「はい、ここだよ」とタクシーを降ろされたのは何もない田舎道。霞がかかった山々は水墨画のように幽玄。周囲には雑然とした畑が広がっています。実は香港の郊外には、何百年も前から続くこんな農村が多数あるのです。
今日の目当ては、この辺りで作られている、香港のクラフトジン「パフュームツリーズジン」。たどり着いたのは、築100年を超える石造りの古民家でした。
薄暗い屋内に入ると「遠くまでよく来たね」と明るい笑顔で迎えてくれたのが、このジンの生みの親でバーテンダーのキット・チュンさん。ヨーロッパでバーテンダー修業後、5年前に香港に帰国。キットさんの名を一気に高めたのは、漢方食材や知られざる香港産食材を使ったカクテルでした。
「ヨーロッパでは郷土色のあるカクテルが当たり前だったので、香港でも作ってみたかったんだ」最初は誰もが「香港産の食材なんてあるの?」と半信半疑。しかしその美味しさで評判となり、今や香港中のバーがそんなカクテルを作るようになったといいます。
「このジンには香港に関わる5種類の食材が使われています。名前にもなった『白蘭花』が代表格で、70年代にはタクシー運転手が車内消臭用にこの花を車に置く習慣がありました。この匂いで花売りのおばあさんや、当時の風景が香港人の目に浮かぶんですよ」と楽しそうに話してくれるキットさんですが、この香りをジンに取り込むためのこだわりは相当なもののようで…。
「この花、朝の4時半からの2時間しか、良い香りがしないんです。だから近所の農家を説得して、開花期間中、毎朝花をつんで届けてもらい、花の香りを抽出する作業をしています」と言うキットさん。
今のところ香港では蒸留所開設許可に時間がかかるため、全材料をオランダの蒸留所に配送。完成品を香港に輸送していて、キットさんは月の半分をオランダで過ごしていたのだとか。
試行錯誤の末、白蘭花(ギンコウボク)以外には香港の寺院で使われる線香の原材料であり、「フレグランスハーバー(香る港)」と命名されたきっかけになった18世紀のスパイス貿易の主役「サンダルウッド」、広東料理や漢方に使う「陳皮(ちんぴ)」、中国緑茶「龍井茶(ロンジンちゃ)」、漢方薬として有名な「当帰(とうき)」が、香港と関わるストーリーのある材料として選ばれました。さらにジュニパー、シナモンなど全13種類のボタニカルをバランスよく組み合わせて完成したジン。香港とオランダを往復した苦労が実り「世界的なジンアワードを、オランダ産として受賞したんですよ」とニッコリ。
そんな話を聞きながら、パフュームツリーズジンを味わうひととき。最初にふわっと白蘭花の香りが広がった後、さまざまな風味が浮かび上がります。複雑だけれども優雅な味わい…。目を閉じて郷愁(きょうしゅう)に浸っていたのもつかの間、近所のおじさんたちが次々とやって来て、キットさんにショットもらって居着いているではないですか!ワイワイ笑っているうちに、遠くの山に日が沈み始めました。
「この環境、最高でしょ」とキットさん。うなずく以外の選択肢がありません。香港バー業界では少し異端なすご腕バーテンダー、キットさんが丹精込めて作り上げた「パフュームツリーズジン」。バーを訪れてメニューに見かけたら、香港そのものを封じ込めたこの風味を、ぜひ味わってみてください。
【PROFILE】キット・チュン
1982年生まれ、香港出身。バーコンサルタントとしてSOHOFAMA Barなどの人気バーを手がけた後、クラフトジン開発に没頭。2018年末に発売した「パフュームツリーズジン」が、「ワールド・ジン・アワーズ 2019」で「ベスト・コンテンポラリースタイル・ジン(オランダ部門)」を受賞。