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命は儚(はかな)く、一方で信じられないほど力強いものです。
私たちは、想像もつかないほど恐ろしい状況に置かれる可能性もあります。ですが、そこから抜け出して生き延びるための、とてつもない力と意思も秘めているのです。
ちょっとした技術や強い覚悟、そして運があれば、人は信じがたい困難に立ち向かって生き残ることができるでしょう。海の果てや海底、分厚い流氷や絶望的な孤独から見事生還した人たちをここでご紹介しましょう。
タムルアン洞窟の遭難事故(タイのサッカーチーム)
2018年6月、練習を終えたタイのサッカーチームの選手とコーチ12人が、タイで最も深い洞窟のひとつであるタムルアン洞窟に探検に行くことにしました。
当時11歳から16歳の少年と25歳のコーチは水の中を入っていき、洞窟探検を開始します。しかし間もなく、洞窟内に鉄砲水のように雨水が侵入し、チームは4キロ奥の岩棚まで流されました。入り組んだ洞窟内には水が入り込み、少年たちは17日間に渡って洞窟内に閉じ込められてしまったのです。
最初の9日間は食料もなく、鍾乳石から垂れる水滴で渇きをしのぎました。しかし、彼らはただ座って助けが来るのを待っていたわけではありませんでした。
閉じ込められたと気づくと、少年たちは外に出られることを願いながら、交代で洞窟の壁に4.9メートルほどの穴を掘りました。体力を温存し、食べ物のことを考えないようにするために瞑想もしました。そして、洞窟に入ったイギリス人ダイバーによって発見されることになったのです。
全員の無事が確認されましたが、そこから救出活動は難航します。タイの海軍が洞窟に入って少年たちに物資を届ける中、彼らを安全に救出する方法の議論が重ねられたのです。そして3日かけて、選手とコーチ全員が一人ずつ救出されることに…。
少年たちはダイビングマスクを装着し、2名のダイバーの間につながれて、何時間も入り組んだ洞窟の中や狭い隙間を泳がなければならないという非常に困難な救出だったのです。しかし、集まったタイの海軍と世界中のダイバーによって全員が無事に救出され、日常生活に戻ることができたのでした。
残念ながら、救出活動中に海軍のダイバー1人が命を落としました。
Missing soccer team found alive in a cave in Thailand after 10 days
Youtube@ABC Newsより。
アンジェラ・ヘルナンデス
2018年7月、アンジェラ・ヘルナンデスさんは南カリフォルニアに向かって、SUVで高速道路を走行していました。そして、米カリフォルニア州のセントラルコーストにあるビッグサー付近に差し掛かったとき、道に飛び出してきた小動物を避けようとした拍子に道路から飛び出し、75メートル下の人気のない磯場に落下してしまいました。
脳出血を起こし、肋骨と鎖骨は折れ、両目の血管は破裂して肺も潰れていました。が、奇跡的に命は助かりました。
落下の衝撃で意識を失っていたヘルナンデスさんが目を覚ますと、車の中で膝まで水に浸かっていました。近くにあった道具で窓を割り、車から脱出して近くの岸まで泳ぐと、そこでまた意識を失ったそうです。
次に目が覚めたときには靴をはいておらず、体はボロボロでした。ですが、助けを求めて海岸沿いを歩き始めたそうです。クルマから持ってきたホースに海岸沿いの苔から垂れる雫を溜めて飲みながら、何日何日も歩き続けたのです。崖の上では、何台も車が通っていました。が、彼女の姿や叫び声に気づく人はいなかったそうです。
そしてついに、いい釣り場を探してハイキングしていた夫婦が、大破したジープを見つけます。そして、岩場で眠っていたヘルナンデスさんを発見したのです。彼らはすぐに水を与え、助けを呼んでくれました。
救急隊が到着するとロープで崖を下り、ヘルナンデスさんを病院へ搬送し、7日間にわたる壮絶なサバイバルは無事幕を閉じ、再びヘルナンデスさんの日常が幕を開けたのです。
Woman Missing for 7 Days Found Alive After Driving Off California Cliff
Youtube@Inside Editionより。
スティーヴン・キャラハン|海の遭難から生還
1981年1月、6.5メートルの小型ヨットで大西洋単独航海を成功させ、キャラハンさんは帰路につきました。しかしある夜、突然嵐が彼を襲います。強風が吹き荒れる中、クジラかサメが衝突したと思われる損傷で船体に穴が空いてしまいました。
沈み始めた船体に何度も戻り、キャラハンさんは緊急キットを引き上げました。数日分の食料と水とともに、幅180センチの救命いかだによじ登ります。いかだは1300キロも、カナリア諸島の西方に漂流し続けました。食料が尽きてからは槍で魚を捕り、太陽熱を利用した蒸留装置で飲み水を確保。漂流14日目には船を見つけますが、残念ながらキャラハンさんに気づくことなく通り過ぎてしまいます。
1カ月後には、いかだは航路を外れてしまいます。50日目経つころには海水によって肌がただれ、脱水症状に苦しみ、いかだにできた穴を修理し続けなければなりませんでした。。
体重の3分の1を失い、体力も尽きかけたキャラハンさんの上空を飛んでいた多くの鳥に気づいた漁師が、グアドループ沖で彼を発見しました。鳥たちは、キャラハンさんが海水に捨てる魚の内臓を狙って飛び回っていたのです。こうして76日間の漂流生活が、無事幕を閉じたのでした。
Steve Callahan | Survived Being Adrift At Sea for 76 Days
Youtube@Weird Historyより。
ロバートソンズ一家|海の遭難から生還
38日もの間、ロバートソンズ一家は海を漂いました。イギリスで農場を経営していた父親のドゥガル・ロバートソンズ氏は、「いい人生経験になる」と家族をヨットで世界一周旅行に連れて行くことにしました。そして1971年1月27日、ドゥガル氏は妻と4人の子どもたちとともに、「ルセット」と名づけた木製のスクーナー(縦帆船)で出航したのです。
長男のダグラス氏が「BBCニュース」に話したところによると、父親のドゥガル氏は英国商船隊にいたこともあるにも関わらず、あまり旅の準備は念入りにしていなかったそうです。
海にいた17カ月の間は特に何の問題もなく、港を移動しながら世界を見て回りました。しかし1972年の6月15日、ガラパゴス諸島沖でシャチの群に襲われてしまいます。
シャチに襲われた船は大破して、海に沈んでしまいます。残ったのは救命ボートと小さなボート。そして、6日分の食料だけでした。雨水を飲み、ウミガメを捕り、海洋の中心まで太平洋海流に乗って、そこからアメリカ方向に行けることを願いながら漂流していました。
16日後、救命ボートが使い物にならなくなってしまったため、結びつけて漂流していた小さなボートへと乗り移りました。たった3メートルほどしかないボートで明らかに定員オーバーでしたが、全員を詰め込んで漂流は続きました。
そして1972年7月23日、日本のマグロ漁船「第一東華丸」によって発見、救助されたのでした。
SYND 25-7-72 INTERVIEW WITH SHIPWRECKED FAMILY
Youtube@AP Archiveより。
ハリソン・オケネ|海の遭難から生還
2013年5月28日、水深30メートルでダイバーたちがナイジェリア沖で転覆した沈没船「ジャクソン4」のトリアージ(識別救急)を行なっていました。そして、死亡したと思われていた乗組員を発見したのです。
ハリソン・オケネ氏は、コックとして乗船していました。船が転覆したときには偶然トイレにいたそうで、緊急避難用ハッチをつかもうとしますが失敗してしまいす。オケネ氏が船に閉じ込められたまま浸水が進む中、オケネ氏はわずかなエアポケットを見つけたのでした。
3日後、「もう助からないだろう」と諦めていたところ、ダイバーが船の表面を叩くハンマーの音が聞こえたのです。運ばれてきたダイビング器具を装着して救出された後、減圧室で2日間治療を受けました。他の全乗組員のように、命を落としていてもおかしくない深さに閉じ込められていたのです。
その後オケネ氏は、二度と海へは行かないと誓ったそうです。
Dramatic rescue of man from submerged boat
帝国南極横断探検隊
すでに南極に立ち向かったことのあったアーネスト・シャクルトン氏は、1914年に28人の乗組員とともに再度南極探検に向かいました。
そこでは、南極大陸を横断して反対側で待つ船まで到着するのが目標でしたが、エンデュアランス号とともに浮氷に閉じ込められてしまったのです。しかも、それだけではとどまらず、氷の力によってエンデュアランス号は破壊されてしまいました。
船から運び出したわずかな物資とともに、彼らは救難艇(きゅうなんてい)で厳しい大西洋を14日間にわたって島に向かいました。しかしそれでも、さらに出発地から1600キロも離れた最も近い有人島であるサウス・ジョージア島に向けて旅立たなければいけませんでした。
多くの困難に見舞われながらも、探検に向かった28人全員が生還しました。犬は残念ながら、食料とせざるを得なかったものもいたようです。
待ち合わせる予定だった大陸の反対にいたロス海支隊は、3名の死者を出していました。
Survival! The Shackleton Story
Youtube@National Geographic Creativeより。
アポロ13号|宇宙から生還
いままでに、アポロ13号の搭乗員ほど地球から遠い場所へ行った人は他にいません(天文学者クライド・トンボー氏の遺灰は、冥王星をとうに過ぎているかと思いますが、これはカウントしないことにしましょう)。彼らは地球から40万キロも離れた場所から、奇跡的に生還を果たしたのです。
しかし彼らは、当初の目的地であった月面には着陸できていません。と言うのも、搭乗員のジム・ラヴェル氏、ジョン・スワイガート氏、フレッドヘイズ氏は命を落としてもおかしくないほどの問題に直面していたのです。それは電線が短絡して火花が散り、酸素タンクに引火して機械船の一部を吹き飛ばしたのです。
月面着陸船を救命ボートとして使ったため、搭載されている食料は限られていました。2人で1日半分のしかなかった食料を、3人で4日持たせなければならなかったのです。そして地球へと向かうため、月から遠く離れてしまった軌道を修正する必要がありました。
着陸船は宇宙にいる間は安全に問題なく使えますが、大気圏再突入に耐えられるようにはつくられていません。そこで帰還する直前に破損した機械船へとまた戻り、無事地球に生還したというわけです。
ヘイズ氏は深刻な脱水症状にかかっていましたが、全員命に別状はありませんでした。
Apollo 13: Houston, We've Got a Problem
Youtube@PublicResourceOrgより。
Being Aron Ralston, Amputee Mountaineer
ラルストン氏は、岩に挟まれた自分の腕を切断して生還した男として、永遠に語り継がれることでしょう。
彼はユタ州のブルー・ジョン・キャニオンを一人で登頂中、渓谷内で挟まっていた岩が右腕に落ちてきて、渓谷内の壁との間に腕を挟まれてしまったのです。
彼はこの計画を誰にも伝えていなかったため、捜索隊が探しにくる可能性はゼロに等しかったのです。そして水も食料も、あとわずかしか残っていません。彼は自力で脱出するしかなかったのです。
腕を引き抜こうと3日間奮闘したあと、自分で腕を切断することを決意します。それから2日間切断を試みますが、持っていた道具ではなかなか上手くいかず、半ば諦めていたそうです。このころには水はなくなり、自分の尿で渇きをしのいでいました。
そして6日目に、「前腕部の橈骨(とうこつ)と尺骨(しゃっこつ)を折れれば、あとは一部を切断すればいいだけだ」と思いつきます。そして安物のナイフを使って1時間かけ、腕を切断することに成功しました。さらにクルマに戻るため、残った腕1本で20メートルの壁を下降したわけです。
駐車場まで歩いているところを、ヨーロッパからキャンプに来ていた家族に発見されます。そうして切断から6時間後、ヘリコプターで救助されたのでした。
アダ・ブラックジャック
アラスカで生まれたアダ・ブラックジャックさんは、エスキモーのイヌピアト族の女性です。カナダ人のビリャルマ・ステファンソン氏とアラン・クロフォード氏に、ヴランゲリ島探検の一員として雇われました。
当時、ロシア領だったヴランゲリ島をカナダの名のもとに獲得するという目的の探検隊で、ブラックジャックさんは裁縫と料理を担当していました。
1921年9月16日、5人のメンバーは遠征中に島に取り残され、食料もすぐに尽きてしまいました。3人のメンバーは助けを呼びに行ったまま帰って来ることはなく、ブラックジャックさんは残って病気のメンバーを看病していました。ですが、やがてその彼も亡くなり、島に残ったのは彼女1人となったわけです。
ブラックジャックさんはホッキョクグマの脅威にも耐え、この地で2年間生き延びました。アザラシの狩りを独学で覚えて飢えをしのぎ、1923年8月28日にようやく救助されたのでした。
しかし、アラスカ大学アンカレジ校が運営するサイトによると、ブラックジャックさんの帰還は歓迎されるどころか、1人も男性メンバーを救えなかったことで周りから中傷されたそうです。
そんなメンバーの遺族たちは、「彼女は息子の命を救うためにできる限りのことをしてくれた」と証言したにも関わらず、ブラックジャックさんは1983年に、その生涯を終えるまで貧しい暮らしを強いられていたのでした。
Stranded in the Arctic | Survival Story of Ada Blackjack
From POPULAR MECHANICS
Translation / Yuka Ogasawara
※この翻訳は抄訳です。