フランスの劇作家であり小説家のジャン・ジロドゥ。その彼の劇作『トロイア戦争は起こらない』のように、「ジェームス・ボンドはアストンマーティンには乗らない」と言っても、信じる人はいないでしょう。結果的に、そうはならなかったからです。
確かにイアン・フレミングの原作、つまり活字の世界でボンドが乗っていたのはベントレーでした。ですが、映画シリーズで映像化すべきイメージとして「007」に選ばれたのはアストンマーティンだったのです。そのことは、1960年前後の時代を思えば合点がいくでしょう。ベントレーに続くもジャガーに先立ち、スポーツレーシングカーの世界を席巻していた急上昇銘柄で次なる名門、それが当時のアストンマーティンの立ち位置でした。
公道を走るスーパーなスポーツカーと、サーキットで実際に速いレーシングカーの境目がまだ曖昧だった頃、アストンマーティンは耐候性の高いボディに、長距離を一気に走れるハイパフォーマンスを秘めたGT(グランドツーリング)のジャンルで名を馳(は)ます。しかも戦前、車を引きずったオープンホイール風のボディではなく、時のイタリアン・モダンの流行に通じる流麗でコンテンポラリーなクーペ仕立てで魅了したのです。
原初(げんしょ)のGTと言えば、概してシャシーやパワートレインはスポーツカーと同じまま、雨風をしのげるルーフやウィンドウ、旅の荷物を積めるミニマムなラゲッジルームを備えた空力的なボディ――そういうつくりが主流でした。
長距離・長時間を過ごす都合上、軽さと薄さが命のスポーツカーの内装と違って乗員が快適に過ごせる、機能的で耐久性の高いインテリアも必須でした。その一例としては、座り心地のいい重厚なレザーシートです。要は大衆車と長期休暇がセットで普及し始めた頃から、突き抜けて眩(まぶ)しくてグラマラスな羨望(せんぼう)の対象、それこそボンドが乗るにふさわしいアストンマーティンという名のGTだったのです。
名門英国式GTの様式を反映した必然のSUV
ときは移って60年後の2020年頃。アストンマーティンがついにポルシェ「カイエン」に対抗するようなラグジュアリーSUVを開発中と聞いて、複雑な思いを抱かなかった車好きはいないでしょう。
「フロアもルーフも上に平行移動して重心高が上がらざるを得ないなら、極太なスタビライザーでロールを抑えて、スプリングとショックアブソーバーは突っ張り過ぎない程度に締め上げればOK」とでも言うような今日的なSUVレシピと、生まれながらのスポーツカーやGTが備えている自然で俊敏かつリニアな操縦性は、物理的に両立しづらいものです。期待値が低いというよりも、むしろ「どこに期待値をもっていけばいいのか?」といった話でした。
ところが「DBX」の高性能版たる「DBX707」にいざ相まみえると、そのたたずまいと言うか、数々の空力デバイスの本気度に目も足も止めざるを得なくなります。上側がすぼんだフロントグリルは昔ながらのアストン顔ですが、最大限に空気を取りこまんとするエアインテークやブレーキ冷却ダクトにリップスポイラー、アウトレットを備えたボンネットやボディサイド側面まで、大胆に空力をコントロールする機能的なボディワークこそ、ハイパフォーマンスGTたるアストンらしさです。
リア下端のディフューザーは後方に向かって長く引くほど高速域で空力効果が著しいものですが、ダックテール気味のテールゲートやルーフスポイラーと相まって、こんなに大きく長く引っ張っているSUVは「DBX707」ぐらいのもの。全体に低く構えた「DBX707」の姿勢やシルエットは、むしろ往年のシューティングブレークに通じます。シューティングブレークとは、狩猟用にクーペボディのリアをワゴン化したもので、「いわゆる荷車」の中で最もノーブルな様式です。
いわば「DBX707」はラグジュアリーSUVとアナウンスされつつも、英国式GTにふさわしいコードや様式をキチンと反映しています。ブームだからSUVに寄せたとか、思いつきや即興によるキレイな線で描かれたというわけではなく、スポーツ性とユーティリティを両立させた車として練り込むという、GTの老舗としておなじみの儀礼をこなして必然的にこうなった、そういうカタチをしているのです。
同じことが内装にも言えます。イエローとネイビーのパーフォーレーション(穴開け)レザーによるスポーツシートは、乗降しやすく身体のホールド性にも優れた形状で、タッチも座り心地も優しいセミアニリンレザーです。シート背面やセンターコンソールにあしらわれ、目地があらわになったカーボンパネルの質感も「DBX707」のモダンGTとしての側面を黙して語ります。リアシートは4・2・4の可倒式で、多用途かつ実用的なラゲッジルームも備わります。いわばこの内装、挿し色はビビッドながら、ハイエンドな英国式GTとして至極アンダーステートメントな設(しつら)えと言えるのです。
アストンマーティン史上最高峰にパワフル
シートポジションを合わせてダッシュボード中央のボタンを押すと、エンジンがスタート。ヴロッ! ヴォヴォヴォヴォ…と4LのV8ツインターボが軽快に目覚め、SUVとしては包まれ感の強いコクピットに滑らかな、しかし力強いビートが伝わってきます。実はノーマルの「DBX」は、同じ4Lツインターボでも700Nm・550ps仕様に抑えられていますが、「DBX707」はトルクが+200Nm、パワーも+157psトップアップされた900Nm・707ps仕様です。
ちなみにアストンマーティンが、今やメルセデスAMGからM177系V8エンジンの供給を受けていることは周知の事実。ですが、メルセデス・ベンツのエンジンM177、もしくはM188ファミリーを見渡しても、900Nm・707㎰のスペックは最強レベル。先日(2023年5月24日[現地時間])に発表されたばかりのフラッグシップモデル「DB」シリーズの最新モデル「DB12」ですら800Nm・680psですので、「DBX707」の頭一つ抜けた怪力ぶりが察せられるでしょう。
荒々しさと理性の狭間に確かに存在する、アストンの煌き
モデル名がそのまま最大パワーに由来していたと聞くと、えらくマッチョな印象を受けるかもしれません。ところが「DBX707」を走らせてすぐに感じるのは、筋肉めいた強烈なトルク&パワーよりも、それを路面にちゃんと伝える駆動系のダイレクトさと、しなやかに蹴り上げていく足まわりの高解像度ぶり。その力みなぎる輪郭の抑制された美しさは、鍛えられた肉体が仕立てのいいシャツとスーツの下に収まっているような感覚です。
レーシングカー由来の湿式クラッチを組み合わせた9速ギアボックスが、素早くダイレクトな駆動レスポンスに貢献していることは疑いありませんが、タイヤグリップとエンジントルクの両方を強化したらプロペラシャフトがねじ切れたというのは、ハイパフォーマンスカーやチューニングカーによくある話。ゆえに900Nmものトルクに対して有無を言わせないソリューション、超軽量カーボンファイバー製プロペラシャフトの効果も絶大です。
5種類あるドライブモードは、オフロード用の「Terrain」に、コンフォート重視の「GT」、鋭さを増す「Sport」に、最もハードな「Sport+」、さらに足まわりやステアリングなどを個々に設定可能な「Individual」があります。そのうちの「Sport+」が、「DBX707」専用モードです。足まわりにはトリプルチャンパー・エアサスペンションに電子制御式可変ダンパー、さらにeARC(電子制御式アンチロールコントロール)が組み合わされ、モードに応じて車高の上げ下げごと、きめ細かくアクティブ制御されます。
どのモードで走らせても、鈍いとか遅いと感じることはないでしょう。むしろ共通して言えるのは、ただでさえ低回転域からエンジンが力強いうえに、ボールベアリングを採用したターボの立ち上がりが俊敏で、欲しいだけのトルクが即座に沸き上がります。さらにアクセルを深く踏み込めば、大きなICE(インターナル・コンバッション・エンジンの略。内燃機関のこと)らしからぬ息継ぎのないレスポンスで強烈加速が始まり、ステアリング応答の質も上がっていきます。
手応えは概してどっしりながら、操舵(そうだ)感はもっさりしているどころか、SUV離れしたキレ味。コーナーでノーズを素早くインに向けられるため、曲がりくねった郊外路でも気づいてみれば望外に速い速度で巡航している…そんな調子です。52 :48という前後重量配分もさることながら、数々の空力デバイスによる路面への吸いつきも効いているのでしょう、常識的な速度域で走っていても手元に雑味のないしっとり感が伝わってきます。
ロール量はゼロではないものの、そもそも低重心で姿勢変化のスピードも巧みに抑え込まれています。420mm径ディスクに6ポッドキャリパーが組み合わされたフロントブレーキの強大な制動力と相まって、2. 2トン強の重量すら意識の埒外(らちがい=一定の範囲外)に追いやられそうです。さらにとどめには、スムーズだけれど野性味あふれる、咆哮(ほうこう=けものなどが、ほえたけること)か雷鳴のようなエキゾースト音がオーバーラップしてきます。
そう、「DBX707」を深堀りしたら、アストンマーティンのGTとして乗り手に純粋なアニマルスピリットで御することを求めてくるような、底なしの荒々しさを秘めています。蛮勇をもって挑むべき1台がSUVというのは、乗る前はどこか倒錯しているように感じられますが、一線を越えてみたら納得の快感…と言うか、乗り手の理性の皮を一気呵成(かせい)どころか、1枚ずつ剥いでくるような独特のエモさが、アストンマーティンなのです。
Text / Kazuhiro Nanyo
Photo / Motosuke Fujii(Salute)
Edit / Ryutaro Hayashi(Hearst Digital Japan)