるものが見えることで、その関係が終わったしまった人もいることは確かです。そんな私が、いま人生の中における「愛」を見い出すことができる人は、私と同じような傷痕を持ち、私のことをよく知り、そしてお互いにそれらに打ち勝つことができることを理解している人なのです。
  

 
 またがんは、ビジネスにもパワーを与えてくれました。その成長も助けてくれたのです。

 私が診断を受けながら働いているころ、問題なく日々働けるよう、私はビジネスパートナーのレイチェル・スプリンゲートとがんの話はしないことに決めていました。私たちの会話の題材は、「どんな人生を歩んでいきたいか?」を想像(創造)することに決めていたのです。

 そのパートナーは、ひどく苦しい痛みや胸から飛び出たチューブから私の気をそらすよう、惹きつけるような創造的な仕事の話を積極的にしてくれたのです。

 これらの会話から、私たちはビジョンを進化させ、カタチづくるようにしました。そして、「お互いに活動的で健康的で、同様になにかしらの方法で人を助けるようなものを作りたい」と思うようになったのです。

 その後、私たちの投資信託であるMuse Capital(ミューズ・キャピタル)が生まれ、私は挫折から自分の道へ進むことができたわけです。 

 そうです、私はがんによって人生と仕事、その双方に最高のキャリアの章を始めることができたのです。そうして2年後、私たちのベンチャー・キャピタル・ファンドは想像以上の期待に応え、想像を絶するスピードで成長していきます…。

 治療中、私は個人的にも専門的にも、痛みをやわらげるためにマリファナや大麻を導入し、それは個人的にも専門的にもゲームチェンジャー(大きな影響を与える革新的なもの)となりました。

 日本ではあまり馴染みがなく、「悪」というイメージの強いものですが、医療の面では痛みをすぐに和らげてくれる最高の薬なのです。

 大麻ケアパッケージを送ってきた友人たちは、その後、大麻ビジネスに傾倒していきました。なぜなら、アメリカには医療大麻を必要としている多くの人がいたからです。私は、この種の偶然の出会いに感謝しています。私は急速に成長している大麻ビジネスを誇りに思い、積極的に個人投資をしています。
 

 乳房切除術からまさに2年の時が過ぎ、私はいま永遠のパートナー、そして私たちの住まい、さらに夢の仕事に目を向けています。

 私の現在の人生は、この「がん」という経験なしでできたでしょうか? …私はできなかったと思います。その暗い日々の中でさえ、見るだけでも幸運だった光の斑点があったのです。そして今、それらを覚えていられることに幸せを感じています。

 私は、がん患者の中で最も幸せな者の一人です。もう一度、人生やり直しができたとしても、私は同じ人生を歩みたいと思っています。

 ほとんどの夜と言ってもいいでしょう。私は眠りにつくとき、手術の日にライアンが私に話してくれた言葉どおりのことをします。心の「棚卸し」とでも言いましょうか…すべてを取り出し、すべてを詰め込みし直します。

 いまは私が選んだ新しい胸を見ながらですが…。そして、もち続けたいものを私の心にそっとしまっておくのです。

 もしかすると、つまらないことのように聞こえるかもしれません。ですが私には、この新しい胸が愛する家族や友達、そして素晴らしい男性たちで満たされていくのが見えるのです。さらに私は、そこに私を信頼してくれている人々、新たな友人たち、また仕事でも個人的でも心底サポートをしてくれた人たち、さらには私にチャンスを与えてくれた人たちも加えていきます。

 必然的に、私はこのシュミレーションの途中で眠りについてしまうのですが、それはそれでいいのです。私は、それがいつもより多くのものがあることを望みながら、夢に夢中になれるのですから…。



from HARPERSBAZAAR(原文:English)
By Assia Grazioli-Venier
Oct 9, 2018
Translation / Mirei Uchihori
※この翻訳は抄訳です。
Edit / Mirei Uchihori,Kaz Ogawa