ペンシルバニア州のバックスカウンティーは、アメリカ史にその地名の刻まれている場所です。
第一に、ジョージ・ワシントンの軍隊が1776年のクリスマスの日、デラウエア川を越えてドイツのヘッセン兵に対する夜襲を行う前に駐留した地として知られています。しかしそれよりも、むしろクリエーターたちの集う、牧歌的な集落としての長い歴史的役割によって知られているのがバックスカウンティーです。
パール・バック(Pearl Buck)やドロシー・パーカー(Dorothy Parker)、ジェームス・ミッチェナー(James Michener)などの作家や、モス・ハート(Moss Hart)やオスカー・ハマーステイン(Oscar Hammerstein II)といった脚本家、女性誌『ハーパーズ バザー』のアートディレクターであるアレクセイ・ブロドヴィッチ(Alexey Brodovitch)などがこの土地に別荘を構え、安らぎの時間を過ごしてきました。
また、日系2世の家具デザイナーであるジョージ・ナカシマ(George Nakashima)は、この地で家具の制作に励みました。さらに若き日のロバート・レッドフォードは、1963年に当時新進の脚本家であったニール・サイモン原作の舞台『裸足で散歩(Barefoot in the Park)』を演じるにあたり、その初日をこの地の劇場「バックスカウンティー・プレイハウス」で迎えています。※のちに映画『裸足で散歩(Barefoot in the Park)』が、同じロバート・レッドフォード主演で1967年に公開されます。
映画『真昼の決闘』におけるグレース・ケリーの光り輝く演技が、銀幕に映し出される1952年以前の年に彼女が(舞台)女優としてデビューしたのもこの「バックスカウンティー・プレイハウス」です。『フィラデルフィアからモナコへ:グレースケリーとその素顔(From Philadelphia to Monaco: Grace Kelly—Beyond the Icon)』と題された巡回展(日本では『グレース・ケリー展 ~モナコ公妃が魅せる永遠のエレガンス~』というタイトル)においても、そのことに触れられていました。
そこでグレースのまとった41着のドレス(ジバンシー、ディオール、バレンシアガ、マダム・グレ他のドレス)、そして写真、彼女の獲得したオスカー像とともにバックスカウンティーへと運ばれ、ドイルズタウンのジェームス・A・ミッチェナー美術館で展示されていました。モナコ大公のアルベール2世(父はレーニエ3世、母はグレース・ケリー)とシャルレーヌ妃によるパーティーも催され、その招待に応じてニューヨーク、フィラデルフィア、そしてモナコからこの小さな街へ、大勢の人々とメディアが集結したのです。
アルベール2世はいまもなお、ケリーの親族、特にクリス(グレース・ケリーの甥)とヴィッキーのレヴァイン夫妻のもとへ折にふれ訪ねており、2011年に催された自らの結婚式に際しては、フィラデルフィアから一族の面々をホテル・モンテカルロ・エルミタージュに招待しています。
「アルビー(アルベール2世のニックネーム)は、いまも素晴らしい少年よ」と胸を張るのは、10歳のときにグレースとレーニエ大公の結婚式でフラワーガールの大役を務めた従姉のメグ・パッカーです。彼女はそう言った後、間違いに気づいて笑い出しました。
「少年ですって! いまや立派な男性と言うべきね。彼はとても気さくで面白く、地に足の着いた人物ですよ」と。
アルベール2世とクリスは、しばしば、いわゆる男同士の旅行を一緒にしています。クリスの結婚の際にはアルベールが介添人を務めており、二人は固い友情で結ばれています。最近ではサウスダコタ州デッドウッドに出かけ、そこで牧場を営むケビン・コスナーと共に乗馬を楽しんだばかりです。
アルベールの有名な妹たち、カロリーヌ公女とステファニー公女(ふたりともグレース・ケリーの娘)は、もうしばらくフィラデルフィアに“里帰り”していません。2人の公女とケリー家との交流は、もっぱら地中海に面した海辺にて行われているようです。
「2人とも、とてもお元気そうです」と、クリスは彼女たちの近況とともに教えてくれました。「エルンスト(夫、エルンスト・アウグスト・フォン・ハノーファー=ハノーファー王国およびブラウンシュヴァイク公国の王族の子孫)とはひと悶着(もんちゃく)あったようですが、アンドレア(前夫ステファノ・カシラギとの間の長男<大公位継承権第4位>)の結婚相手にも、孫にも満足しているようです。
一方、ジョン・ブレンダン・ケリー3世については、タブロイド紙やゴシップ誌の記事に目をやることはなく、従兄弟/従姉妹たちの賑やかな人生については関知しないという態度です。「まあ、載っている写真くらいは見るようにしていますよ」と言って、クリスは笑います。「自分が写り込んでいるかもしれませんからね」と。
グレース・ケリー展のオープニングを祝うディナーを待つ間、カクテルの振る舞われる会場では、黒いネクタイを締めた男性ゲストたちも思い思いに過ごしていました。が、目につくのはもちろんのことながら、その場を華やかに彩るオペラ・グローブと高価な宝石を身に着けた女性ゲストたちの存在でした。
弦楽三重奏が室内楽を奏で、バーテンダーたちは忙しくカクテルを用意しています。クリスとヴィッキーはフィラデルフィアの一族を代表して、ホスト役を務めるのが習慣となっています。
私(筆者)はと言えば、『ハミルトン(Hamilton)』への出演でよく知られる俳優兼シンガーのレスリー・オドム・ジュニアと、会場の角で飲み交わしていました。オドムはカーネギーメロン大学在学中に、レヴィーン夫妻およびクリスの妹で1999年に亡くなったグレースによる奨学金の15000ドルを与えられています(奨学金は、プリンセス・グレース財団により、毎年選ばれる芸術分野の25種類の賞のうちのひとつです)。
私の目の前には、アメジストをあしらったヴィンテージのホルストンを身に着けたジーナの姿があり、彼女はまるで人形のお姫さまのように優雅な様子でパーティーを楽しんでいるようでした。
「ジーナからは一族の名声に頼らずに、自分の力で人生を切り開くのだという強い決意を感じます」と、オドムは言いいながら、彼女の女優としての将来に間違いはないと太鼓判を押しています。
アルベール2世は、母親としてそして善き妻としてのグレース・ケリーに対する人々の関心が、女優および公妃としての彼女に対する関心と同等に高まることを願っていると語っています。「母(グレース・ケリー)の魂に宿っていた高潔さ、寛容さは、私たちの中に永遠に残るものなのです」とも語ります。
アルベール2世は同様のスピーチを行っており、それは母であるグレースがポピュラーカルチャーの世界のみならず、モナコ公国においても影響力ある女性であったことを示しています。彼女の記憶がいまもなお、まるで消えることのない特別な霧のように、大切に保たれているのです。
会場には、ナット・キング・コールの曲を披露するレスリー・オドム・ジュニアの、艶のあるゴージャスな歌声が響いていました。最後を締めくくったスタンダード・ナンバーのひとつ『Unforgettable(アンフォゲッタブル)』は、忘れ去られることのないグレース・ケリーの存在と見事に調和していました。
彼女の遺族たちにとってのみならず、その抑制の利いたスタイル、エレガンス、そしてセレブリティ―の中でも特異な存在であったことなど、ある種の象徴としてグレースは忘れ得ない存在となっているのです。
私(筆者)がテーブルをともにしたのは、モナコから訪ねて来たアルベール2世の友人たちやビジネス・パートナーと言った面々です。彼らの誰もがアルベールの善き守護者であり、そこにはいかなるゴシップも悪意もありませんでした。
アルベールとシャルレーヌは広間の中央で、記念写真を求める人々に囲まれていました。彼らも承知していることだとは思いますが、これが“アメリカ流”のちょっとした愚かさを伴った敬意の表し方なのでしょう。
「あんな状況にまできちんと付き合うとは、信じられないよ」と、私は誰にともなく言いました。テーブルのあちこちで、人々がうなずきました。いつ、どこにいても人々に囲まれて、そのことに時間や意識を奪われながら過ごさなければならない一生など、我が事として想像できるでしょうか? 偉大なる母親の影の中に立ち続ける人生において、真の自分自身を見つけ出すことなど、はたして可能なのでしょうか?
「もしかしたら、それは影などではないかもしれないね」と、気さくな様子で応じてくれたのは、私の左の席に座るモナコのエリート層のために造園業を営むジェームス・バソンです。「むしろ、強烈な太陽光線かもしれない」と。
ディナーが終わると筆者である私は、また展示場へと戻りました。私が見落としたグレースの遺品がないか、念を入れて確認しておきたかったのです。壁を飾る写真の数々を眺めながら、ある一枚に注意を惹かれた私は足を止めました。
ジャマイカのモンテゴ・ベイのスイミング・プールの前で、1967年に撮影されたポートレイトというよりは、スナップショットと呼ぶべき白黒写真でした。
9歳のアルベールが、わんぱくそうな笑顔をカメラに向けていました。彼の背後には水着姿の母親が立っており、まるでわが子を守ろうとするかのように、両手を息子の頭上に優しく添えています。
スイミング・キャップからこぼれる彼女の髪は濡れており、肌には水滴をまとっていました。カメラから目を逸らすように太陽のほうを向いた彼女の表情は、満足感をたたえていました。
余談ですが、まだ頭の中に『Unforgettable(アンフォゲッタブル=忘れられない人)』が流れ続けている方へ…。この曲はもともとは『Uncomparable(比べることのできない人)』というタイトルだったそうです。きっとレスリー・オドム・ジュニアは、そんな意味も込めてこの曲をグレース・ケリーに捧げたのでしょう。(おわり)
From Town & Country
Translation / Kazuki Kimura
※この翻訳は抄訳です。