この記事は、『エスクァイア』米国版の1983年12月号で掲載されたものです。被爆者の方やそのご家族の皆さんとって不快に感じられるであろう表現も含まれていますが、当時のアメリカのメディアがオッペンハイマーをどう捉えていたのかの一例を紹介するべく、そのまま記載しています。


オッペンハイマーが原子爆弾について解説する様子
Hulton Archive//Getty Images

破壊の設計者として歴史の征服者として

1945年、アメリカの砂漠でひそかに、そして初めて爆発した凶暴な兵器は単に歴史を変えただけでなく、歴史を終わらせる力を解き放ちました。その爆弾は何百人もの鋭敏な頭脳の仕事がなし得た産物であり、そこで最たる能力を発揮したのがJ・ロバート・オッペンハイマーでした。彼はその兵器が形を成したニューメキシコ州にあるロスアラモス国立研究所の一同を率い、その功績の栄光は――それが栄光であるとするならば――オッペンハイマーのものでした。しかし悲しいことに、この兵器が自己破壊の可能性も秘めたものであることを後に思い知らされることになります。

39年前(注:2023年時点で78年前)の7月、ロバート・オッペンハイマーはニューメキシコの砂漠を見渡し、火球の大きさを測り、自分が地球上の全ての生き物を原子力時代の陰鬱(いんうつ)な夜明けへと導く案内人になってしまったことを自覚したのです。後に彼はそのときの思いを、のちにヒンドゥー教の神「クリシュナ」の言葉になぞって回想しています。

Now I Am Become Death, the Destroyer of Worlds我は死なり、世界の破壊者なり)」

この言葉は打ちひしがれた罪人の叫びなのか、それとも征服者としての歓喜なのか、彼自身でさえ確信をもって言うことはできないでしょう。彼の本質は常に、分裂した魂の曖昧さの中にありました。そしてさらには、彼や他の挑戦者たちが失敗していれば、より安全であったであろう世界の中で勝利した人物…とはいうものの、非常に曖昧な存在感でしかなかったことも否めません。


オッペンハイマーの生涯
Historical//Getty Images
幼少期。父と

もし彼が突然の名声を得た瞬間、世間が彼を知るよりも彼が世間のことを知っていたならば、オッペンハイマー自身もっと平穏な生活をおくっていられていたかもしれません。彼はマンハッタンの風光明媚(めいび)な大通り、リバーサイド・ドライブにある裕福なドイツ系ユダヤ人の家庭で誕生し、そのときから立派な温室の中で育っていきました。

物心がつく頃には洗練された――実際のところ独善的な――空気に平穏を感じ、対岸で吹く荒風に怯(おび)えていました。彼の教育は、エシカル・カルチャー・スクール(Ethical Culture School:名門アイビーリーグ準備校のひとつ)が始まりでした。この学校は改革派ユダヤ教に残る古い迷信を捨て、世俗的ヒューマニズムの信心深さに身を包んだ家族の避難場所だったのです。

その後、彼はアイビーリーグのハーバード大学に進学しましたが、当時ニューヨークのユダヤ人の入学志願者は最優等の成績で卒業できる能力が約束されていない限り入学を許されないとされていました。そうして彼は、ハーバードの信頼を裏切ることなく同校を優秀な成績で卒業し、すぐにイギリスのケンブリッジ・クライスト・カレッジへ。そして、ドイツのゲッティンゲン大学へと進みます。ケンブリッジ大学ではニールス・ボーアとポール・ディラックに出会い、ゲッティンゲン大学ではマックス・ボルン(注:それぞれデンマーク、イギリス、ドイツの理論物理学者)に師事しました。それらの理論物理学の偉人たちは、アメリカで「最も教養ある人々」にとっては知られていない存在でしたが、オッペンハイマーにとっては家族同然の存在だったのです。 

原爆の父、j・ロバート・オッペンハイマーの幼少期の写真。母と撮影
Historical//Getty Images
母との記念写真

世情に疎い天才

ドイツで博士号を取得するとハーバードに戻ったオッペンハイマーは、その博士号を生かして生計を立てていました。そして、そのときには既に彼は、謎のヴェールに包まれた存在だったのは言うまでもありません。分子振動に関するハーバード大学の会議で彼と出会ったプリンストン大学の大学院生フィリップ・モースは、その最初の出会いについて「彼が何を言っているのか全くわからなかった」と言います。そして、「それ以上の鮮明な記憶はない」と続けます。

ハーバード大学で4カ月、カリフォルニア工科大学で5カ月間過ごした1927年は、彼の経験の中で最も目的のない年となりましたが、その後にロックフェラー財団の助成金を受け、居心地のよい新しい物理学の中心地であるヨーロッパに12カ月間逃避できたことが、そんな彼にとっての救済となってようです。

1929年の夏、彼はカリフォルニア大学バークレー校の助教授職としてアメリカに戻りました。しかしバークレーは、理論物理学にとって砂漠のようなところでした。ですが、そんなところであるにもかかわらず…、いや、そうであったからこそ、彼はバークレーに心地よさを感じ、花を咲かせるのには最適な地と知ったようです。

オッペンハイマーの肖像写真
Historical//Getty Images
オッペンハイマーの証明写真

バークレーの実験主義者たちは、彼が何を言っているのか全く理解できませんでした。だからこそ彼らはすぐに、オッペンハイマーは「解読不能なものでありながらも知識の宝庫」と認識し、そこから引き出したプロジェクトの実用性に関する健全で明確な評価を信頼するようになったのです。そうして彼は、さらに頼りにされるようになっていきます。

しかし、心から称賛しているにもかかわらず、同僚たちは彼と一緒にいると、なんとはなしの浮世離れした世情に疎い人物と一緒にいる感覚を、最後まで払しょくすることはできなかったようです。実際、その感覚は正しいものでした。彼の父親の織物事業で得た資産が、大恐慌によっても本質的なダメージを受けていなかったからかもしれません。「株式市場が大暴落したことを知ったのは、ずいぶん後のことだった」と、彼はよく語っていました。そもそもロバート・オッペンハイマーは当時、めったに新聞に目を通すことすらなかったのです。
>第二回に続く


Translation: Yumiko Kondo

From: Esquire US