自分は素晴らしい写真家だと思うよ」と、ロン・ガレラは自身を語ります。 「現在生きている、最も素晴らしい写真家かな⁉」と彼は言い直し、そしてもう一度、言い例えがないか探しているようでした…。

「ま、言ってみれば、最も有名なカメラマンさ。グーグル検索で一番ヒットするカメラマンとも言えるね。アヴェドンやアーヴィング・ペンが素晴らしい写真家だということは僕も認めるよ。でも、もう彼らはこの世にいないからね…」とガレラ。

 2019年の初旬、寒くて陽気な午後。ロン・ガレラは、ニュージャージー州リンカーンパークのリハビリ施設にある自分の部屋の車椅子に座っています。彼は家でベッドから落ちて、左大腿骨を骨折していたのだそうです。 「外科医はネジとプレートで、しっかり固定してくれたのでかなり良く治っているよ」と彼は言います。

 この事故によって彼は、最新の回顧写真集を自ら宣伝することができず、困っているようでした。それでもガレラは、その発売スケジュールを変更しませんでした。

Ron Galella Nikon Gallery Exhibition - April 1, 1975
Ron Galella, Ltd.//Getty Images
1975年にニューヨークで開催された、ロン・ガレラ自身の作品展会場で撮影。

 89歳となった現在も、彼はいまだ「現役のパパラッチ」と言っていいでしょう。仕事の数は控えていますが、いまだに(2020年は新型コロナウイルス感染拡大の余波により、無期限延期となり、その後中止されている)メットガラの撮影は欠かさず行っていました。

Shooting Stars - The Untold Stories: a Memoir

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 リハビリ中の彼の膝の上には、彼にとって20冊目となる写真集『SHOOTING STARS(シューティングスター)』が置いてありました。そこから、何十ものポストイット(付箋)が飛び出しています。きっとそこには忘れがたい思い出の見出しが、自筆でつづられていることでしょう。自身の魅力を最大限に語るにふさわしい売り文句というやつです。

 ジャッキー(ジャッキー・チェン…ではなく、ジョン・F・ケネディの元夫人)とリズ(エリザベス・テイラー)をつきまとってきたことで有名なこの男は、その間もさまざまな仕事をこなしてきました。1967年から2019年にかけての21年間は、メトロポリタン美術館で毎年春に行われるメットガラへ欠かさず出向いて撮影してきました。そうしてそれをまとめた写真集も発売。さらに、「80年代」と題した写真集の準備もしているところだそうです。

 リハビリを終えたなら、ガレラはニュージャージーで一人住む邸宅に戻ることでしょう。そこで彼は、在宅医療スタッフの助けを借り、新型コロナウイルスのパンデミックへの対抗策も十分施しながら日常の日々を取り戻すことに励むに違いありません。

 そんな彼の自宅1階全体は、彼の最も有名な画像の額入りの巨大なプリントのギャラリーになっています。地下室には床から天井まで写真のプリントが貼られており、1952年から現在までの間に撮影された彼の細かくカタログ化された写真のアーカイブも保管されています。

 そのアーカイブの中には、有名人の儚(はかな)さも表現されています。Phil Vandervoort(フィル・ヴァンダーフォート)やDawn Lewis(ドーン・ルイス)のような、かつては有名ではあったがいつの間にか消え去ったスターもいれば、名前を見ても頭をひねる無名の人物も見受けられます。

 ガレラが自身撮影する上でのルールは当初、彼らが誰であるかを知っているかどうかなど関係なかったのです。彼は常に、「全員を撮影する」ことを目標としていたわけです。1975年にビバリーヒルズでDoobie Brothers(ドゥービー・ブラザーズ)のパーティーが開催される際に撮影したセクシーな2人を主役にしたスナップを見せると、 「誰だと思いますか?」と言います。

 とは言え、もう既に有名な二人でした。誰もがその名を答えることができるでしょう。それでもガレラは、「答えを教えてあげよう!」という意気込みで言い出します(笑)。「これは当時、28歳のドン・ジョンソンと18歳のメラニーグリフィスさ。まだ無名のころで、誰だかわからずに撮ったよ」と…。

Sean Penn and Madonna 1986 (left) Bianca Jagger and Andy Warhol 1978 (right).
Ron Galella
左の写真は1986年に撮影した、ショーン・ペンとマドンナ。右は1978年に撮影した、ビアンカ・ジャガーとアンディ・ウォーホル。

 彼がリハビリ施設で着用していたシルクのパジャマトップは、雑誌『PLAYBOY』の創刊者ヒュー・ヘフナーのクローゼットから出てきたような艶やかなものでした。つまり、そのいで立ちが物語るように…ガレラはまさに「Paparazzo Extraordinaire(非凡なるパパラッチ)」なのです。それはセレブリティの多くが口にしていることでもあります。

「私はプレイボーイマンションへ、2回行ったことがあるよ」とガレラ。 「ニューヨークで著名なパブリストであるリー・ソルターズが、私をヒュー・ヘフナーに紹介してくれたんだ。そこでヒュー・ヘフナーは私に、『あなたこそ、あなた自身の実力で有名人となった人物ですね』と言ってくれたよ」と、さらに語ってくれました。

Donald Trump The Master Buildier

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 ガレラは単純に、「名声」と「成功」と同一視しています。なので、ガレラがトランプの熱心なファンであり、特別な興味を抱いていることにも驚くことではありません。そうして彼は、19冊目の本として、『Donald Trump The Master Buildier』を2017年9月に発売しています。

 2016年の選挙後、彼はすぐにこの写真集の製作に取り掛かっています。言ってみれば、「日和見」的とも言えるタイトル「マスタービルダー(“成功請負人”とでも訳しましょうか…)」は、トランプとその家族を32年間撮影してきたものの集大成となるわけです。

 表紙にはタキシードを着たトランプが、黄金のエスカレータの頂上で両手を広げて立っています。「私が彼に関して好きでないところは唯一、彼がグリーンの力を信じていないところです」とガレラは言います。これはトランプにおける、環境政策のプライオリティの希薄さを意味しています。

 そしてガレラは筆者(私)のために、その本に碑文をつづってくれました。「大統領が、『壁』を完成させることを願って」 と。

 こうした名声の経路をたどってガレラは、晩年は芸術的評価のメインストリーム上に名を連ねることにもなります。彼に関するドキュメンタリー『Smash His Camera』がHBOで製作されると、 2010年のサンダンス映画祭で「監督賞ドキュメンタリー」を受賞し、2010年7月30日にマグノリアピクチャーズを通じてHBOで上映されました。そうして彼の作品は、リチャード・アヴェドン、ヘルムート・ニュートン、ハーブ・リッツなどの写真家の作品展を行うような、ニューヨークでも有名なステイリー・ワイズ・ギャラリー(Staley-Wise Gallery)で展示会を行っています。またさらに、ガレラの6つの作品はMoMAの常設コレクションにも展示されるようにもなったのです。

これはyouTubeの内容です。詳細はそちらでご確認いただけます。
Smash His Camera Trailer (HBO)
Smash His Camera Trailer (HBO) thumnail
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 MoMAに展示される中でも3つの画像は、ガレラが長年追っていたお気に入りのジャッキー(ジャクリーン・ケネディ・オナシス)の写真(1971年10月撮影)になります。

Jackie Onassis Sighting at Madison Avenue in New York City - October 7, 1971
Ron Galella
ガレラというパパラッチの存在を、世に知らしめた決定的な写真がこれになるでしょう。ニューヨークのマディソンアベニューで撮影されたジャッキーのスナップショットです。これは1971年10月7日に撮影され、「Windblown Jackie(風に吹かれたジャッキー)」として知られています。

 ガレラが残したジャッキーの遺産は、複雑なものでもあります。彼の写真によって、彼女をファーストレディとして崇拝する人々はさらに、その気品に満ちたルックスとスタイルによって尊敬の念を深めているのは事実です…。が、当のジャッキー自身にとっては、その名声以上に計り知れない心理的犠牲を被っていたのも確かなことでしょう。

 彼女がガレラに対して抱く思いは、このコメントから理解できます。

「心が安息する暇などなく、常に監視下にあるような思いでした。まるで自宅に投獄されているような気分です」とジャッキーはかつて語っていました。

 そんなガレラは1981年に、彼女を追跡することに終止符を打ちます。

 ですがそれは、決して彼女への思いやりからとった行動ではありません。なぜなら、裁判所はガレラに対し、この元ファーストファーストに今後近づいたときには60年間の投獄することを決定したためです。ここで彼は正真正銘、世界で最も有名なパパラッチとなったというわけです。

ron galella
Time & Life Pictures
ジャクリーン・ケネディ・オナシスを執拗に追い回すパパラッチ、ロン・ガレラをパパラッチ。

「ロンは、道徳的な羅針盤など持っていない男だった」と、2008年に初めてガレラの作品を展示したステイリー・ワイズ・ギャラリーのオーナーであるEtheleen Staley(アズリーン・ステイリー)は言います。それでも彼女は、「彼の作品の多くは、芸術と見なされるべきである」との意見を持っています。

「彼は“誰かを追跡し続けること”で、その“個人のプライバシーを侵害すること”なんて考えは毛頭ありませんでした。遠慮など、感じてすらなかったでしょう。“それがいけないこと”なんて、彼の頭の中にはこれっぽっちもなかったのです。その思考が、彼の成功の秘訣とも言えますね。多くの人が肌で感じる境界線が、彼に見えなかったのです」と語っています。

 また、こんなことも言えます。ガレラがターゲットを容赦なく追跡したことによって、セレブリティたちをターゲットとした写真を欲しがるマーケットが形成されたと言って過言ではないでしょう。1997年に起こったダイアナ妃の痛ましい死は、パパラッチたちの危険性を浮き彫りにしたことにはなりました。が、ガレラがジャッキーを追いかけていた60年代から70年代にかけてのころは、彼らのようなパパラッチによる追跡は、文化的な好奇心の一面として捕らえられ、悪意の色が濃い略奪的なものというよりも悪戯の延長のようにも見られていたと言えるのです。

パパラッチするころが
「いけないこと」なんて、
彼の頭の中にはなかった…

 ガレラはジャッキーを、「ある意味で私のガールフレンド」と呼んでいました。彼を2度も法廷に連れだし、訴訟を起こした張本人であるにもかかわらず…です。彼に言わせれば、「ジャッキーはこっそり、注目されるのを望んでいたのさ」ということです。

 すると、ガレラは息をのむような口調で、彼女が彼に直接話しかけてきた数少ないセリフの1つを教えてくれたのです。

 「ジャッキーはアリストテレス・オナシスと一緒に21クラブから出てくると、私に近づき、私の手首をつかみ、リムジンに私の肘を押し付けながらささやいたよ。『あなたは3カ月もの間、私を追い回して続けているのよ!』と…。当然、 彼女は怒っていました。ですが私は、こうも感じたのです。『彼女は、追跡されることに喜びも感じている。私が彼女を追い回しているのと同様に…』ってね。マスコミは誤解していたんだ。 彼女は追跡されることが喜びでもあったはずだ」と。

Former First Lady Jacqueline Onassis.
Ron Gallela
左の写真は、1971年にニューヨークのレストラン「P.J.クラーク」で昼食を摂ったあと、帰宅するジャクリーン・ケネディ・オナシスと、タクシーから降りるところのアリストテレス・オナシス。右の写真は同じく1971年に、5番街のアパートのバルコニーで顔を見せたところを撮影。

 ガレラの子ども時代を振り返ると、彼の行動の裏に隠れる心理が多少なりとも理解できるかもしれません。

 ブロンクスの北端にあるウィリアムズブリッジで育ったガレラの少年時代は、両親が絶え間なく喧嘩していたという記憶がメインとなっているようです。彼は自身の父のことをこう説明します。

「父の名はヴィンチェンツォで、英語をほとんど話さないイタリアの移民さ。洗練されていない家具職人だったね」と…。また、ニュージャージー州ハドソン郡にある都市ホーボーケン生まれの母親であるミケリーナのことは、「アメリカらしい派手な生活が好きな女性で、ファッションと有名人に夢中になっていたよ」とのこと。そして、「私の母はアメリカ人らしいアメリカ人で、父はただのワイン好きさ…」と言います。

 母のミケリーナは、5人の子どものうちの3人目の子どもの命名する権利を得ると、その子にイギリス生まれの名優ロナルド・コルマンの名にちなんで、「ロナルド」と命名します。その3人目の子どもが、ロン・ガレラであり、正しくはロナルド・エドワード・ガレラ(Ronald Edward Galella)です。

 そしてミケリーナは最終的に、家の地下室を父ヴィンチェンツォの部屋にするわけですが、その父は自家製ワインで酔っ払っては夜通し、子どもたちにお金を稼ぐことと節約することの重要性について説教していたとのこと。

 そしてある時期、ヴィンチェンツォは地下室でウサギを飼っていたそうです。そして炉を燃やすために使用された石炭の影響で、その白い毛皮は灰色に変わっていったそうです。それでも子どもたちは、そのペットを夢中でかわいがっていたそうです。するとある日、ヴィンチェンツォはそのうさぎをシチューの材料にし、食卓に並べたとのこと…。

「そのときは泣いたよ」と、ガレラは肩をすくめて語ってくれました。 「彼はアメリカにはなじめない異邦人のままだったね」と。その後、大人になったガレラは子どもがいなかったこともあり、ニュージャージー州モントビルにある自宅の敷地内にウサギを飼いました。そして今では、そこに最初に飼ったウサギ「プーパー」の彫像が置かれ、その下に6匹のうさぎが眠っています。

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 大人になったガレラは、どうのようにして写真のキャリアを積んだのでしょう。それはある日、空軍によって撮影された写真を発見することに始まります。

 すると彼は、当時勃発していた朝鮮戦争にも写真は必要となるだろうと予測し、1951年に入隊。軍で写真撮影する道を選びます。そこで彼はカメラの修理の訓練を受けながら、写真撮影のレッスンも受け始めたのです。

 さらに、グラマラスな女性を撮影する写真家として当時有名であったピーター・ガウランドが書いた『女性の写真の撮り方」を読んだ後、ガレラは写真を女の子と会話するための絶好の武器となると判断したのでした(ガレラは現在、おべっかの達人かのように社交性あふれる人物ですが、当時は非常に恥ずかしがり屋だったと主張しています)。

 やがて退役後は、退役軍人の帰還にさまざまな利益をもたらす法律「復員兵援護法」を利用して、カリフォルニアのアートスクールへ通うことになりました。

 そんな彼がカメラマンとして初めてギャラを貰った仕事は、ニュージャージー州のディスカウントデパートにおけるクリスマス用の子どもたちの写真になります。この写真はある意味、ガレラの人生にとって重要な役割を果たすわけです。それは1970年、彼はジャッキーOをこのようなシチュエーションで撮影したいという思いにかられます。そして彼はサンタを雇って、共に彼女を追いまわしていた時期がありました。

leaving party from john jr's collegiate boys school
Ron Galella//Getty Images
1970年12月18日にジョンの学校のクリスマスパーティーに参加するため、キャロラインも一緒に道を歩くジャッキーを、サンタのエキストラとともにパパラッチ。

 次にガレラは、有名人を撮影するには映画のプレミア上映会が絶好の場であることに気づきます。そして、ここを自らの主戦場とすることにしました。そして、そこで撮影した写真が、アメリカのタブロイド紙「National Enquirer(ナショナル・エンクワイア)」や映画ファン誌である『Photoplay(フォトプレイ)も欲しがっていることを知ると、一発狙いのサンタのような企画ものの撮影などは取りやめ、まさにフルタイムのパパラッチへと変容していきました。

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Ron Galella
1968年、ニューヨークにて。ウイルデンスタイン・ギャラリーがオープンしたときに撮影した、ウィンザー公爵とウィンザー公爵夫人。

 こうして彼のキャリアは、70年代および80年代の雑誌やタブロイド紙でのギャランティ、1枚あたり25ドルのレートで積み重ねていったわけです。そこには、「予約なし」で撮影した肖像画ばかり。一方でアーヴィング・ペンやリチャード・アヴェドンは、ガレラから言わせてみれば「容易なプロセスで快適なだけの撮影」と例えるスタジオ撮影で、モデルや俳優を撮影しては1本何千ドルもの稼ぎを重ねていたわけです。

「彼らは、スタジオの写真家さ。今では、自分にスタジオをつくるお金がなかったことをうれしく思っているよ」とガレラは言います。そしてさらに、 「私だって、スタジオ撮影は得意だよ。でもね、全世界を自分のスタジオにすることが、自分にとって最善の撮影スタイルだって思っているからね。パパラッチの写真ほど素晴らしい写真は、他にないよ」と言います。

全世界が自分のスタジオさ
私のパパラッチの写真ほど
素晴らしい写真はないと思う

 こうしてガレラは、世界各国の街角や建物内のどこもが自らのスタジオだという非常にポジティブな考えで、写真を撮り続けようと決心したのでした。

「ロンは、自分が本当に気に入るたった1つのフレームワークを獲得するため、とにかく連写しまくりました」と長年、前出の「ナショナル・エンクワイア」紙の記者を務めた友人ジョージバーナードも言います。彼はときに、ガレラのクルマの運転のサポート役もこなしていました。

 さらに、 「他のカメラマンなら、ギャラが安いのでそれほど多くシャッターは押さないでしょう。だけど、ロンは違いました。彼は連写し続けていれば、必ず自分のお気に入りのカットに行きつくことを知っていたのです。彼は必ずそうしていましたね」とのこと。

paparazzi photographer ron galella in 1990
Time & Life Pictures
1990年、プールサイドでターゲットを待つロン・ガレラ。

 1979年、ガレラ(当時48歳)はワシントンD.C.を本拠とする『Today Is Sunday』誌の写真編集者として働くベティ・バーク(当時31歳)と結婚しました。彼女とは以前、仕事を共にしていたのですが、ワシントンD.C.で開催された映画『スーパーマン』のプレミア上映会で再開し、そのまま彼女の柔らかく熱い声にヤラレた彼は、そのまま…。

「私はそのイベントで、彼女と踊りました、そして、それから私はホテルで彼女と仲良くしました…」とガレラは言います。

ron galella archive   file photos 2009
Ron Galella//Getty Images
1979年4月21日、ニューヨークのChurch of the Holy Familyで行われた、ロン・ガレラ&ベティ・バークの結婚披露宴でのスナップ。

 再会して5カ月後に、二人は結婚しました。その結婚式には、シンガー・俳優として当時人気のタイニー・ティムも出席しています。ベティはその後、ガレラのクルマに加わり、一緒にキャサリン・ヘップバーンを追い回したりしています。

 彼女はすぐに、彼のビジネスのサポート役で活躍しました。そうして二人はビジネスも順調となり、家をニュージャージー州モントビルにある白い宮殿へと移します。この宮殿をガレラは「ヴィラ・パラディオ(Villa Palladio)」と呼んでいました。

 そして ガレラは、家の前に彼自身の名前と手形が施された星を設置しています。これは彼がかつて書いた、「the Hollywood Walk of Fame doesn’t honor still photographers.(ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームは、未だに写真家に敬意を払わない)」から思いついたアイデアでしょう…。

「彼女は非常に優れた実業家でした」と、彼は妻ベティについて語ります。 「彼女は、本当に私を金持ちにしてくれました」と…。

パパラッチの元祖、ロン・ガレラの最も象徴的なセレブ写真41枚
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そして2004年、彼は何十年にもわたる熱心な追跡に終止符を打ちます。彼自身言うところの「人生の収穫」に時間を費やすことをやめることにしました。そして本を書き、ゲッティ・イメージのために自身の300万枚にもおよぶ「収穫」を提供すると、自らのその彼のその画像のデジタル化の監督を務めました。

 やがて2016年になって、生涯喫煙者であった妻ベティが肺気腫で亡くなります。「彼女は眠るように逝きました。神に感謝です」とガレラは言います。

「彼女はぜんぜん苦しんだ様子を見せませんでした。彼女は酸素吸入をしていて、私は彼女にトレーにのせた食べ物を差し出し、彼女のベッドに置きました。すると私は、彼女が動かなかったので、後で食べるものだと思って、もう一度彼女の顔を見ると息を引き取っていたのです。そう、彼女は決して食べ物に触れようとしなかったのです…。彼女は私の愛のすべてでした」と、さらに語ってくれました。

The Stories Behind the Pictures

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 ガレラは、自ら「Paparazzi Approach(パパラッチ・アプローチ)」と呼んでいるテクニックを、1冊の本をまとめています。そこで彼は、22の異なるテクニックを列挙しています。

 彼のキャリアの当初から、まるでハードなスポーツをこなすようなものでした。1968年、ジェーン・フォンダはパリのベルヴェデーレ病院で、娘のヴァネッサ・ヴァディムを出産したときのこと。

「私は病院で彼女の部屋のドアをノックし、『ジェーン、ジェーン』と呼びました。すると、中からシャワーの音が聞こえます…。悪いタイミングでしたね、彼女は私に『今はダメ』と言ってきました」とガレラ。

 最終的には病院の前で、彼女の撮影に成功します。ですがその後、夫のロジャー・ヴァディムは妻ジェーンと生まれたばかりの赤ちゃんと一緒に、スポーツカーで逃げ出したということ…。 「あのとき彼は、時速100マイルは出していましたね」とガレラは言います。

jane fonda and roger vadim depart from the belvedere hospital in paris with their new baby vanessa   october 7, 1968
Ron Galella//Getty Images
ジェーンフォンダが生まれたばかりの娘ヴァネッサ・ヴァディムを抱き、夫ロジャー・ヴァディムが運転するスポーツカーに乗り込むところを撮影。その後、逃げるように…いいえ逃げるために走り出したのでした…。

 この言葉は、あのダイアナ妃の痛ましい事故のことを思い出させる言葉でもありました。

Wake for Lee Strasberg
Ron Galella//Getty Images
1982年、アル・パチーノとサリー・カークランドは恩師であるリー・ストラスバーグの葬儀に出席しているところをパパラッチ。

 彼はかつてライティングを担当する者に、こうこぼしたそうです。それは、これまで最も自分を困らせたセレブリティのこと…。「マリブの切り立った断崖絶壁の岩壁に沿ってできている道を、時速90マイル(およそ時速145キロメートル)でクルマを走らせるのだから…」と、ジュリー・クリスティのことを名指ししてボヤいていたと言います。

 葬式での撮影は、「最も公正なゲーム」とも言えるでしょう(ゲームに例えるのも失礼ですが…)。 ですが、彼にとっては墓地も仕事場です。「私はリー・ストラスバーグの墓地まで行って、仕事を成し遂げました」と彼は言ってのけます。「そこにはアル・パチーノがいたよ…」とガレラ。ニューヨークのアクターズ・スタジオの芸術監督を務め、そこでメソッド演技法を確立したリーは、アルにとって最大の恩師というわけです。そこでのアルは対応に関して、ガレラはこう言っています。

「ある種、吸血鬼の礼儀正しさのような態度だったね」と。

Doris Day Sighted at her home
Ron Galella//Getty Images
1971年、カリフォルニア州ビバリーヒルズにある自宅のプールサイドでなごむドリス・デー。パパラッチされても、ケ・セラ・セラとなったのでしょうか?

「私は招待されない限り、自宅まで行く撮影することはない」と、ガレラは自信たっぷりに言ってのけます。が、プールに関しては例外のようです…。

 1971年にガレラは、ビバリーヒルズのクレセントドライブにあるドリス・デー宅のプールサイドで、彼女をパパラッチしています。このショットは、彼側の立場から言わせてもらえば、30日間何もなしで待ったご褒美かもしれません。彼は最終的に、ビキニ姿のドリスを収穫したのでした。彼は長いレンズで、茂みの向こう側からこっそり、彼女の撮影に成功しています。そしてその写真は、『Photoplay』誌で4ページにわたって見開きで展開されました。

natalie wood sighting at her home in brentwood   april 4, 1968
Ron Galella//Getty Images
1968年4月4日、カリフォルニア州ブレントウッドのナタリーウッド宅の玄関前で、正々堂々と撮影を行うガレラ。自宅まで行っているので、これは招待されたと判断すべきでしょうか?

 売り出し中の俳優の多くは、喜んでガレラのプレーに参加してもくれたようです。中には、自ら率先して…。

 1968年、ビバリーヒルズにあるナタリー・ウッド(当時29歳)の自宅の玄関をノックすると、中からナタリーが機嫌よく迎えてくれたそうです。そして、「5分で準備ができますので…」と言われたので待っていると、次に出てきたときのナタリーは、可愛いテニススカートと白のブーツで登場。そして彼女は手慣れたポーズを披露し、撮影が済むと「一緒にロディオドライブへ買い物に行きませんか?」と誘ってもくれたそうです。

 とは言え、このパターンは稀なことのようです。

 彼のターゲットのほとんどが、プライバシーの侵害を強く感じていました。それは当然のことでしょう。 1969年のある週末、ガレラは15ドルとサンドイッチ&クリームソーダを餌(ギャランティ)に監視役を雇います。そして、ロンドンのテムズ川にある船着き場を完全に見渡すことのできる保税倉庫で見張らせました。

 その結果ガレラは、「Kalizma」号に乗ったエリザベス・テイラーとリチャード・バートン一家の隠し撮りに成功するのでした。そしてその写真は、「ナショナル・エンクワイア」紙が400ドルで買い取ってくれたということです。

elizabeth taylor
Ron Galella//Getty Images
1969年6月、「Kalizma」号の甲板の上に立つエリザベス・テイラーとリチャード・バートン、そしてクルーたち。

 呑気にパパラッチすることを楽しんでいるかのようにも見えるガレラですが、実は危険もいっぱいです。1971年には、上記の二人…エリザベス・テイラーとリチャード・バートンが出演する映画『Hammersmith Is Out』のロケ地となったメキシコのクエルナバカまで追跡しています。

 そこで、ホテルのプールサイドでの撮影時にポンプ小屋の脇から撮影しようとしていたガレラは、スタッフによって捕まります。そして彼は、メキシコの刑務所行きに。捕まったときには、スタッフによってフィルムを没収した上に殴打もされます。結果、歯を折り唇も切りました。

Filming "Hammersmith Is Out"
Ron Galella//Getty Images
1971年、映画『Hammersmith Is Out』のロケ地メキシコのクエルナバカへ赴いたガレア。ここまで彼が追跡したのは、この映画が当時夫婦関係であったエリザベス・テイラーとリチャード・バートンが共演しているからでしょう。写真は、ロケで使われたホテルのプールサイドにて。このときガレラはスタッフに捕まり、メキシコで投獄されることになりました。

 またガレラは、顎(あご)を骨折しながら歯を一挙に5本失ったこともあります。その相手はマーロン・ブランド。マーロンがマンハッタンのチャイナタウンを歩いているところをパパラッチしたときです。これは事件となり、ガレラはマーロンから4万ドルの和解金を勝ち取っています。

「私のパパラッチ菌がマーロンの手に感染したんだと思うよ。彼の手は血だらけだった!」と、ガレラは楽しそうに言います。そして、 「マーリンはそれで特別手術を受けたんだ。病院で3日間過ごすハメになったのさ」と加えて語ります。

 そんなマーロンとガレラの関係を知らしめる最も有名な写真の1つは、実際にはガレラ自身が撮影したものではありません。1974年、ニューヨークのホテル「ウォルドーフ・アストリア・ニューヨーク」でマーロン・ブランドが、ネイティブアメリカンのための慈善団体「American Indian Development Association」を支援することを発表したときの写真になります。マーロンの後をつけるガレラは、「Ron」の名がマークされたアメリカンフットボール用ヘルメットを着用していました。

 これはガレラのアシスタントの撮影で、後ろで追いかけるガレラの姿を無視して、ベルベットのブレザー姿が凛々しく映るマーロンの象徴的ないで立ちをフレームに収めたのです。

1st gala benefiting the american indian development association
Ron Galella
ホテル「ウォルドーフ・アストリア・ニューヨーク」にて、マーロン・ブランドを執拗に追いかけるガレラの姿をマーロンとともに収めた1枚。この前年にマーロンによってノックアウトされたガレラは、用意周到にフットボール用ヘルメットを着用しました。

 ガレラのこれまでのキャリアの中からすれば、ジャッキーを撮影した写真の数はごくわずかと言っていいでしょう。ですが、ガレラ=ジャッキーの写真といったように、間違いなくガレラの人生を示す偉大な遺産となっています。

 ガレラ自身傑作と言う作品(前出の)「風に吹かれたジャッキー」は、ステイリー・ワイズ・ギャラリーが最も多く販売しているプリントになります。最大のプリントだと、その金額は 1万ドルほどになります。

 その写真は1971年10月7日に、タクシーの後部座席からマディソンアベニューを歩くジャッキーの姿を撮影したものになります。笑顔でありながらも、おびえた小鹿のような表情に思える…他のジャッキーの写真とは一線を画する素敵な作品です。

 ガレラは自らこう言います。「私が写真を撮ったとき、彼女はそれが私だとはわかっていなかったんですね…」と語り、続けて 「カメラが私の顔を遮(さえぎ)っていたので、幸いにも彼女は撮影しているのが私とは気づいていなかったわけです」と言います。

 既にこのとき、ジャッキーはしっかりとガレラに対し、軽蔑の念を抱いていたことは確かです。1967年にガレラは、彼女が1040 Fifth Avenueに住んでいることを知りました。するとガレラは、ニセの口ひげをつけてヒッピーの姿を真似したり、ときにはアフロウィッグなどで偽装したりしては、日々自宅の前で張り込みを行っていたのです。

jackie kennedy and aristotle onassis off the isle of skorpios   august 25, 1970
Ron Galella//Getty Images
1970年8月25日、ギリシャ・スコーピオス島沖でアリストテレス・オナシスらとともに泳ぎを楽しむジャッキー。

 ガレラはジャッキーを、ブロードウェイの劇場から息子の学校のクリスマスコンサート、さらには中華料理店まで追いかけては、コートラック越しに彼女を撮影したりしていました。そのころガレラは、ジャッキーの自宅の若い家政婦と交際し始め、その家政婦を貴重で確実な情報源としていたのです。いわゆるスパイとして…。

 こうしてさまざまな努力を重ねてガレラは、ジャッキーをイタリアのカプリ島やギリシャのスコーピオス島まで追いかけてはギリシャの船員に変装し、ビーチでヨガをしている妹リー・ラジヴィルや、アリストテレス・オナシスのヨット「クリスティーナO」のそばで泳ぐジャッキーを撮影することに成功したのです…。

 1969年9月のこと。ガレラはセントラルパークの茂みから飛び出し、信号待ちするジャッキーと自転車に乗る8歳のジョン F. ケネディ Jrをカメラに捉えました。

 ジャッキーによればこのとき、「息子のジョンと一緒にフィフスアベニューの渋滞の中へ、その恐怖から逃げるために危険をかえりみず飛び込むしかなかった」と訴えています。そしてジャッキーは、「彼のカメラを壊しなさい!」とシークレットサービスに指示。結果ガレラは、最寄りの警察署へと連行されたのでした。

 そして今度はガレラのほうが、合衆国憲法修正第一条にある「言論または報道の自由」をもとに、ジャッキー側に対して訴訟を起こしたのでした…。

John Kennedy and Jackie Kennedy riding their bikes through Central Park
Ron Galella//Getty Images
1969年9月、ジャッキーとジョン F. ケネディ Jrがセントラルパークの入り口に差し掛かったところを撮影。

 するとアリストテレス・オナシスは、フィフスアベニューでガレラに近づくと、「この問題を解決するために何が必要か?」と彼に尋ねたそうです。するとガレラは 、「100万ドル」とオナシスに要求。それからすぐに彼は、サンタの衣装に似たオナシスがガレラの膝の上で100万ドルを手渡しているイラストを描き、それをクリスマスカードとしてそのカップルへ送ったそうです。

 1972年、ガレラとジャッキーは法廷で対面することになります。そして彼女は、ガレラが待ち受けていることを知りながらも、外出しなくてはならないときの心境を法廷で訴えています。

「彼(ガレラ)は私(ジャッキー)に向かって、うなり声を上げながら突進してくるのです。そして彼は、『俺に会えてうれしいかい、ジャッキー? 可愛いじゃないか!?』と言いながら…」(そのときのガレラ自身の心境は、怒りという感情もなかったと自ら語っています。さらにガレラは、一度も彼女をはねつけたことなどない…とも語っていました。

 ガレラの現在であれば「ストーカー」とされる執拗な追跡は、正当化されるはずはありません。彼は夫オナシスに対しても言ったセリフ…「ジャッキーを毎日ストーキングするのは、ジャッキーの頭からあのダラスでの忌まわしい暗殺事件を忘れさせるためでもあるのです」と法廷でも主張しました。

 しかしながら最終的に裁判官は、ガレラに対し、「ジャッキーからは25フィート(およそ7.62メートル)、子どもからは50フィート内まで不用意に近づいていはいけない」という処罰を下します。

 1974年にガレラは彼にとって初の写真集『Jacqueline』を出版しています。このとき彼は、このように告白しています。「私は別に、ジャッキーのヌードの写真など撮りたくありません。ホットパンツスタイルかな? そうそう、間違いなく欲しいのはビキニ姿ですね!」と。またガレラはこう言います。

「ですが、もし何も身に着けていないジャッキーに遭遇したなら、私は自然と写真に収めるでしょうね。1972年にスコーピオス島沖合で、イタリア人パパラッチのSettimio Garritanoはジャッキーがヌードで日光浴する姿を撮影し、雑誌『Huslar(ハスラー)』に売りました。ですが私の場合は、撮影してもその写真をリリースすることはなかったでしょうね」と語ります 。

March 1997 Los Angeles Papparazzi Photographer Ron Galella Measures His 25 Foot Distance From Jackie
Brad Elterman
ジャッキーがガレラを法廷に訴え、常に彼女から少なくとも25フィート離れなければならないという処罰を勝ち取りました。その後ロサンゼルスにて、ジャッキーの前に現れたガレラは自作の25フィートと書かれたメジャーを出して、指定の距離を保っていることをアピールする小芝居を演じることもありました…。

 写真集『Jacqueline』の中でガレラは、悲しいことにジャッキーの撮影を断念すると告げます。「ジャッキーが私について、どう思っているかは正直なところわかりません。でも、たぶん彼女は…きっと彼女は私がいなくなって寂しかったと思いますよ」と語っています。すると翌年、彼はロサンゼルスに飛んでジャッキーの頭から3フィート離れたところに「25 Feet」と「Keep Your Distance.」と記されたメジャーをプロップにしてポーズを取っています。

 1981年になるとジャッキーは再び法廷に立ち、ガレラの違反を列挙しました。すると裁判官は、ガレラが再びジャッキーの写真を撮った場合は12万ドルの罰金を科し、6年間の投獄をするものと判決を下しています。

Richard Dreyfuss, Carrie Fisher, Elaine Kaufman and Mike Nichols sighting at Elaine's Restaurant - June 3, 1978
Ron Galella
1978年6月、ニューヨークの人気レストラン「Elaine's」にいるリチャード・ドレイファスとキャリー・フィッシャー、そして「Elaine's」のオーナーであるエレーヌ・コーフマン、映画監督のマイク・ニコルズをパパラッチ。このときガレラは、エレーヌ・コーフマンにゴミ箱のふたを投げつけられました。
life magazine
『LIFE』誌 1971年12月12日号の表紙。JACKIE-WATCHINGと記せられています。

 裁判以前、ガレラによるジャッキーへの執着な追跡に関する世間からの目は、愉快な文化的好奇心と見なしていました。それは1971年に出版された "Jackie Watching"のカバーとLife誌の6ページのポートフォリオに上陸させた。

 そして裁判であの判決が下った後は、彼を有毒な悪役へと変容させました。

 1978年のこと、ニューヨークのアッパーイーストサイドにある人気レストラン「Elaine's」にいるリチャード・ドレイファスとキャリー・フィッシャーらをパパラッチしようとしたガレラに対し、このレストランのオーナーであるエレーヌ・コーフマンはゴミ箱のふたを投げつけています。

 そして、そのときの彼女の写真には、「嫌悪」という表現にふさわしいし表情だったのです。このとき彼女は、まるで自分の畑を荒らすタヌキのようにガレラを扱いました。

The Photographs of Ron Galella 1965-1989

The Photographs of Ron Galella 1965-1989

The Photographs of Ron Galella 1965-1989

 ガレラに対する悪評はしばらく続きます。ですが、2002年になると自体は変わってきます。その年、キュレーターであり編集者であるのSteven Bluttal(スティーブン・ブルッタール)はガレラのアーカイブを深く掘り下げ、1965年から1989年までの彼の最高の作品を集めた写真集『The Photographs of Ron Galella』を制作。この写真集が出版されると、彼の評判は逆転します。

 彼の写真に描かれた瞬間的な躍動感ほとばしるクオリティに対し、多くの者が芸術性を見出してきたのです。そしてブルッタールは、こう語ります…。

「ロンは、常に好かれていたというわけではありませんよ。もっぱら、周囲の者たちとはドロドロとした関係でした。ですが、瞬間を捉えるパパラッチ的なスナップ写真がこのころになると、ちょっとハイブローな見え方をしてきたのです。それでこのタイミングでガレラにフォーカスしたわけです」とのこと。

 グッチはその写真集の製作に関してバックアップし、当時のクリエイティブディレクターであるトム・フォードは序文を書きました。ガレラの写真は、トム・フォードのファッションのインスピレーションにおいて長年役立っていたそうです。

 さらにこう語っています。

「皮肉にも、オナシス夫人が最も抵抗した写真こそが、彼女の特別なアイコンとなっていたのです」とのこと。時間が経つにつれ、ガレラの写真術は「美」の象徴へと成長し、コレクターたちはそれらを芸術作品として認めるようになるのでした…。そして多額の投資が行われるようになったのです。

Ron Galella Archive - File Photos 2011
Ron Galella, Ltd.//Getty Images
1989年、映画『Sea of Love(シー・オブ・ラブ)』のプレミアパーティーに参加するアル・パチーノとダイアン・キートンをパパラッチした写真。

 ガレラのターゲットの一人であるダイアン・キートンは、彼の作品をまとめた写真集『The Photographs of Ron Galella』を好評しています。彼女は、自身も含め彼女の友だちを困らせながらも、それ以上にそんな彼ら彼女らの生の記録を残してきたことに対し、感謝の意を示していました。

「ロン・ガレラの写真集は、そこでウォーレン・ビーティやアル・パチーノを見ることで彼らの存在がいかに偉大であるかを再確認させてくれるのです。そして現在、私も含め彼らがいかに年を取ったかも…」

 スティーブン・ブルッタールの要請で、当時『Vanity Fair(ヴァニティ・フェア)』の編集者であったグレイドン・カーターは、ついにガレラをヴァニティ・フェア・オスカーパーティーに招待します。もちろんガレラの服は、グッチです。

 その数年後、この写真集に魅了されたデザイナーのマイケル・コースは、ガレラのプリントを多数入手。そうして2004年秋のコレクションでは、「Galella Glamour(ガレラ・グラマー)」というタイトルをつけて披露しています。

michael kors displays photographs from ron galella's book 'the photographs of ron galella' which inspired his new fall line
Ron Galella//Getty Images
2004年3月、ニューヨークのマイケルコースショールームにて。ロン・ガレラの作品の前でマイケル・コースを撮影。

 再びジャッキーの話に戻りましょう。

 ガレラは現在、かつて、フィフスアベニューでアリストテレス・オナシスが提案した密約を喜んで受け入れるつもりでいるようです。そして、彼はこう語ります。

「ジャッキーは、私をあの忌まわしい狙撃手オズワルドのように見ていたのかもしれませんね」と…。そして、「もはや、それが真実であるかどうか確かめる術(すべ)はありませんが…。それは謎のままのほうがいいでしょう。『彼女が私にパパラッチされることに関して、どう思っていたかなどいまさらわからないよ』と誰もが言うでしょう。でも私は、当事者としての実感として思うのです。彼女はカメラに向かって、笑ってくれ、楽しさを表現し、常に前向きな姿勢を見せてくれていたのですから…。そんなわけで私は、彼女に害を及ぼしたなんで思ってはいないのです。私は良いことをしたと思っていますよ」と、ガレラは締めくくってくれました。

 ロン・ガレラが今日、成功者の一人として上り詰めたのは、常に好奇心と興味に満ちあふれた姿勢で、カメラを被写体に向け続けていたからに他ならないのではないでしょうか。そして最後にガレラの名言をご紹介しましょう。

“My style is the paparazzi approach which is spontaneous, unrehearsed, off-guard. The beauty I'm after is inherent, more natural. Genuine emotions, real emotions, that's what I look for.”

「私のスタイルである『パパラッチ・アプローチ』とは、 即興的に不意打ちを食らわすことです。そこで私が求めていた美しさとは、それぞれ固有の姿であり、より自然な姿なのです。 そこには純粋なる感情、心から湧き出る真の感情が存在しています…。それを私は探し続けているのです」と、勝手に抄訳させていただけな、こんな感じでしょうか…。

steve mcqueen on the set of "papillon"
Ron Galella//Getty Images
最後に、ロン・ガレラの作品の中で担当編集が最も好きな写真を…。1973年4月、映画『Papillon(パピヨン)』の撮影現場でのスティーブ・マックィーンです。
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Ron Galella公式サイト


【シンジケーション確認用】A Ron Galella Reader
Jackie: My Obsession
Jackie: My Obsession
Costume Galas and Parties 1967-2019
Costume Galas and Parties 1967-2019
Warhol by Galella: That's Great!
Brand: The Monacelli Press Warhol by Galella: That's Great!

Source / Town & Country US
Translation / Zion Utah
※この翻訳は抄訳です。