各国は昔から、特に戦略上重要な地点を守るために敵の進行を足止めする役割を擁する堅固で(建設当時は)恒久的な構築物を築いてきました。日本では、「砦(とりで)」とも言っています。
ですが、軍隊の機動力および火器が時代を追うごとに高度化していくうちに、構築物としての要塞の効果も薄れてきた傾向にもあります。つまり、「要塞」という防御施設は以前ほどの効果は発揮していないのが現実のようです。「では、最先端の要塞は?」と訊かれるなら、イスラエル国防軍が擁する防空システム「アイアンドーム」が、ある意味では最先端の要塞と言えるでしょう。
これまで、城壁やバンカー(銃撃や爆撃から守るための施設)群、国防施設には海水、何百マイルにも及ぶ岩の壁、そしてバンカーをフェイクの建物に変える大量のペンキを使ったものなどあります。
そこで敵を足止めし、団子になったところを集中的に火力を発揮する――そうして敵の前進を阻止することを目的としたものになります。こうした要塞は過去数千年の間、戦力の進化・拡大にともなってさまざまな形をとってきました。そんな「過去の遺物」には、時の流れの「儚(はかな)さ」とともに、戦いを繰り返す人間の「悍ましさ」「愚かさ」、そして「賢さ」といったさまざまな想いが交差するものです。
そこで、現存する5つの要塞を一緒に確認しましょう。何か新たな気づきがあるかもしれません。
オランダは海との関係が複雑な国です。オランダは長い間、堤防や壁、その他の障壁によって海との距離を保ってきました。その結果、国土の約17%が北海を埋め立ててできた土地となっています。その内の26%は実際には海面よりも低く、巧みな工学がなければ自然と浸水してしまうということ。
17世紀、オランダは海を利用して難攻不落の防壁をつくる計画を立てました。1629年にオランダ総督のフレデリック・ヘンドリックは、洪水が起こりやすい無人の地域を囲むようにして、要塞化した村落を含む全長約135キロメートルの防衛施設「アムステルダムの防塞」の建設を開始。これは放水によって一時的に洪水を起こして、敵軍を撤退させるというものでした。
この独創的なシステムは1600年代半ば、1672年から1678年にかけてのオランダ侵略戦争でフランス軍を食い止めるという成果を上げました。ですが20世紀になると、このシステムは時代遅れとなり、近代的な航空機の爆弾や大砲の砲弾にはあまりにも脆弱なものでした。
「万里の長城」は、人類がつくり出した地球上で最大級のプロジェクトと言えるでしょう。石と土でつくられたこの巨大な要塞は、ゴビ砂漠の荒野から太平洋まで続いています。「万里の長城」は一つの城壁で、歴代の中華帝国が拡張と縮小を繰り返す中で建設され、全長1万3171マイル(約2万1196キロメートル。2012年の公式発表時点)に及ぶとも…。各セクションの高さは平均16〜26フィート(約5~8メートル)、幅は13〜16フィート(約4~5メートル)で、観測所、銃眼胸壁(身を守り鉄砲で攻撃するための凹凸や穴を備えた壁)、戦闘陣地などがあります。
大きな疑問は、「中国が『万里の長城』が本当に自分たちを攻撃から守ってくれると信じていたかどうか」です。「万里の長城」はどの地点も難攻不落というわけではなく、紀元前に建設されて以来、戦闘によって破壊された部分もあります。この城壁は侵略者を阻止するのではなく、単に一時的に足止めするためのものであり、外国の軍隊が中国の土地から盗んだ略奪品を簡単に持っていくのを防ぐためのものだったとも言われています。
中世でも、その長さと全体像がよく知られていた「万里の長城」。それは中国皇帝の「強大さ」「偉大さ」の、目に見えるシンボルでもあったのでしょう。結局のところ「万里の長城」建設の意図は、敵国に対して「この国を侵略するのは面倒だよ、他国を攻撃するほうが簡単で賢明」という警告することだったのかもしれません。
ベトナム戦争において1960年代半ば、アメリカのベトナムへの関与が地上部隊の派遣にまでエスカレートするにつれ、アメリカ国防総省は「敵の北ベトナムが、南ベトナムでの戦場に部隊や物資を送り込む補給ルートを断たなければ」と考えました。この補給ルートは“ホーチミン・トレイル”(ホーチミン・ルートとも)と呼ばれたものでした。そこには軍隊が常時駐留しているわけではないため、空爆しても効果がないことは判明したとのこと。
そこで当時のロバート・S・マクナマラ国防長官は、軍事技術や政策について提言を行うエリート科学者たちのグループ「JASON」に頼ることにしたのです。そこで1967年9月、ベトナムの非武装地帯の南側に侵入防止用の電子バリアを建設する計画を発表します。そうしてこの時代から、「要塞」という役割は物理的なものではなく、電子的なもので解釈する傾向に入るわけです。
このバリアの目的は、保護区域に侵入しようとしたときに「警報を鳴らす」こと。特に、北ベトナムを支援する北朝鮮軍からの派兵を阻止することにありました。そこでいったん検知されれば、米軍とその同盟国は空爆と砲撃で対応するというものです。この戦略を現在では、The McNamara Line(マクナマラ・ライン)と称しています。
JASONは敵軍を探知するため、空中からセンサーを投下することによって、見えない電子的ば要塞を築くことを推奨します。その当時、暗闇や密林、そして悪天候にまぎれて北ベトナムのトラックは重要な物資をほぼ発見されず、ホーチミン・トレイルを通過して持ち込まれていることにアメリカ軍は頭をかかえていたのです。アメリカ地上部隊は、中立国であるラオスの立場を冒してまでトラックを阻止することはできませんでした。
そこでアメリカ空軍は、偽装する敵を阻止するためには警告を発する電子機器システムの配備が効果的と判断したわけです。この高度に機密化されたこの電子システムに関しては、「Igloo White(イグルー・ホワイト)」として知られています。
このシステムは前述どおり、1967年後半に運用を開始します。ホーチミン・トレイルに沿って航空機がセンサーを投下します。投下するセンサー、そしてその信号を拾って中継する軌道上の空中早期警戒管制レーダー偵察機「EC-121B」または通信中継機「QU-22B」、さらにそのデータを受信する侵入監視センター(ISC)の3つの要素から構成されるものです。ナコンパノム王立タイ空軍基地(NKP RTAFB)のタスクフォース・アルファが運営するISCがセンサーデータを解釈し、戦闘指揮官に目標情報を伝えます。そしうして攻撃機が、目標に向かうことになります。
センサーとして使用されたのは、ACOUSID (Acoustic and Seismic Intrusion Detector)が知られています。基本的には敵の潜水艦を探知するために設計されたマイクですが、ここではトラックのエンジン音や人の話し声まで拾うために利用されました。また、ADSID(Air Delivered Seismic Intrusion Detector)もありました。これは受振器が内臓されたもので、移動中の人員や車両をその振動から検知するものです。
このデータを航空機が中継し、地上基地に送られ解析。敵の動きだと疑われる場合、空爆を行うことにしていました。ですが、このシステムは計画どおりに機能することはなかったそうです。それは、結果を見れば明らかでしょう。
第二次世界大戦の初期、イギリス政府はドイツ軍の爆撃機がテムズ川を西にたどり、ロンドンの中心部にまっすぐ向かおうとしていることに気づきました。これを阻止するため、イギリス海軍はイギリス東海岸沖に4つの要塞を建設し、イギリス陸軍はテムズ河口に3つの要塞を建設。これらがいわゆる「マンセル要塞」で、設計者のガイ・マンセルにちなんで名づけられました。
要塞はコンクリートと鋼鉄製でドイツ軍機の進路上に沈められ、QF 3.7インチ高射砲とボフォース40mm対空機関砲で武装。早期警戒のためのプラットフォームとしても機能し、ドイツ軍の低空飛行機がイギリスに接近するのを事前に知らせました。実際に「河口の要塞は22機のドイツ軍機と30発のV-1飛行爆弾を撃墜した」と推定されています。要塞の多くは現在も残っていますが、住むのに適したものはありません。それに、本当に悍(おぞ)ましく見えるのです…。一瞬、スター・ウォーズに登場する全地形対応装甲トランスポート「AT-AT」見える人もいるかにしれませんが、事実を知れば…。
スイスは、1815年のウィーン議定書で永世中立国であることを認められて以来、全ての武力紛争において中立の立場をとっています。その内容は、同盟関係を通じて戦争に巻き込まれることを防ぐものでもあります。その結果スイスは、200年以上にわたって平和を享受してきました。
ですが、スイスには同盟国がないため、国民は「手に銃を取って、自国の中立を守らねばならない」という責任ももっています。そこで1880年代にスイスは“国家要塞”計画を策定し、強固な防御となる山々のある国中央部へと後退していったのでした。
その際、スイス軍は敵の進軍を遅らせる目的で、偽の村や建物をいくつもつくりました。コンクリートのバンカー(陣地壕)に、瓦屋根・窓・その他の装飾を描き、伝統的なスイスの家屋のように見せていたのです。
実際にはバンカーは、観測所であり機関銃の隠れ家でもあり、つまり要塞だったのです。空撮された偵察写真からも、アナリストたちは「普通の村」にしか見えないと言うほどでした。そうして第二次世界大戦中に、ナチスドイツとイタリアはスイス侵攻作戦として「タンネンバウム作戦」を計画しましたが、「費用が高すぎる」という判断で中止されたとされています。
Translation & Edit / Satomi Tanioka
※この翻訳は抄訳です