「マイボディ、マイチョイス!(私の体のことは、私の選択で決める!)」
マンハッタンのワシントンスクエアに集まった大人数の人たちが、大声でスローガンを叫んで抗議する。女性の権利が、なんと49年ぶりに最高裁によってくつがえされたからだ。
6月24日アメリカで大きな衝撃をもたらしたのが、米連邦最高裁判所が「妊娠中絶は女性の権利」と半世紀前に判決したことを、ひっくり返したことだ。
アメリカでは1973年に「ロー対ウェイド(Roe v. Wade)」裁判というエポックメイキングな判決があった。最高裁が「合衆国憲法は女性の堕胎の権利を保障している」と判断し、人工妊娠中絶を規制するアメリカ国内法を違憲無効とされたのだ。
つまり、女性が中絶を選ぶ権利を持つとされたのだ。
これが今回、「妊娠15週以降の人工妊娠中絶を原則として禁止するミシシッピ州の法律が憲法違反にあたるかどうか」の裁判について、州法は合憲だという判断を示した。そして、「憲法は中絶する権利を与えていない」という見解を示したのだ。
人工妊娠中絶の合憲性を否定したので、中絶を容認するか、禁止するかは各州にゆだねられる。とても先進国で起きることとは思えないが、最高裁判事は現在保守派が6人、リベラル派が3人と、保守派が強い。
人工妊娠中絶を女性の権利だとする派を「プロチョイス」(選択支持)、人工妊娠中絶を禁止して胎児を絶対的に優先する派を「プロライフ」(胎児支持)と呼ぶが、「プロライフ」の根底にはキリスト教の、
「命は神から与えられたもの」
「意識のない胎児にも人権がある」
という考えがある。しかしながら同時に、アメリカでは殺傷力の高い銃の販売所持が許されており、また世界でもっとも死刑執行数が多いことを考えると、大いなる矛盾といえる。
日本の感覚からすると、なぜそこまでがするのか理解できないところだが、この背景には「人工妊娠中絶禁止」を掲げる、キリスト教保守派勢力の票田が大きい。
どうなるかといえば、これによって中絶が禁止される州が出てくる。すでに13の州では連邦最高裁が判決をくつがえせば、自動的に中絶を禁止する法が成立していた。
そのなかでケンタッキー、ルイジアナ、アーカンソー、サウスダコタ、ミズーリ、オクラホマ、アラバマの各州では、ただちに中絶禁止法が施行。「中絶クリニック」が閉鎖され、予約もキャンセルされるので、すでに予定していた患者たちにしたら、人生をくつがえされる決定だ。
一方、ニューヨーク州では合法的に人工妊娠中絶手術は受けられる。だが、自分が住む州が中絶を違法としたら、他州に行って手術をしなくてはならなくなる。
さっそく従業員に対して、中絶にかかる旅費を出すとした企業は、スターバックス、テスラ、マイクロソフト、ネットフリックス、パタゴニア、JPモルガン、チェイス、リーバイ・ストラウス、エアビーアンドビー、ペイパル、ディズニー、メタ、コンデナスト社などがあげられる。
一方、テキサス州議会はリフトといった州内における、企業の旅費負担措置を違法とする審議を進めている。
Google社とYouTube社では、希望する社員に「人工妊娠中絶が許可されている州」への移動を認めることを通達した。
しかしこうした大企業ではなくて、サポートを受けられない場合はどうなるのか。
そもそも中絶が必要なのは、経済的な問題や健康上での問題などで産めないというケースが多いだろう。これでは貧しい女性にとってはさらに経済的に逼迫する恐れがあり、子どもの父親にとっても扶養義務が生じる。
レイプされて妊娠した女性が堕胎できない、近親相姦でも堕胎できないとなると基本的な人権をさまたげる。
中絶というのは、なにも整形美容のようにしたくてするものではない。自分の体を傷つける危険をともなって、けれども自分の人生をどうしたいかと選択するものだからだ。
かつて故ルース・ベイダー・ギンズバーグ最高裁判事は、こう発言していた。
「子どもを産むか産まないかは、女性の人生にとって中心となることで、幸福と尊厳に結びついている。中絶は、女性が自分自身のためにしなくてはいけない決定だ。もし政府が、女性に代わって決定をコントロールするとしたら、女性は自分の選択をする責任をもてない、成熟した大人として扱われていないことになる」
まさにこの言葉通りで、今回の判決は女性の人権に対する大きな脅迫といえる。この事態に、アメリカ社会はかつてないほど議論が白熱している。
BTEアワードにプレゼンターとしてステージに登場したジャネール・モネイは、中指を立てて「最高裁のクソ野郎」と罵倒。女性の権利がひっくり返されるという事態に、最高裁に対する不信が高まっている。
シンディ・ローパーは、闇の中絶手術を受けて亡くなった女性のことを歌にした曲『サリーズ・ピジョン』を再録して発売。
レディ・ガガも「レイプ犯よりも、レイプで妊娠した女性の中絶をする医師のほうが罰せられるとは、グロテスクなパロディだ」と批判。ビリー・アイリッシュは「男性が女性の選択を決めるべきではない」と怒りをあらわにした。
リアーナも中絶禁止の法案にサインをした25人の「共和党白人男性」議員たちの写真をあげて、「この愚か者たちがアメリカの女性たちに対する決定をした」と批判した。
アリアナ・グランデやマイリー・サイラスも「プランド・ペアレントフッド」(全米家族計画連盟)に多額の寄付をしてきており、怒りを表明。オリヴィア・ロドリゴはコンサート会場で、「これが原因で、たくさんの女性と子どもたちが亡くなる」と批判。そして判決に賛成した判事たちの名前を読み上げたあと、リリー・アレンと共に「ファックユー」を歌った。
ミラ・ジョヴォビッチは過去の中絶体験を告白して、「中絶は女性にとっては悪夢。誰もそんなことを望まない。それでも必要な時には安全な方法を得られるために、権利が保障されるよう闘わなくてはいけない」と、インスタグラムで発言。
男性セレブも、クリス・エヴァンス、ジョン・レジェンド、ケンドリック・ラマー、ハリー・スタイルズらも、最高裁の判決に反対の声をあげた。
これを聞くと、「では、中絶反対派のほうが少なくないのか?」という疑問もわいてくるだろう。実際にもし国民投票で公平に問うならば、人口比で女性のほうが多く、若い世代にとっては死活問題なので、プロチョイスが過半数になるはずだ。
ところが最高裁判事の内訳は、男性が6人、女性が3人。そして保守派が6人、リベラル派が3人という割合だ。つまりマジョリティの女性が望まないことを、少数の判事たちが決定するという、ねじれた事態になっているのだ。
さらに国連のバチェレ国連人権高等弁務官が、女性の自己決定権を奪うものとして批判する声明を出すという事態にも発展している。
問題は、人工妊娠中絶だけに留まらない。
判事のなかでも保守派であるクラレンス・トーマス判事が、中絶権の見直しに加えて今後「避妊や同性愛行為の自由、同性婚などの合法性を認めた過去の判例を見直すべきだ」と書きそえたことから、さらなる激震が走っている。
まるで19世紀のような価値観で、とても現代社会の話とは思えない。
もし避妊が「神の意志に反すること」としてできないとしたら、「バイアグラも神の意志に反さないのか」といった疑問も浮かんでくる。そもそも医学における延命措置すら神の意志に反するのではないか。
同性婚については、2004年、マサチューセッツ州が初めて同性婚を合法化した。そののち37州とワシントンD.C.が続き、2015年に最高裁判決により、どの州で行われる同性婚も合法的なものであると確認された。
つまり歴史としては、同性婚が全国で合法的になったのは、それほど昔の話ではないのだ。
現在アメリカでは、もはや同性婚は当然のものとして受けいれられているが、今回の「妊娠中絶は女性の権利である」という判決がひっくり返されたことから、にわかに「同性婚が認められなくなるかもしれない」という危機感がわきあがった。
妊娠中絶反対という流れから、当然、次のターゲットは同性婚反対だろう。
そのせいもあって今年再開された「プライドマーチ」は、たいへんな盛り上がり方だった。LGBTQコミュニティを祝い、法の下での同権を求めて始まった「プライドマーチ」はNYC名物だが、パンデミックのために2年間なくなっていた。
それが全面的に再開されるとあって、今回のマーチは大規模となった。
市民団体の他に、チェイス、シティバンク、デルタ航空、ユナイテッド航空、JPモルガンなど、企業のフロートが多く参加。
また教会の参加も多く、「誰もが迎えられる」というプラカードを掲げたりしている。これはキリスト教保守派が伝統的に「同性愛は神にそむく行為」とみなすのに対してカウンターとして声をあげているものだろう。
なかにはマーベルのキャラクター「ロキ」の写真を掲げて、「私の神は、あなたの神よりずっといい」と書いたプラカードもあった。これは「ロキ」のキャラクターがバイセクシャルの神という設定なので、それにひっかけているのだろう。
そして今回目立ったのは、
「安全で、合法の中絶を守れ」
「計画的家族作りに賛同する」
「私の体のことは、私に選択がある」
といったプラカードだ。
もし合法的な人工妊娠中絶が許されなくなったら、女性たちが秘密裡に危険な手術を受けたり、堕胎薬を飲んだり、自分で処置するかもしれないという懸念がある。
抗議のプラカードには「血だらけのハンガー」の絵が描いてあるプラカードがあるのは、かつて女性が中絶するときにハンガーを使ったという、危険きわまりない処置のことを指す。
NYCLU(ニューヨーク市民自由権利組合)のチームに参加して「中絶は止めない」のプラカードを持っていた参加者に意図を尋ねてみると、
「最高裁の判断は、絶対に許さない。人としての権利を絶対に守らなくてはいけない。クラレンス・トーマス(判事)は次に同性婚を非合法化するはずだ」と訴え、「彼はセクハラでも妻の行動でも罷免されるべき人物」と批判する。
トーマス判事の妻は2020年の大統領戦後に、当時の大統領首席補佐官に何度もメッセージを送り、選挙結果をくつがえすように催促していたことが判明していて、判事の妻が国政にかかわっているのは問題視されている。
今回もうひとつ感じたのが、かつてのプライドマーチとの違いだ。
かつて「ゲイパレード」と呼ばれていた「プライドマーチ」は、LGBTQコミュニティにとっての発露の場で、ドラァグクイーンやハードコアなゲイの参加者たちがマーチするものだった。ゲイやレズビアンのコミュニティにとっては、一年でいちばん輝く日でもあった。ある意味でエキセントリックで個性的で、ずっと面白いパレードだったのだ。そして見ているほうは、参加者とは違うサイドにいる「見物客」だったといえる。
それが企業のダイバーシティの一貫としての参加が増え、アライ(英語のally、すなわち仲間や同盟を意味する単語で、そこから転じてLGBTQの人たちに共感して味方になる人を指す用語)が増えた。
つまり、見るほうも「見物人」から「味方」「同じ側」「多様性をサポート」する意識になってきたといえる。服装にしても、見物客たちもレインボーカラーを着たり、かなり奇抜な恰好をふつうに着こなしたりしている。
10~20代であるZ世代のスタイルが浸透して、カラフルなヘアやアニメちっくなファッションがあふれているので、パレードの参加者だか見物客だかわからない雰囲気になってきているのだ。
正直いって参加している人も、見ている人たちも、誰がLGBTQであるかわからない。それほどブレンドインされてきたのだと肯定的に捉えることができるし、確実に時代は変わっていると実感する。
妖精のようなスタイルをしている若い見物客に「なぜ参加したのか」と聞いてみると、「みんなが集まっていて楽しいから。こういうカルチャーが好き」という。
これほどダイバーシティが進んでいる現代アメリカ社会でありながら、一方では、まるで19世紀のような価値観も揺り戻してきているところが驚くところだ。ふたつに分断されたアメリカの今が見える。
黒部エリ
Ellie Kurobe-Rozie
東京都出身。早稲田大学第一文学部卒業後、ライターとして活動開始。『Hot-Dog-Express』で「アッシー」などの流行語ブームをつくり、講談社X文庫では青山えりか名義でジュニア小説を30冊上梓。94年にNYに移住、日本の女性誌やサイトでNY情報を発信し続けている。著書に『生にゅー! 生で伝えるニューヨーク通信』など。