|1984年|
社名をマツダに変更

1981年完成の防府工場。マツダの主力工場として現在も稼働中
MAZDA
山口県にある防府工場。マツダの主力工場として現在も稼働中です。

1982年(昭和57年)、現在もマツダの主力工場の1つである防府工場が完成します。その2年後には、社名を東洋工業から「マツダ」へと変更。社名とブランド名が一元化されます。

翌1985年(昭和60年)5月にはアメリカ・ミシガン州での工場建設を開始しますが、同年9月に米国ロナルド・レーガン政権下でプラザ合意が締結され、円は1ドル250円台から150円台に急騰。対米貿易で多大な黒字を生み出していた日本企業は、大きな打撃を受けることになります。もちろん、マツダも例外ではありませんでした。

|1989年|
5チャネル展開と「ロードスター」の誕生

初代ロードスターは、国籍や性別を問わず多くの人に愛された名車
MAZDA
初代「ロードスター」は、国籍や性別を問わず多くの人に愛された名車です。

日本企業全体が対米輸出の競争力を低下させる中、マツダは経営戦略の見直しを図ります。国内での多チャネル展開もその戦略の1つでした。元々あった「マツダ」と「マツダオート」、「オートラマ」の3チャネルに加え、「ユーノス」、「オートザム」という2つの販売チャネルを新設。国内販売台数の増加を目指します。

マツダがユニークだったのは、これらを単純な販売チャネルとしてだけでなく、今時で言う「ブランド」戦略に近い方法をとったことです。トヨタの「レクサス」など、現在では一般的なものとなったブランド戦略ですが、当時の日本ではマツダが行った試みは斬新なものでした。そんな中、ユーノスブランドから早くも傑作が生まれます。1989年(平成元年)5月に北米で、9月に国内市場に投入されたユーノス「ロードスター」です。

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4代目のコンセプト「人生を楽しもうー“Joy of the Moment, Joy of Life”」のさらなる深化を目指して、2021年末に発表された特別仕様車の1つ「ロードスター 990S」。

ユーノス「ロードスター」は、イギリスの伝統的な“ライトウェイトスポーツカー”をなぞらえた小さなスポーツカーです。日本、北米、イギリスなどを中心に熱狂的に受け入れられ、世界中で約43万台が販売される大ヒットに。「ロードスター」は運転することが楽しく、デザインも魅力的だったことから老若男女から現在も愛されています。

この頃のマツダは、当初の狙い通り、過去最高の生産台数を記録します。5チャネル展開を中心とした新たな戦略は、すべてが順調に進んでいるようにも見えました。しかしながらバブル景気の追い風は、そう長くは続かなかったのです…。

|1991年|
ロータリーへの執念が結実。ル・マン24時間レース総合優勝

 
Rick Dole//Getty Images

多チャネル展開を進める一方で、マツダはロータリーエンジンのさらなる開発も続けていました。そうした流れの中で1991年のル・マン24時間レースは、マツダにとって特別なレースとなりました。

予選19位からスタートしたマツダ55号車は快調に周回を重ねます。レースが12時間を経過する頃には、優勝候補の一角だったジャガーの2台を抜き去り3位に浮上。これを見て焦ったのは、前を行くメルセデス・ベンツでした。もともと強豪チームではありましたが、それを考慮に入れてもなお、マツダの速さは完全に想定外だったのです。

メルセデス・ベンツの2台はペースを上げます。しかし、そのわずか1時間後、2位を走るメルセデス・ベンツ31号車が故障。それから8時間、先頭を行くメルセデス・ベンツ1号車とマツダ55号車は一歩も譲らない睨み合いとなりました。

優勝候補の筆頭に数え上げられていたメルセデス・ベンツのスピードは、他を圧倒するものでした。が、マツダ55号車は軽量で燃費も抜群。総合力でひけを取りません。あとは、どちらが壊れずに走り続けられるかの根比べとも言える様相を呈していました。

ル・マン24時間レースを制したマツダ55号車「787b」。大メーカーを向こうに回しての劇的な勝利でした。
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ル・マン24時間レースを制したマツダ55号車「787B」。競合マシンを向こうに回しての劇的な勝利でした。

レースが動いたのは、スタートから21時間目のことでした。メルセデス・ベンツ1号車のエンジンがオーバーヒート。戦線離脱を余儀なくされます。午後1時4分。マツダ55号車はついに先頭に立ちます。

ロータリーエンジンは燃費や信頼性に難があるとして、マツダ以外のメーカーが手を引いた極めて特殊とも呼べるエンジンでした。見事そのイメージを覆し、ロータリーエンジンによるル・マン24時間レース挑戦が、最高のカタチで締めくくられようとしていました。

そうして1991年6月23日午後4時、ロータリーエンジンを搭載したマツダ55号車はル・マン24時間レースで念願の総合優勝を果たしたのです。最後にハンドルを託された若きイギリス人ドライバー、ジョニー・ハーバートによれば、エンジンは最後の最後まで絶好調だったと言います。一般的なレシプロエンジン以外のマシンがル・マン24時間レースで勝利したのは、後にも先にもこのときのマツダだけ。世界のモータースポーツ史上に燦然と輝く偉業を成し遂げたのです。

|1996年|
経営危機のマツダを救ったフォードと「デミオ」

空前の大ヒットとなった初代「デミオ」は、日本中で見かけた人気者でした。
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空前の大ヒットとなった初代「デミオ」。日本中で見かけた人気者でした。

バブル崩壊を受け、日本経済は冬の時代へと突入します。マツダも一時は増えた国内販売台数が減少をたどり、多チャネル経営による高い維持コストが経営に影響を及ぼしていきます。

マツダは、1979年からフォードとの間に資本提携を結んでいましたが、1993年12月に新たな戦略的関係の構築を発表します。そして1996年5月、フォードからマツダへの出資比率が33.4%に引き上げられ、日本の自動車メーカー初の外国人社長(フォード出身のヘンリー・ウォレス氏)を迎え入れます。それ以降マツダは、フォードの世界戦略の一員としてフォードと共に世界で戦う重要なパートナーとなり、その良好な関係は「国際提携の模範」とまで言われるようになります。

そんな中、既存車種のシャシーやエンジンを使用し、ローコストかつ短期間で開発された「デミオ」が1996年に発売されます。「道具としてのクルマ」に徹したシンプルなつくりとそのコンセプトがバブル崩壊後の世相にマッチしたこともあり、年間10万台を超す大ヒットを記録します。

当時のマツダは、自動車に対して厳しい目を持つユーザーが多いとされるヨーロッパでも高く評価され、同時に日本専用車「ボンゴフレンディ」などもヒットさせるなど、再び輝きを取り戻し始めます。

|2012年|
ロータリーエンジン搭載車の生産終了

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バブル崩壊後の日本は、リーマンショックを始めとする長引く経済不況に苦しみ続けていました。自動車もより実用的なものへと購買の軸足が移り、ミニバンや軽自動車が人気を集めるようになります。そんな折、人気を失っていったのがスポーツカーでした。

2002年、マツダはロータリーエンジンを搭載したスポーツカー「RX-7」の生産を終了します。翌年には後継車として、「RX-7」よりリーズナブルで実用的な「RX-8」を販売しますが、2012年にマツダは「RX-8」の生産終了を発表します。多くのファンに惜しまれつつ、ロータリーエンジンは表舞台から姿を消すこととなりました。初のロータリーエンジン搭載車「コスモスポーツ」の発売から45年目のことでした。

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2006年には、水素でもガソリンでも走行できる「デュアルフューエルシステム」を採用した水素ロータリーエンジンを搭載した「RX-8ハイドロジェンRE」のリース販売を開始しました。

しかし、開発が完全に止まったわけではありません。マツダはロータリーエンジンを発電機として活用するマルチ電動化技術を搭載したクルマを開発しており、2022年に市場導入する予定となっています。この技術が搭載されれば、かつて水素ロータリーを開発していたときの知見を活かして、水素で動かして発電することも可能になるかもしれません。

|2015年|
マツダの個性が開花

新世代のマツダを印象付けた「cx5」は、マツダを代表する人気車種に。
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新世代のマツダを印象付けた「CX-5」は、マツダを代表する人気車種に。

新時代のマツダを語る上で欠かせないのが「スカイアクティブ・テクノロジー」です。これは高性能な車体と高効率なエンジンをゼロベースで開発していくもので、マツダの社運を賭けたとも呼べる一大プロジェクトでした。

それと同時に、デザインへの注力も始まります。ひと目見てマツダ車とわかる「魂動デザイン」は人々の目を奪い、街角で視線を集める数少ない国産車となりました。

スカイアクティブ・テクノロジーは2011 年のデミオ(エンジンのみ)に初搭載され、全面的に用いられた「CX-5」は、2012年に発売されるや否や、いきなりの大ヒットを記録します。その後も約3年で6車種というハイペースで新型車を発表し、新時代のマツダを強く印象づけます。

一方でフォードとの別れもありました。2008年におきたリーマン・ショックの影響もあり経営が悪化したフォードは、段階的にマツダ株を売却。2015年にはすべてのマツダ株を売却し、36年に及ぶフォードとマツダの資本提携関係は終了しました(タイにおける合弁会社の「オートアライアンス(タイランド)」などの海外事業でのパートナーシップは継続)。

|2021年|
生まれ変わるデザイン、変わらないひたむきさ

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魂動デザインの魅力が詰まった「Mazda3」のデザインスケッチ。

2021年現在、マツダは国内向けに9つの車種を自社生産しています。これらの車種はデザインの統一が図られており、どのクルマもひと目見てマツダとわかるものです。

しかしながら当然のことですが、こだわりはデザインだけではありません。例えば、コンパクトカーの「MAZDA2」からSUVの「CX-8」まで、どの車種もドライバーが理想的な姿勢で運転できるように設計されています。ドライバーの運転姿勢は安全運転の基本でありながら、マツダほどにこだわりを見せるメーカーはそう多くはないかもしれません。

こうしたマツダの姿勢を、「不器用」と考える向きもあります。しかしこれは、クルマを購入する消費者にとって大いに歓迎すべき姿勢ではないでしょうか。この真面目さこそ、マツダが長く愛されてきた理由の一端に他なりません。

自動車を愛し、可能性を信じ続けるマツダの挑戦

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「R360クーペ」から始まったマツダの挑戦。自動車への情熱は今も変わりません。

2022 年から市場導入される「ラージ商品群」と呼ばれる製品ラインナップでは 、大衆車に多く採用される前輪駆動(FF)から、世界中の高級車が採用する後輪駆動(FR)へと転換します。世界の最上級車の多くは後輪駆動であり、今も昔も自動車文化の頂点であり基本です。そこに新たに参入するという決断は、マツダ自身が自動車と自らの未来を信じていることの証に他なりません。

マツダは、自分たちの歴史を大切にすることも忘れません。2017年には初代「ロードスター」のレストアサービスをスタートしています。大衆車メーカー自らがレストアを行うことは異例とも言え、長く「ロードスター」に乗ってきたオーナーはもちろん、多くのクルマ好きからもその姿勢を高く評価されています。

こうしたことは、自動車を単なる商売道具と考えていては決してできないことです。自動車を愛し、その可能性を信じ続けてきたマツダ。これからもきっと、私たちに自動車の魅力を教えてくれることでしょう。


参考文献:
「マツダ:東洋コルク工業設立から100年」自動車史料保存委員会(著・編集)/三樹書房