プレミアリーグ1月移籍市場、これまでの成功と失敗 10選
The Best (And Worst) January Transfers In Premier League History
フェルナンド・トーレスからクリント・デンプシーまで、これまでのプレミアリーグの長い歴史のなかでの、1月の移籍市場における成功と失敗をご紹介しましょう!
英サッカーのプレミアリーグにおいて、毎年1月に繰り広げられる移籍市場はしばしば大荒れとなります。どのクラブも栄光をもたらしてくれる、あるいは…窮地から救い出してくれる特別な選手を求め、移籍実現のために相場以上の移籍金を支払うことも珍しくありません。ときに目玉がと飛び出るような金額も…。
しかしこのように、いわゆる「大慌て」で実現した移籍には、成功もある分、その裏で同じだけの失敗もあるのです。
▶▶▶今回は、そんなプレミアリーグ1月の移籍市場での、成功例と失敗例を5つずつ紹介しましょう。
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By Nick Pope
On January 31, 2018
Photos by Getty Images
ESQUIRE UK 原文(English)
TRANSLATION BY Wataru Nakamura
編集者:山野井 俊
失敗例その1:ジュリアス・アガホワ
2007年 FCシャフタール・ドネツク(ウクライナ)
→ウィガン・アスレティックFC(イングランド)
移籍金210万ポンド
アガホワの移籍に関して言えば、「サッカークラブ・マネジメントゲーム『チャンピオンシップ・マネージャー シーズン01/02』は、常に正しいわけではない!」ということが実感できるでしょう(笑)。
このナイジェリア人ストライカーは、2002年のワールドカップで見せたバク転のゴールパフォーマンスで世界的に人気となった選手です。FCシャフタール・ドネツクでは、6年間にわたって素晴らしい結果を残してきました。そして2007年には、イングランド・プレミアリーグで下位に沈んでいたウィガン・アスレティックFCへ。そのときの移籍金は210万ポンドになります。
当時のポール・ジュエル監督は、移籍前にアガホワのプレーを直接見たのがわずか2度でしかなかったにも関わらず、移籍決定に「われわれの宿題はこれで終わり」と発言。そんなアガホワはウィガン・アスレティックFC移籍後、3人の監督の元でプレーしました。ですが結局、出場試合は23試合で得点のほうはゼロで終了。悪い意味で、印象的な結果を残すことになってしまったのでした。
その後は…2008年6月にカイセリスポル(トルコ)と契約するも2009年7月に放出。自由移籍でシャフタール・ドネツクに復帰するもレギュラーの座は掴めず、2010-11シーズン初めにFCセヴァストポリ(ウクライナ)へレンタル、2011-12シーズン終了後に放出されることとなったのです。
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失敗例その2:サヴィオ・ヌセレコ
2009年 ブレシア・カルチョ(イタリア)
→ウェストハム・ユナイテッドFC(イングランド)
移籍金900万ポンド
ヌセレコがウェストハム・ユナイテッドFCと契約した2009年には、この移籍が「大成功となるか?」「大惨事に終わるか?」は、誰にもわかりませんでした。
このドイツ人プレイヤーは、2008年のU-19欧州選手権で最優秀選手賞を受賞しており、アイアンズ(ウェストハムの愛称)の当時新監督であったジャンフランコ・ゾラが激しい獲得競争を制して、当時のクラブ史上最高額で獲得したのでした。
ですが、このストライカーはまだまだ未熟であり、プレミアリーグで生き残るために必須となるフィジカルクオリティをもっていなかった…そのことは、すぐに明らかになったのです。
そのためヌセレコは6カ月後、ACFフィオレンティーナ(イタリア)へわずか300万ポンドで放出。その後は、忘れ去られたように目立たない選手となってしまいました。そんなヌセレコが再び話題になったのが2012年、かつての神童はなんと、タイで自らの誘拐を自作自演したという容疑で逮捕されています…。
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失敗例その3:フェルナンド・トーレス
2011年 リヴァプールFC(イングランド)
→チェルシーFC(イングランド)
移籍金5000万ポンド
最近は5000万ポンド程度の額となれば、控えの右サイドバックとして獲得する選手に対しても支払われるような金額かもしれません…。ですが、2011年当時のプレミアリーグにとっては、最高のストライカーへ提示するに十分な額だったのです。
当時のチェルシーFCは、マンチェスター・ユナイテッドFC(イングランド)との激しい優勝争いを演じていました。リヴァプールFCのフェルナンド・トーレスは調子が悪く、クリスマス前には怪我の問題もありました。ですがチェルシーFCは、一か八かと言ってもいいかもしれません…トーレスを助っ人としてチームに変化をもたらしてくれることに期待したのでした。
…がしかし、そんな期待もむなしく、トーレスがチェルシーFCで出場した172試合での記録はわずか45ゴール。補強費に糸目をつけないチェルシーFCでしたが、ここで移籍に関するポリシーを見直さなければならない状況にも追いやられたのでした。
そんな状況となったチェルシーFCにおいて、トーレスの移籍金を唯一上回っているのが2017年7月にレアル・マドリード(スペイン)から移籍したアルバロ・モラタです。見直しが功を奏したのでしょう、モラタのほうはその額が示すとおり、素晴らしい活躍を見せているようです。
その後、トーレスは2014年8月にACミラン(イタリア:セリエA)へ2年間のレンタル移籍、さらに、2015年1月から古巣アトレティコ・マドリード(スペイン)へ1年半のレンタル移籍することに…。現在(2018年2月)は2015-16シーズン後はACミランとの契約を満了し、フリーでアトレティコ・マドリードに完全移籍という形で加入しています。
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失敗例その4:ジャン=アラン・ブームソン
2005年 レンジャーズFC(スコットランド)
→ニューカッスル・ユナイテッドFC (イングランド)
移籍金850万ポンド
2004年の夏時点で、ニューカッスル・ユナイテッドFCの監督グレアム・スーネスは、フリートランスファーでもジャン=アラン・ブームソンの獲得には関心がありませんでした。がしかし、翌2005年1月になるとスーネスは、このフランス人のために喜んで800万超ポンドもの大金を支払うほどの心変わりをしていたのでした。
そうして、ニューカッスル・ユナイテッドFCに移籍したブームソンでしたが、タイタス・ブランブルとのコンビは最悪。壊れたルンバのような、ひどいポジショニングが目立っていました。
その後、この移籍に関する不審な点を明らかになり、不正行為の調査対象に…。そして、わずか1年半で放出となりました。
2006年8月には、カルチョ・スキャンダルによってセリエBに降格した直後のユヴェントスFC(イタリア)に、330万ポンドで移籍することとなったのです。さらに2009年1月に、300万ユーロでオリンピック・リヨン(フランス)へ。2010年7月には、移籍金50万+ボーナス25万ユーロでパナシナイコスFC(ギリシャ)へと移籍が続きます。
そして2013年6月、契約を1年残しながらも、双方の合意によって正式に退団することに…。現在(2018年2月)は正式な引退表明はないまま、サッカー評論家として活躍しています。
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失敗例その5:アンディ・キャロル
2011年
ニューカッスルFC(イングランド)
→リヴァプール(イングランド)
移籍金3500万ポンド
フェルナンド・トーレスが衝撃的にチェルシーFC移籍となったことにより、リヴァプールFCは多額のキャッシュを得ることとなりました。ですが…、リヴァプールFCにはこれを有効に使うための充分な時間はなかったようです。当時の監督であったケニー・ダルグリッシュは、ルイス・スアレス(現在、FCバルセロナ所属)と契約した後、ニューカッスルFCの若きポニーテール、ターゲットマンことアンディ・キャロルにも白羽の矢を立てたのでした。
ですが、当時キャロルが所属するマグパイズ(ニューカッスルの愛称)は、この22歳の選手を高評価。その移籍金を引き下げることはなかった…最終的にリヴァプールは、移籍期限ギリギリに3500万超ポンドを支払うこととなったようです。
その後のキャロルは、怪我に悩まされたアンフィールド(リバプールの本拠地)での2シーズンの間、わずか6ゴールにとどまり、その後、2012年8月にウェストハム・ユナイテッドFC(イングランド)へ移籍することとなり、現在(2018年2月)もそこでプレーしています。
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成功例その1:パトリス・エヴラ
2006年
ASモナコ(フランス)
→マンチェスター・ユナイテッドFC (イングランド)
移籍金550万ポンド
ASモナコで活躍したエヴラは、マンチェスター・ユナイテッドFCでのデビュー戦では悪夢に見舞われました。
マンチェスター・シティFCとダービーであったこの試合で、対面であるシティのトレヴァー・シンクレアから完全に手玉に取られた状態になったのです。そして、ハーフタイムにはあえなく交代。試合も3-1で破れました。
ファンの間では、このフランス人選手の補強に対し失敗を懸念する声も上がったのでした…が、エヴラはほどなくして本来のプレーを発揮。マンチェスター・ユナイテッドFCの左サイドバックのファーストチョイスとなりったのでした。そしてエヴラは、オールド・トラフォードで過ごした8年間で5度のプレミアリーグ優勝や1度のチャンピオンズリーグ制覇に貢献。欧州屈指の左サイドバックとしての地位を確立しました。
その後2014年7月には、120万ポンドでユヴェントスFC(イタリア)へ移籍。2017年1月に、オリンピック・マルセイユ(フランス)へ移籍しています。…ですが、2017年11月2日、ヴィトーリア・ギマランエス(ポルトガル)との試合で、試合前に味方サポーターに対しキックを見舞うという事件が…。試合前にレッドカードという珍事件を起こしていたのでした。
この事件を受け、オリンピック・マルセイユは2017年11月10日付でエヴラを解雇。UEFAも同日に、エヴラを2018年6月30日までの出場停止と罰金の処分を発表しています。
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成功例その2:クリント・デンプシー
2007年
ニューイングランド・レボリューション(アメリカ)
→フラムFC(イングランド)
移籍金200万ポンド
フラムFCはデンプシー獲得以前にも、カルロス・ボカネグラやブライアン・マクブライドなど、MLS(メジャー・リーグ・サッカー)から安定感のある選手たちを獲得していました。しかし、クレイヴン・コテージ(フラムFCのホームスタジアム)に真の違いをもたらしたのは、この米国代表のクリント・デンプシーだったのです。
エネルギーに溢れ、ハードワークを厭わないこのフォワードは、リヴァプールFC戦での1-0での勝利に貢献したゴールで、フラムFCのプレミア残留を決定づけたのです。さらに2010年には、このチームをUEFAヨーロッパリーグの決勝にまで導きました。決勝トーナメントでは、ユヴェントスFCを相手にチップキックでゴール。このゴールは、フラムFCの歴史にいまも鮮明に刻まれています。
その後デンプシーは2012年8月、600万ユーロの移籍金でトッテナム・ホットスパーFCへ。2013年8月には、シアトル・サウンダーズ(アメリカ)へ移籍し、現在(2018年2月)も所属しています。
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成功例その3:ネマニャ・ヴィディッチ
2006年
FCスパルタク・モスクワ(ロシア)
→マンチェスター・ユナイテッドFC(イングランド)
移籍金750万ポンド
ネマニャ・ヴィディッチは、「オランダ史上最高のディフェンダー」と称されながら、かつてマンチェスター・ユナイテッドFCでも活躍したヤープ・スタムの後継者(血の気の多い気性面で)とも言える選手でした。
ボールさばきが巧みなマンチェスター・ユナイテッドFCのディフェンス陣にも、物怖じすることなく馴染んだヴィディッチは、リオ・ファーディナンドと最強のセンターバックコンビを形成しました。この屈強なセルビア人の移籍金は、わずか700万ポンド。アレックス・ファーガソン監督にとって、もっとも利口な買い物だったかもしれません。
2006年には、「リーグカップのメダルが自分にはふさわしくないと感じて、ジュゼッペ・ロッシに譲った」というようなエピソードもあるヴィディッチですが、その後もオールド・トラッフォード(マンチェスター・ユナイテッドFCのホームスタジアム)で活躍を続け、5度のプレミアリーグ優勝、1度のチャンピオンズリーグ優勝に貢献しています。
そして2014年2月、2013-14シーズン限りでマンチェスター・ユナイテッドを退団することをクラブの公式サイトで発表。2014年3月、インテルナツィオナーレ・ミラノ(イタリア)は2014年7月からの加入で契約合意に至ったことを発表。しかしながらインテルでは、故障に悩まされて満足のいくプレーができなかった…ヘルニアの手術も経験しながら2016年1月、インテルナツィオナーレ・ミラノとの契約を解除。ほぼ同時に現役引退も発表したのでした。
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成功例その4:ルイス・スアレス
2011年
アヤックス・アムステルダム(オランダ)
→リヴァプールFC(イングランド)
移籍金2280万ポンド
エールディヴィジ(オランダのリーグ)の得点王であったスアレスは、2280万ポンドの移籍金でリバプールに加入。しかし、この移籍は、あの物議を醸したワールドカップでの「噛みつき事件」が起こるまでは…基本的に成功と考えられていました。しかし、この事件によりスアレスは、7試合の出場停止に。「アヤックスの人食い(Cannibal of Ajax)」というあだ名まで付けられることにはなりましたが…。
スアレスのアンフィールド(リバプールFCのホームスタジアム)での最初のシーズンは上々で、13試合で4ゴールを記録し、リヴァプールFCを6位まで引き上げました。
しかし当時は、彼が世界的なストライカーに成長を遂げるとは誰も予想していなかったことでしょう。2014年、スアレスは大活躍。リヴァプールFCは1990年以来初のリーグタイトルを獲得する寸前までいきました、
このようなストーリーを展開後、2014年7月スアレスは6500ポンドの価格でFCバルセロナ(スペイン)へと移籍したのでした。皆さんご存じのとおり、現在(2018年2月)もFCバルセロナのストライカーとして活躍中です。
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成功例その5:クリストフ・デュガリー
2003年
FCジロンダン・ボルドー(フランス)
→バーミンガム・シティFC(イングランド)
レンタル移籍
2003年1月、バーミンガム・シティFCのスティーブ・ブルース監督は下位に沈むチームを変えるため、どういうわけか当時リヴァプール(イングランド)の監督をしていたジェラール・ウリエにアドバイスを求めました。そしてウリエは、同じフランス出身のクリストフ・デュガリーを推薦。ちょうどそのころ、この気だるさを香らせるストライカーはFCジロンダン・ボルドーのスタメンから外れたところだったのです。
デュガリーは、残留争いのために獲得するような典型的な選手ではありませんでした。ですが、ワールドカップ優勝時のフランスで、中心選手でもあった彼は4試合で5ゴールを記録してクラブの残留を決定づけ、さらにFCジロンダン・バーミンガムを13位にまで引き上げたのです。
すると2003年の夏には、FCジロンダン・バーミンガムに完全移籍することに。この後は、十分なパフォーマンスを発揮できませんでした。2004-2005シーズンには、ドーハのカタールFC(カタール)へ移籍。ここで大金を獲得しながら、現役生活にピリオドを打ちました。
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