ドアをすり抜けるように室内に現れたグレース・ケリーは、妹のリザンヌに挨拶のキスをすると、母親の顔を見るために階段を駆け上がっていきました。頭にかぶったスカーフ、サングラス、そしてロンドンのテイラーで仕立てた黒いスーツ…まさに、雑誌の紙面を飾る姿そのままの神々しい装いでした。

これは1954年10月13日、
午前中の場面


米国・北フィラデルフィア駅に到着したグレースが、「フォーディー(Fordie)」の名で親しまれていたケリー家のお抱え運転手ゴドフリー・フォードによって、生家へ帰還したのでした。

15部屋を有するケリー家の豪邸は、スクールキル川沿いの丘陵を埋めるイースト・フォールズ地区の労働者階級の近隣にあり、異彩を放つ建物。ブルーカラーの住人が代々築き上げてきた、お世辞にも優雅とはいえない地区にありながら、冬の間には子どもたちのためのスケートリンクにもなるテニスコートを備えた、広大な裏庭を誇るケリー家の屋敷。毎年のクリスマスには、見事な模型電車が走り回る巨大な地下室までありました。

グレースは、その一週間前にもフィラデルフィアに帰省していました。

彼女の短すぎる人生において、もうすっかり当たり前のこととなっていた授賞式に出席するためです。今回の賞は、「ペンシルバニアの生んだ特別な女性」に対して授与されるもので、実業家の娘であるサラ・メロン・スカイフ、彫刻家のジャネット・デ・クーも受賞者として出席していました。金メダルは、事前に州都ハリスバーグで知事の手から各受賞者に直接手渡されていました。

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Getty Images
フィラデルフィアの実家で、両親に結婚の報告をするグレースとレーニエ3世。

半年ほど前に、出演作の『喝采(The Country Girl)』でアカデミー主演女優賞のオスカー像を手にしたグレース・ケリーが、毎週のように公共の交通機関を利用して帰省し、まるで学校から帰宅する10代の少女のように両親の家に駆け込む様子には、少しばかり奇妙な印象を覚えずにはいられません。

ケリー家は貧しい
アイルランド系移民として
アメリカへと渡ってきた後、
わずか二世代で成功した一族

ファッションデザイナーのオレグ・カッシーニとの仲は、家族の反対にあって破局したばかりでした(彼の出自と2度の離婚歴が問題視されたのです)。国際的なスターであるよりも、そして「ペンシルバニアの生んだ特別な女性」であるよりも前に彼女は、貧しいアイルランド系移民としてアメリカへと渡ってきたケリー家の娘だったのです。そして当時のケリー家は、アメリカに移ってわずか二世代のうちにビジネスや政治、スポーツ、芸術などの分野で名声をはせるまでになった、この街における最も影響力のある一族だったのです。

その朝、グレースは地元紙のコラムニストのルース・セルツァーに対し、ダイニングルームのテーブルを挟み、次のように語っています。「私の家はここ、フィラデルフィアよ。あまり長く遠くに離れていたくはないの」。

1957年の話題作となった小説『フィラデルフィアの人々(The Philadelphian)』において、作家リチャード・パウエルは、この街の社会を形成する各階層を、実に見事に描き出しています。

ケリー家の存在は
圧倒的なおとぎばなし

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グレース・ケリーが幼少期に住んでいた、フィラデルフィアのイースト・フォールズ地区にある邸宅。

財産、人々の出自としてのヨーロッパにおける異なったルーツ、それから人々の体内を流れる労働者の血により、社会が形作られているのです。父親のジョン・ブレンダン・ケリーはボート競技のオリンピック選手であり、ビジネスで財を成した億万長者でもあり、政治力にも長(た)「けた男性でした。一族が街の有力者の仲間入りをはたしていく様子は、劇作家フィリップ・バリーの『フィラデルフィア物語(The Philadelphia Story)』に印象深く描かれています。

ケリー家がいかに富を築こうとも、娘であるグレースがいかに華やかな時の人となろうとも、労働者階級の出自として一族の持つ歴史を消し去ってしまうことはできないのでした。しかし当然のことながら、そのようなことでケリー家の輝きが損なわれるというわけではありません。その富と優雅さ、影響力の大きさで、フィラデルフィアを象徴する一族となっていたことには違いはないのです。

かつてレンガ職人…
それだけの理由でボート競技の
出場を
却下された父

堂々たる歴史を持ちながら、北方で栄華を極めてゆくニューヨーク、そして南方のワシントンDCに挟まれ、存在感を弱めていくフィラデルフィアにあって、ケリー家の存在は圧倒的なおとぎばなし的な存在だったのです。

やがて国際的知名度を誇るボート競技選手となるジョンですが(グレースの父、「ジャック」の愛称でも知られていました)、1920年のヘンリー・レガッタ(「ヘンリー・ロイヤル・レガッタ」とも呼ぶ、イギリス上流階級のボート競技)への出場は、かつて彼がレンガ職人であったことを理由に却下されています。

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Keystone-France/Gamma-Keystone via Getty Images
1935年に撮影されたケリー家。グレース・ケリーが5歳の頃の写真。

奢(おご)ったイギリス人の基準において、職人がジェントルマンの仲間入りをすることは認められなかったのです(ジョンがアイルランド系カトリック教徒であったことも無関係ではないでしょう)。見返すことを誓った彼は、その後3つのオリンピック金メダルを獲得しています。「ケル」という愛称で親しまれた息子のジョン・ブレンダン・ケリー・ジュニアは、1947年そして1949年に、ついにヘンリー・レガッタで優勝の栄冠を手にしています。1948年ロンドンオリンピック、1952年ヘルシンキオリンピック、1956年メルホルンオリンピックにも出場し、銅メダルを獲得しています。

一族には他に、
偉業を成し遂げた面々も

ジャック(父ジョン)の弟ウォルターは芸人として人気を得ていましたし、もう一人の弟ジョージは脚本家として、ピューリッツァー賞を受賞しています。

ジャックは文字通り、レンガを積み上げて一大帝国を築きあげた立志伝中の人物であり、「レンガのケリー」という屋号で業界にも知らる存在でした。フィラデルフィアで勢力を強める民主党に対する影響力を持ち、キングメーカーとしても存在感を示しました。息子のケルは3度のオリンピック出場をはたした後、市会議員を3期務め、また市長候補にもなりました。同時に彼は、悪名高きプレイボーイでもありました。トランスセクシュアルのナイトクラブ経営者レイチェル・ハーロウなどとの浮名も含め、彼の存在は街のゴシップ誌の格好のネタでした。

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Evening Standard/Getty Images
1947年撮影、ケリー家。

「ある種の特別意識のような、そんなアティテュード(態度)なのだと思います」と言うのは、ケル(ジョン・ブレンダン・ケリー・ジュニア)の息子のジョン・ブレンダン・ケリー3世。彼もまた、ケリー家の特徴であるたくましさと活発さ、魅力の持ち主です。

「祖父がその雰囲気をつくり上げたのです。グレースは映画女優として大スターになりましたが、それらも祖父のつくり上げた環境によるものがあったのだと思います。その影響は、祖父の死後なお残っているのです…」と。(つづく



From Town & Country
Translation / Kazuki Kimura
※この翻訳は抄訳です。