ソマリアに住む私の友人の多くは、家にダイアナ元妃の写真を飾っています。ムスリム(イスラム教)の家族写真や詩が飾ってある中に、彼女の姿が混ざっている光景は少々奇妙です。ダイアナ元妃のブロンドヘアと透き通るような肌は、少々場違いに見えるのです。でも、友人たちはいつも、彼女はここにあるべきだと言っているのです。「彼女が家族の一員であることがわからないの?」と…。

 しかし、ここで最初に説明しておかなければならいことは、ダイアナ元妃はソマリアやソマリアのコミュニティーとは、一切関係がないことです。彼女は公務や旅行でその地へ行ったこともなく、どこかのスピーチで言及したことすらありません。彼女との絆がないにも関わらず、ダイアナ元妃はソマリアの人々の心の中で素晴らしい役割を果たしてきたのです。誰も言葉で説明できないような愛情ですが、そこには確実に存在しているのです。ダイアナ元妃の訃報が発表されたときのことを、今でもはっきり覚えています。私は家にいて、秋の学期に向けた大学試験の準備をしていました…。

ガラで居眠りをしてしまったダイアナ元妃
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1981年11月4日、イギリスを代表するハイファッションブランド、「ベルヴィル・サスーン」のドレスを着たダイアナ元妃が、ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館で開催されたゴンザガ展のガラで居眠りをしてしまったときの様子。英国王室は、ダイアナ元妃の初のご懐妊をこの翌日に発表しました。

 当時、家族と同じように私たちは、ダイアナ元妃と彼女の最後の恋人であったドディ・アルファイドとの夏の出来事を追いかけていました。彼女の体調も良いと聞き、安心していました。しかし、2019年に亡くなった父がその日私を起こして、絶望しながら叫んでいたのを覚えています。「彼女が死んだ、死んだんだ…」と。誰が、どのように、どこで死んだのか全くわからず最初は混乱しました。父は、「パリ、事故、死んだ」という言葉を繰り返していました。寝ぼけていたので、理解するのに時間がかかりましたが、それが彼女の訃報だと気づいたとき、私も言葉は詰まってしまいました。それは妹を亡くしたかのような気持ちだったのです。

 それから何年もの間、戦争・飢餓・そして非常に困難な移住によって荒廃したアフリカの角で育った私たちソマリアの女性が、なぜダイアナ元妃がこれだけ好きだったのか考えていました。彼女が私たちとどんな関係があったのか? 彼女はどうしてこんなにも貴族的で、とても裕福で、美しいブロンドヘアを持っていたのか? 

  実際には、関係がありました。

 彼女は王室の反逆者であり、抑圧のない自由な生活を求める彼女が、まるで私たちが求めるリーダーのようでもあり、その姿を私たちは愛していたのです。ダイアナ元妃は、私たちが知るように多大な苦しみを味わってきました。彼女を愛していない男性にだまされ、プライベートなことまで世間の目に晒(さら)され、王室の厳しい抑圧もありました。しかし彼女は、これを受動的に受け入れることはせず、数々の伝統に変革をもたし、反逆者としてのグリット(やりぬく力)を見せつけてくれたのです。

イギリスのサリーの「ソープ・パーク」にて、ハリー王子とダイアナ元妃。
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イギリスのサリーの「ソープ・パーク」にて、ハリー王子とダイアナ元妃。

 しかし、彼女の反逆の精神は、もともとあったものではありません。マスコミが「おとぎ話のような結婚」と呼んだ最初のころは、彼女は恥ずかしがり屋の女の子でした。チャールズ皇太子が彼女と結婚したとき、彼は他の誰かに恋していただけでなく、英国自体も歴史上とても厄介な状況にあったのです。

 英国の膀弱な部分を克服させたイギリス初の女性党首であるマーガレット・サッチャー元首相の、抑制のない新自由主義な年、IRAテロの年、イギリスの労働運動の年、経済的危機や社会的不公正で不幸な年が続いていました。英国の小説家ジョナサン・コー氏は当時の状況について、「ダイアナ・スペンサーは当時、王国の罪を洗い流す犠牲の子羊のようだった」と語っています。

 そんな彼女は、たった1人で戦っていたです。そして、2人の息子ウィリアム王子とハリー王子のために、最善を尽くした素晴らしい母親でもありました。結婚の始まりから素晴らしいものではなかったにも関わらずに…です。1981年に婚約を発表したチャールズ皇太子とダイアナ元妃ですが、記者に「愛していますか?」という質問に対し、チャールズ皇太子は「愛するということが何を意味するとしても」と答えたのです。この回答は、2人の結婚生活にとって良いスタートにはなりえませんでした。

1991年9月、パキスタンのハイバル峠に訪問中、カイバーライフル連隊と記念撮影をしたダイアナ元妃。
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1991年9月、パキスタンのハイバル峠に訪問中、カイバーライフル連隊と記念撮影をしたダイアナ元妃。

 それでもダイアナ元妃は、バーバラ・カートランド(ダイアナ妃の義祖母)のロマンス小説を夢見ており、小さな事柄は気にせず我慢することを選んだのです。彼女は、「チャールズ皇太子が変わる」ことを待っていたのかもしれません…。

 チャールズ皇太子は、結婚式で晴れやかな笑顔を見せました。このとき彼は、全てが上手くいくとでも思っていたのでしょうか。ダイアナ元妃はのちに、1995年のBBCのインタビューで「私たちの結婚生活は常に3人で営まれていました。結婚としては少々混み合っていますよね」と話し、仄(ほの)めかしてもいます。 

ダイアナ妃
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1981年6月4日の結婚式でのダイアナ元妃。この数週間後の7月29日に、チャールズ皇太子と結婚します。

 彼女は現代的な考えを持つ女性で、メディアの使い方を熟知しており、靴から小石を取り除きたいと思っていたのでしょう。1980年代のころには、おそらくまだそのことをよく認識できていなかったのかもしれません。ですが、1990年にある美容師と出会ったことで、彼女に転機が訪れたのです。それは単純なカットだったかもしれませんが、彼女に反抗的な魂を呼び起こさせたのは、美容師サム・マックナイト氏だったと言えるでしょう。彼はのちに、彼女の専属ヘアスタイリストになった経緯についてこう話しています。

 「ダイアナ元妃との出会いは、『VOGUE』誌の撮影でした」と…。マックナイト氏は、ティアラを引き立たせるためにヘアピンを駆使して彼女の髪を短くみせ、彼女の顔を照らすようなヘアスタイルをつくったのです。

 当時のダイアナ妃は、イギリス人女性の間で流行っていた長いボブスタイルでした。しかし、マックナイト氏によるアレンジされたヘアスタイルを見ると、彼女は前のめりになって「もし何もルールがないとしたら、あなたなら私の髪をどうする?」と聞いたそうです。マックナイト氏は「短くカットする」と言って、元妃はその提案に「やりましょう」と答えたと言います。大胆にヘアカットしたり、カラーリングすることで、 新しい景色が見えてくることは、性別問わず誰にでも経験があることじゃないでしょうか?

ダイアナ妃
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 私は黒人女性であり、何年もの間、化学薬品で髪をまっすぐにしています。もし新しいヘアスタイルに挑戦したいと思ったら、全て髪を剃ってから自然な髪をいちから生やさなければ、きっと綺麗にはならないでしょう。ですが髪は、いつかまた生えてくるものです。一度切ったり、剃ったりすることというのは、ある種の束縛からの解放を意味するものでもあり、ダイアナ元妃にとってもそれは同じことだったのでしょう。

 そして長いボブからより短く、中性的なヘアカットをしたことで、彼女は自由を手にしようと動き始めたのです。彼女が大胆なヘアカットをしてから撮影された、『VOGUE』誌の有名なカバーがあります。彼女は黒いタートルネックを身につけ、手の上にあごをのせ、挑戦的な目つきでこちら側を見ています。その姿は、多くの女性を勇気づけたはずです…。

  私が彼女に抱くイメージは、地雷原を笑顔で歩くような度胸と、反抗する勇気を持つ人です。ダイアナ妃はまるで、バイザーや防弾ヴェストのような強さを持っていると私は考えます。地獄を経験した国に住む私たちにとって、ダイアナ妃のような強さが必要なのです。彼女の人生はあまりにも早く終わってしまいましたが、彼女の勇気、そして何よりも彼女を従順にさせようとした人々への反抗は、永遠に続いているのだと私は信じています。なぜなら、そこには公平で、常に幸福を求める勇気が存在しているのですから…。

Source / ESQUIRE IT