日本が誇るフィギュアスケート界のプリンス、羽生結弦(はにゅう・ゆづる)選手へのメダル獲得に、全国民と言っても過言でないくらい…期待が高まっています。
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2017年11月10日、NHK杯での前日練習のときでした。羽生選手はジャンプ時、着氷した際に右足を負傷…「右足関節外側靱帯損傷」と診断され、グランプリ(GP)ファイナル以降の公式戦を回避することとなりました…。
そうしてリハビリ生活をつづけ、いよいよ平昌(ピョンチャン)五輪へ…。2018年2月11日(日)に現地入りし、翌日12日(月)には練習リンクに姿を見せたのでした。そこには、2017年11月に報じられた右足首の怪我を感じさせないほどの滑りとともに、いつもとは異なる羽生の“ティッシュケース”に注目が集まっていました(笑)。
ディズニーキャラクターの「くまのプーさん」のファンである羽生選手は、いつもはプーさんのティッシュケースを愛用しているのですが、今回はオリンピック。オリンピックでは、特定のスポンサーやロゴの入ったものの持ち売込みは厳しいということの配慮でしょうか? 今回のリンクサイドにはプーさんではなく、苺のショートケーキ型の白いティッシュケースを使用していました。ちなみに4年前に出場したソチ五輪でも、プーさんは封印しての金メダルですので、まったく問題ないでしょう(笑)。
そして翌13日(日)午前には、平昌五輪のフィギュアスケート会場である江陵アイスアリーナで記者会見に臨んだのでした。そこでのコメントが実に羽生選手らしいのです。インタビュアーに、「はじめに羽生選手からコメントをいただきます」と言われ、羽生選手は…。
「コメントと振られても、どうしたらいいか分からないんですけど(笑顔で…)、とりあえず、ケガをしてから3カ月間、本当に試合を見るだけだったし、スケートも滑れない日々が長くて、すごいキツイ時期を過ごしましたけど…こうやって無事にオリンピック会場で、メインのリンクで滑ることができてうれしく思います。まだまだ試合が始まったわけではないですし、気を緩めるつもりはないですけども、しっかりと集中しながら、できることをちょっとずつやっていきたいと思っています」とのこと。
そして次に、関係者がそれぞれの記者の質疑応答に移ろうとしたところ…羽生選手はマイクを自ら持ち、気持ちを語ったのでした…。
「もう1個だけいいですか…本当に自分がケガをして苦しい時期もですけど、本当に年が明けてからも、たくさんいろいろな方々から、応援のメッセージをいただきました。そして、本当に感謝の気持ちで今いっぱいでいます。まだ試合が終わっていないので、こういうのもちょっと変かも知れないですけど、たくさんのメッセージをありがとうございました。そして、メッセージの力も自分の力、演技につなげたいなと思います…」と。
本番を迎えて緊張の高まる中、会場の進行を制してまでファンへの感謝を伝えた羽生選手…このときのコメントは、スポーツ史上に残る名場面ではないでしょうか。そしてこの心意気は、国を代表するトップアスリートのお手本となることでしょう。もう、われわれは羽生選手を応援せざるを得ませんね…。
4年前のソチ五輪で念願の金メダルを獲得し、世界選手権では優勝2回、グランプリファイナル4連覇で、現在堂々の世界ランキング1位。そして平昌五輪では、男子シングル史上66年ぶりとなる連覇に向けて、もはや心技体ともに万全の態勢と言っていいでしょう。
羽生選手の出場は、2月16日(金)に行われる男子シングル・ショートプログラムから。その前に、羽生選手のフィギュアスケート人生そしてパーソナリティを振り返り、応援する側も心技体ともに万全の態勢で臨みましょう!
羽生選手のフィギュアスケート人生&パーソナリティ
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フィギュアスケート人生の始まりは4歳
1994年12月7日、宮城県仙台市生まれ。4歳年上の姉の影響と、2歳の頃からぜんそくを患っていたため、それを克服しようとフィギュアスケートを始めたそうです。肺を大きく開いて息を吸い込むことができないため、特に10代の頃は体力や持久力の面で劣ると指摘されてきたが、さまざまな治療を経て、心肺機能を上げる対策を続けることで体力面のハンディを改善したのでした。
そして、世界選手権で日本人初の銅メダリストとなった佐野稔氏を育てた名コーチ・都築章一郎氏と出会い、基礎を徹底的にたたき込まれます。しなやかな動きの原点は、まさにこの基礎の習練にあります。ノービス(9歳以上13歳以下)の試合に参加し始めると、2004年(10歳)で 全日本ノービス選手権(B)やフィンランド・サンタクロース杯で次々と優勝することに…。
当時、荒川静香や本田武史を輩出した名門リンク「泉DOSC」が閉鎖し、都築コーチが横浜に拠点を移したため平日は仙台、週末は新幹線で横浜まで通い、指導を受けるようになりました。
羽生選手のフィギュアスケート人生&パーソナリティ
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幼少期に3回転ジャンプを習得
10歳からは阿部奈々美コーチに師事。ショートプログラム(SP)は「シング・シング・シング」、フリースケーティングは「火の鳥」、エキシビションでは「アマゾニック」の演目を踊り、幼いながらに“表現力の美しさ”という課題と向き合いました。
そして12歳のとき、初めて試合で3回転ジャンプに成功! 当時の主な大会の全記録が下記になります。
・2005年10月 全日本ノービス選手権(B)2位
・2006年10月 全日本ノービス選手権(A)3位
・2006年11月 全日本ジュニア選手権 7位
・2007年4月 ムラドストトロフィー 優勝
・2007年10月 全日本ノービス選手権(A)優勝
・2007年11月 全日本ジュニア選手権 3位
※ジュニア大会でノービス選手の
表彰台は日本男子史上初。
・2008年3月 コペンハーゲン杯 優勝
羽生選手のフィギュアスケート人生&パーソナリティ
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全日本ジュニア2連覇、世界ジュニア優勝で、
羽生結弦の名前が一躍有名に
中世的な魅力で、幼い頃からひときわ異彩を放っていた羽生選手。中学生になると、その魅力がさらに開花します。
ジュニア時代はたった2シーズンでしたが、シニアの試合でも通用する技術力をどんどん身につけていきます。2008年11月の全日本ジュニア選手権を皮切りに、2009年は全国中学校スケート大会、トルン杯、クロアチア杯と次々と優勝。さらにジュニアグランプリファイナルでは、史上最年少で優勝。翌2010年に行われた世界ジュニア選手権でも、日本男子としては4人目、中学生では日本男子史上初となる優勝を飾って、一躍その名をとどろかせました。
なお、スケートで有名になる一方で、地元の中学校教師でもある厳格な父からは、「スケートだけの人間になるな」と躾けられ、勉強にも手を抜かなかったそうです。遠征先にも参考書を持っていき、時間を見つけては勉強を。もちろん、成績も優秀だったそうです。
羽生選手のフィギュアスケート人生&パーソナリティ
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高校1年生で本格シニア参戦
2010-2011年シーズン、満を持してシニアに転向。試合では、シニアでは欠かせない4回転ジャンプはまだ不安定だったものの、10代にして層の厚い日本の先輩たちを脅かす存在に…。
2010年12月、16歳で出場した全日本選手権での総合順位は、小塚崇彦、織田信成、高橋大輔に次ぐ4位でした。このように、悔しい思いをしたことがバネとなり、シーズン最終試合となった2011年2月の四大陸選手権では、高橋大輔次ぐ総合2位に。史上最年少での表彰台となりました!
ショートプログラム(SP)「ホワイト・レジェンド」、フリースケーティング「ツィゴイネルワイゼン」を演じ、念願のシニア表彰台に立てた羽生選手。このことは彼にとって大きな自信につながったのはもちろんです。そして、このキュートな「ゆづスマイル」によって、ファンも激増することに…。
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東日本大震災でスケート観に変化
2011年3月11日、忘れもしない東日本大震災当日。高校1年生だった羽生選手は期末試験を終え、昼ごろからアイスリンク仙台で練習をしていたそうです。ライフラインはすべて止まり、自宅は全壊…。一家は震災後の4日間、小学校の体育館で過ごしたということです。
震災10日後には、横浜にいる都築コーチのもとで練習を再開できたとのこと。ですが、震災の影響により関東圏のリンクの多くが閉鎖。多くのスケーターが練習場所を求めて横浜のリンクに集まってくるため、羽生選手の練習時間も限られていました。この経験により、「改めて練習できる喜びを実感しました」と後に語っています。
羽生選手のフィギュアスケート人生&パーソナリティ
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4回転ジャンプを武器に、
17歳で世界選手権に初出場
シーズン前にこなした60公演のアイスショーで、共演した先輩たちの4回転ジャンプを研究。すると、本番での4回転ジャンプ成功率が上昇しました。よりパワーアップした得意のジャンプを武器に、シュートプログラム「悲愴」、フリースケーティング「映画『ロミオ+ジュリエット』より」を引っさげて、グランプリファイナルそして2012年3月にはスケート選手にとって最高峰といわれる世界選手権に初出場。
すると、3位の表彰台に上りました。3位となったこと以上に、技術要素点で1位パトリック・チャン、2位高橋大輔を上回ったことで大いに盛り上がったのでした。また、17歳3カ月でのメダル獲得は、日本男子としては史上最年少の記録となりました。
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世界選手権の総合で銅メダルに輝いた羽生選手は、キラキラした笑顔でテレビインタビューに応えました。
「被災地のために滑ろうと思っていたのですが、『それは違うんだな』と。逆に僕は、支えられている立場だったんです。応援されている立場。その応援をしっかり受け止めて、演技することが一番の恩返しだと気づいたんです。やっと自分のなかで、震災を乗り越えられたんだという気持ちになりました」と。
羽生選手のフィギュアスケート人生&パーソナリティ
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さらなる高みを目指してカナダへ。
「ハビゆづ」が誕生
高校3年生になると、選手時代は「ミスタートリプルアクセル」と称され、キム・ヨナを金メダルに導いたことでも知られるブライアン・オーサー氏のもとへ。彼に師事し、カナダのトロントにある名門スケートクラブ「クリケットクラブ」へ入ります。
同じくオーサーコーチの元で指導を受けているスペインのハビエル・フェルナンデスとともに、切磋琢磨する日々がスタート。4回転ジャンプが得意な3歳年上のフェルナンデスは、羽生選手にとって刺激になるよきライバル。イケメン2人の兄弟のように仲良しな様子から、ファンに「ハビゆづ」と呼ばれるキュートな名コンビが誕生しました。
羽生選手のフィギュアスケート人生&パーソナリティ
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キュートなイメージから一転、
大人な世界観漂う演目に挑戦
2012-2013年シーズンでは、これまでとは異なる大人な雰囲気のショートプログラム(SP)「パリの散歩道」を好演。2012年10月に開催されたスケートアメリカのショートプログラム(SP)で世界歴代最高得点を記録したほか、翌月のNHK杯でも歴代最高点を更新。
同シーズンのランキングは羽生が2位、フェルナンデスが3位と、ハビゆづがここで大躍進。羽生選手の世界ランキングは2013年3月の世界選手権を経て、パトリック・チャンにわずか3ポイントおよばず2位に後退していたのでした。
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オリンピック初出場で、夢に見た金メダル!
2013年12月のグランプリファイナルでは、すべての得点で自己ベスト。ショートプログラム(SP)にいたっては世界歴代最高得点を記録し、念願の初優勝を果たします。
2014年2月に開催されたソチオリンピックでは、ショートプログラム(SP)では世界歴代最高得点を更新したのをはじめ、フィギュア日本人男子にとって史上初の金メダルに。史上2番目に若いフィギュア金メダリストとなったのでした。
羽生選手のフィギュアスケート人生&パーソナリティ
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トップスケーターとしてひた走る
2014年11月、中国・北京で開かれたグランプリシリーズで、フリー演目「オペラ座の怪人」演技前の練習中に中国の選手と顔面衝突…と、負傷したなながらも本番を滑りきり、なんと2位に入賞。まさかのアクシデントなど、さまざまな経験を通して、さらなる飛躍をはたした羽生選手です。
2015年シーズンは映画『陰陽師』の劇中曲をアレンジしたフリーの「SEIMEI」で、能や狂言などの動きを取り入れた和風な演技を披露。同年12月のグランプリファイナルでは前月のNHK杯で自身が更新した世界歴代最高得点322.40点を上回る330.43点をたたきだし、史上初の3連覇という快挙を成し遂げます。さらに翌2016年のグランプリファイナルでも優勝を果たし、4連覇と記録を更新しています。
羽生選手のフィギュアスケート人生&パーソナリティ
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2018年平昌オリンピックへ
2017年NHK杯前日の公式練習中に右足にケガを負い、5連覇がかかっていたグランプリシリーズの同大会は欠場。以降、2018年2月に開催される平昌オリンピックに向けてリハビリを重ねていました。
オリンピックで披露する演目は、2015年に歴代最高点を2度更新し、羽生選手にとっては相性のいいプログラム「SEIMEI」の高難度バージョンといえる「新・SEIMEI」になります。映画『陰陽師』で安倍晴明を演じた野村萬斎から直接アドバイスも受け、表現力もパワーアップした演技に大いに注目しましょう!
羽生結弦がもっと好きになる基礎知識その①
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「試合前に十字を切る動作」編
羽生選手が、演技前に胸の前で十字を切るしぐさ。これはクリスチャンというわけではなく、武士の「士」という漢字を書いているのだそうです。
「コーチから教わったおまじないのひとつで、体の縦の軸をまっすぐにして肩のラインと腰のラインを水平に保つように意識し、『軸がぶれないように』と言い聞かせています」のだとか…。
また、リンクに出入りする際に、しっかりとお辞儀をすることでも知られていますが、これについては過去のインタビューでこのように語っています。
「リンクにお礼をするというのは、柔道からリスペクトさせていただいてるというか、(柔道は)3回もお礼するじゃないですか。僕らにとってのフィールドはリンクであって、滑らせていただいているという感覚があるので、今回もケガしないで済んだ、最後まで滑らせていただいたっていうのをちゃんと考えながらお礼をしなきゃなって…」ということです。
羽生結弦がもっと好きになる基礎知識その②
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「憧れの選手」編
ロシアのエフゲニー・プルシェンコ選手を崇拝しているのは周知のとおりですが、他にも同郷の荒川静香選手、そして衣装デザインを依頼したことがあるアメリカのジョニー・ウィアー選手を好きな選手と公言しています。
中でも、プルシェンコ選手への心酔ぶりはすごく、幼少期は彼の髪型をまねた「ゆづシェンコ」カットも有名ですね…。
羽生結弦がもっと好きになる基礎知識その③
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「交友関係」編
SNSのアカウントは一切もっておらず、プライベートが明かされることは少ないけれど、同門のハビエル・フェルナンデス選手のほか、高橋大輔や織田信成など日本代表のフィギュア関係者とは仲良く交流する姿がキャッチされています。
羽生結弦がもっと好きになる基礎知識その④
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「くまのプーさん」編
「いつも変わらないあの表情をみると、リラックスできる」という理由から、ディズニーキャラクターの「くまのプーさん」が大好きという羽生選手。常に持ち歩くティッシュケースやタオルは、すべてプーさんキャラ! そんなおちゃめな一面にも、ゆづファンは萌えるのでした。
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2018年平昌(ピョンチャン)五輪では諸事情により、4年前のソチ五輪と同様にプーさんは封印しているようです。2月12日の練習の際、リンクのサイドに置かれたのは苺のショートケーキ型の白いティッシュケースでした。羽生選手の好きな食べ物のリストを確認すれば、寿司、餃子、とんかつ、プリン…と、苺のショートケーキは入っていません。きっと誰かの思いが込められていますのでしょうか? ソチ五輪同様、プーさんなしもでリラックスできること間違いなしです。
そして、多くのファンからの応援をプレッシャーとしてでなく、感謝という前向きな気持ちで表現する羽生選手ですから…。きっと、期待通りの結果となるでしょう。なにはともあれ、2月16日(金)に始まる彼の平昌五輪を応援しましょう。
もちろん宇野選手も、さらに女子の宮原選手や坂本選手…そればかりでなく、出場するすべての選手を応援しようじゃありませんか。羽生選手ばかりでなくすべての選手にとって、スタートの瞬間はこれまで自ら流した汗と努力の結晶による決勝となるのですから…。「夢に描いた舞台」で、「夢に描いた演技」をしてほしいものです!