2月18日はイタリアの実業家であり、F1と高級スポーツカーのフェラーリ創設者であるエンツォ・フェラーリの生誕の日になります。
イタリア半島のモデナ郊外で鉄工場を営む家庭に生まれ、そして10歳のときに父に連れられて観戦したボローニャでのカーレースに感激。10代後半で迎えるころには、スポーツライターとしての仕事をするようになったエンツォでしたが、ボローニャでの感激が忘れられないまま、レーサーになることに恋い焦がれる…。
◇第一次世界大戦の終戦後
第一次世界大戦の終戦後、フィアット社でレーシングドライバーになろうと門をたたきますが、あえなく断られることに。その悔しさを胸に、自動車メーカーのCMN社に採用され、レースカーの世界へ入ることができたのです。1919年には、19歳でテストドライバーとしてデビューできたのです。そしてその後、名門アルファ・ロメオに移籍。1920年にはテストドライバーとなり、レーシングドライバーに昇格すると約20年近く活躍することになります。
当時のレース界は、フィアット全盛。アルファ・ロメオなど問題にもされていなかった時代。そこでエンツォは、他社から開発エンジニアと設計者を引き抜きました。そして、最強のマシンを作り上げたのです。そこには、自らを断った悔しさいがあったに違いありません。やがてアルファ・ロメオはフィアットを破り、王者に。これを機に、フィアットは衰退していったのでした。
しかしながら、アルファ・ロメオは財政難により、レースからの撤退を余儀なくされる自体に。それに伴って、エンツォは故郷のモデナにアルファ・ロメオのディーラーとしてガレージを設立したのです。そうして1929年には、エンツォが31歳のとき、レーシングドライバー仲間と共同出資により“「ソシエタ・アノニーマ・スクーデリア・フェラーリ”を設立。アルファロメオのセミワークスチームとして活動を始めたのです。1932年には、エンツォの長男であるアルフレード(愛称ディーノ)が生まれたのを機に、レーシングドライバーを引退。引退後はアルファロメオのワークス・チームのマネージャーも務め、当時勢いのあったメルセデス・ベンツやアウトウニオンなどのドイツ勢を向こうに、好成績をたたき出したのでした。
実際、デビュー時は無残な結果でした。ですが、「空飛ぶマントヴァ人」と称され、20世紀最高のドライバーと語り継がれるタツィオ・ヌボラーリをドライバーに迎えると、たちまち初優勝することに。その後も再び財政難に直面。レース参加も断念しなくてはならない状況にも追い詰められたのですが、当時圧倒的な強さを誇っていたメルセデス・ベンツを倒すために再起をかけます。
その思いが結実となったのが1935年、世に言う「ニュルブルクリンク(旧コース)の名勝負」。祖国イタリアのために果敢に闘い、かけ離れた高性能のメルセデスに勝利したのです。(その背景には、政治的そしてエンツォとタツィオの確執等、さまざまな物語が交差するなかでの勝利、興味ある方はぜひともご自身で調べてみてください)
そうして時は流れ、“スクーデリア・フェラーリ”は産みの親アルファ・ロメオと対立。解散となると、エンツォはふたたび悔しさを胸に、打倒アルファ・ロメオを誓ってF1に参戦することになったのです。第二次世界大戦後には、エンツォはレーシング・チーム兼自動車メーカーである「フェラーリ」を設立。そう、いまからちょうど70年前の1947年のこと。レースで得た技術と知識を活かし、最高のスポーツカーを開発・製造・販売することで、レース参加の資金を稼ぐシステムを作り上げたのでした。
◇1950年から始まったF1
翌1951年には、所属ドライバーのフロイラン・ゴンザレスが初優勝を果たします。その後も古巣であるアルファロメオを破り続け、イタリアのナショナル・チーム的存在となることに。そうしてそれ以降、“スクーデリア・フェラーリ”のマシンは、F1やル・マン24時間、そしてミッレ・ミリアなどのレース界で輝かしい成績を残し続け、今日に至るわけです。
1960年代終盤になると、フェラーリはフィアット傘下に収まることとなるのですが、それでもフェラーリの偉大さは変わらず。レース界に刻みこまれたエンツォの魂は濁っていません。そして、その精神はレース場ばかりでなく、街にも…。
1950年代以降、市販車であるフェラーリは、ヨーロッパばかりでなくアメリカや日本、そして中東、中国をはじめとする国々のセレブリティー愛用のブランドとして成長したのです。
「カヴァリーノ・ランパンテ(跳ね馬)」のエンブレム、そして真紅のナショナルカラーをまとったクルマは、その高い性能と美しいデザインで多くの国でいまもなお憧れの眼差しで見つめられているのです。エンツォの情熱が宿ったロッソコルサ(フェラーリレッド)のボディを、いつかは乗りこなそうと…。
アルファ・ロメオESを駆るエンツォ
Photograph/AP(Aflo)
Enzo Anselmo Ferrari
エンツォ・アンゼルモ・フェラーリ(1898年2月18日生~1988年8月14日没)
フェラーリの創設者であり、F1の名門コンストラクター「スクーデリア・フェラーリ」の祖である、「ソシエタ・アノニーマ・スクーデリア・フェラーリ」を1929年に創設。そして第二次大戦後の1947年に自社製レーシング・マシンを開発しながら、レーシング・マシンをベースにした高級スポーツカーの販売も行うフェラーリを創業したのでした。
1919年よりレーサーとしてのキャリアを開始したエンツォ。上の写真は1921年にイタリアのトスカーナ州ムジェロにあるサーキットにて、アルファ・ロメオESを駆るエンツォ。
フェラーリ・500F2を駆るアスカリ
Photograph/National Motor Museum(Heritage Images/Getty Images)
Alberto Ascari
アルベルト・アスカリ(1918年7月13日生~1955年5月26日没)
写真は1952年のアルベルト・アスカリ。1929年にレーシングドライバー仲間と共同出資で“スクーデリア・フェラーリ”を設立。アルファロメオのセミワークスチームとして活動を開始しました。そして1932年に、長男のアルフレード(愛称ディーノ)が生まれたのを機に、レーシングドライバーを卒業し、マネージメント業に徹するのでした。
そして1949年、エンツォはアルベルト・アスカリを“スクーデリア・フェラーリ”に加入させ、1950年から1952年の間にフェラーリで多くのレースで好成績を残すのでした。
1952年と1953年に世界チャンピオンになるのですが、圧巻は1952年。この年からすべてのグランプリを獲得し、1953年中頃まで負け知らずでした。 特に1952年のF1では圧倒的な強さを見せ、参戦した7戦中6戦で優勝。優勝したレースではすべてファステストラッをを記録するという偉業をなしたのでした。そのうち5度はポールトゥーウィンという成績で、フェラーリドライバーとして初のF1チャンピオンに。モンツァ・サーキットで行われたヨーロッパグランプリでも優勝し、イタリアを代表するドライバーとしてエンツォともども世界にその名前を轟かせたのでした。
モンツァのフェラーリピットにて
Photograph/Ronald Startup(Picture Post/Getty Images)
1953年9月13日、ドライバーのアルベルト・アスカリとマイク・ホーソーン(1929-1959、右)とともに、モンツァのフェラーリピットにて。
この年のF1でも、アルベルト・アスカリは8戦中5勝の好成績で、チャンピオンに。シリーズ初の連覇を達成したのでした。
アルファ・ロメオESを駆るエンツォ
Photograph/akg-images(Aflo)
50年代はF1やル・マン24時間レース、ミッレ・ミリアなど、各レースで輝かしい成績を残してきたエンツォ。1952年には、ボディデザインはピニンファリーナに委託するなど、持ち前のマネージメントの高さを発揮し、レースともどもフェラーリの市販車も世界のセレブリティたちに人気となってくる。この写真は1956年、本拠地であるモデナにて。この年、哀しい出来事もありました。最愛の息子、アルフレード(愛称:ディーノ)が亡くなったのでした。このディーノの死後、エンツォは滅多に公の場に現われなくなり、そして本拠地モデナを離れることもなかったそうです。
モデナのファクトリー前にて
Photograph/Alinari(Aflo)
1958年、モデナのファクトリー前のエンツォ。やはり、どことなく元気がない表情にも見えます…。
モンツァでF1マシンのテスト中
Photograph/Alinari(Aflo)
1960年かと思われます。モンツァにて、F1マシンのテスト走行の日、ピットにて一時休憩。ドライバーのフィル・ヒルと談笑するエンツォ・フェラーリです。
マシンは画像でわかる範囲のディテールから推測すると、1954年から1960年にかけてスクーデリア・フェラーリがF1世界選手権で使用したフォーミュラ1カー「246」かと思われます。この車名の数字は「2,400ccの6気筒エンジン」を表しています。エンジン開発にはアルフレード・フェラーリが携わり、彼の愛称にちなんで「ディーノ 246F1」とも呼ばれています。
ファクトリーの前で愛車に乗り込むエンツォ
Photograph/Alinari(Aflo)
1960年代。モデナのファクトリー前で、乗り込もうとしているクルマは「330GT2+2」とお見受けします。このクルマの発売は1964年になるので、この写真もそれ以降のものだと推測できます。
亡き長男の愛称を受け継ぐ傑作「ディーノ」
Photograph/National Motor Museum(Heritage Images/Getty Images)
実はエンツォ・フェラーリの長男であるアルフレードは、1956年に夭折(ようせつ)していたのでした。
そんなアルフレード(愛称はディーノ)が、闘病中の病床でアイデアを出したとされるのが、65度V型6気筒DOHCエンジンを搭載したこのクルマ。既存のV型12気筒エンジン搭載車とも区別するために、エンツォは長男の愛称である「ディーノ」の名前で発表したのでした。
1967年(1968年という話もあります)から1969年に、「ディーノ 206 GT」として製造・販売することに。
写真は、1969年から1974年まで製造・販売した「ディーノ 246 GT」。排気量をあげ、65度V6 DOHC 2,418ccエンジンを搭載。さらにシャシも変更を加え、乗りやすい当時としては最高峰の性能を誇るスポーツカーという評価を得ています。
1988年、まさに晩年のエンツォ
Photograph/GUIS PATRICK PRODUCTIONS/GAMMA/Eyedea Presse(Aflo)
1973年には、フィアット一族出身のルカ・ディ・モンテゼーモロをスクーデリア・フェラーリのマネージャーにするなどし、チーム運営の第一線から離れていたエンツォ。1977年には、会長職を退くことに。
そして写真は1988年3月23日のエンツォ。この約5カ月後の8月14日に、腎不全のため満90歳でこの世を去ることとなりました。この死に対し、イタリア全体が喪に服したのでした。
2002年発売した「エンツォ・フェラーリ
Photograph/Cameron J Spencer(Getty Images)
写真は2002年10月17日、シドニーで開催されたシドニー国際モーターショーにて、新たに発表された「エンツォ・フェラーリ」の写真です。
創業55周年を記念して製造・販売した記念モデルとして、創始者エンツォ・フェラーリの名を冠して発表されました。 フェラーリは記念モデルをこれまで、「F40」、「F50」と続けて発表してきました。それに続く21世紀最初のスペチアーレ(限定生産車)としての力作になります。大出力のエンジンは、ミッドシップマウントするという伝統は見事に受け継いでいます。
記念モデルなので、多くの人は社名は「F60」だと思っていたところ、2002年6月25日に「エンツォ・フェラーリ」という名を公表したのでした。同年9月28日のパリモーターショーで正式公開。349台+追加生産50台の計399台が生産されたのでした。
このモデルで我々日本人にとって、特に注目すべきことが他にもあります。それはデザイン。当時、ピニンファリーナに在籍していた日本人カーデザイナーKen Okuyamaこと、奥山清行氏がデザインを担当したのでした。
ムゼオ・エンツォ・フェラーリ
Photograph/Venturelli(WireImage)
写真は2012年3月9日に、イタリアのモデナでオープンとなった「Museo Casa Enzo Ferrari(エンツォ・フェラーリの生家博物館)」に出席したエンツォ・フェラーリの次男、そしてフェラーリの現副会長であるピエロ・フェラーリ。この日、彼は祝辞を述べました。
マラネッロにあるMuseo Ferrari Maranello(フェラーリ博物館)がフェラーリの車両を中心としているのに対し、こちらのMuseo Casa Enzo Ferrariはその名のとおり、エンツォ・フェラーリとモデナにまつわるクルマたちが展示されています。