|No.1|
R360クーペ(1960年)

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今見ても様になる小粋な存在感…愛さずにはいられない「R360クーペ」。エコノミーな走りと4人乗車可能なキャパシティで、ファミリーカーとして大活躍しました。


「最近のマツダ車っておしゃれだよね」。

そんな声が日常的に広がって、早くも10年以上の月日が経過しています。車好きから見れば「今頃気づいた?」となるのでしょうが、いずれにせよ、マツダという自動車メーカーがデザインにこだわった車づくりを行っていることは、いまや周知の事実かと思います。

マツダは戦後まもなく、本格的に自動車の開発・生産に乗り出そうというタイミングで、一人のインダストリアルデザイナーに相談を持ち掛けます。その人物こそ、1952年に設立された「日本インダストリアルデザイナー協会」の発足に腐心した小杉二郎というフリーランスのデザイナーでした。

マツダの招聘(しょうへい)に応じた小杉氏はその手腕を大いに振るい、技術者たちの奮闘と相まって、1960年に同社初の軽4輪自動車「R360クーペ」を誕生させます。現時点から見れば愛くるしくもエレガントなデザインの歴史的なファーストモデルは、セールス的にもヒットを記録。三輪トラックとして名が知れていたマツダが乗用車メーカーとして知られることになります。

 
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「R360クーペ」のボディサイズは全長2980mmと小さいながらも、子ども二人が乗れる後席を備えたファミリーユースに応えるパッケージが特筆すべきポイントです。当時主流だった2サイクルエンジンではなく、V型2気筒の4サイクルエンジンを後部に収め、経済性に優れていた点と、時代を先どってオートマチックトランスミッションを設定してことは大きな魅力だったことでしょう。

愛らしいクーペスタイルのデザインやパッケージは、秀逸そのもの。人々を魅了するデザインの力と卓越したエンジニアリングの結晶である「R360クーペ」は、日本を代表する名車の1台と言えるでしょう。

|No.2|
コスモスポーツ(1967年)

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搭載した当時最新鋭のメカニズムに負けず劣らず、未来的なデザインとなりました。

来たるべき未来へ。独自技術の必要性を感じていた松田恒次社長(当時)は、ドイツNSU社から1961年にロータリーエンジンの特許を取得します。そして、開発に挑戦するこそするものの、途中で諦め脱落していく他社を横目に、マツダはロータリーエンジンを無事完成させ、伝説の1台を世に送り出します。それが1967年発表のスポーツカー、「コスモスポーツ」です。

ロータリーエンジンの特徴は小型で高出力なこと。おむすび型のローターを回転させ出力を得るため、ピストンの上下運動を回転運動に変換するレシプロエンジンよりも低振動というメリットもありました。

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初期型のボディサイズは全長4140mm × 全幅1595mm × 全高1165mmです(後期型はホイールベースを延長したために全長が150mmほど長くなっています)。4代目「ND型ロードスター」の全高は1235mmですから、いかに「コスモスポーツ」が低い車かおわかりいただけると思います。

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1964年の試作車。

「コスモスポーツ」は、マツダ(当時の東洋工業)の技術の象徴であるロータリーエンジンの搭載を前提とした車でした。それだけに、デザイン的にも並々ならぬブレークスルーが見た目にも伝わらなくてはなりません。

1963年の第10回全日本自動車ショー(現在の東京モーターショー)でマツダはプロトタイプカーの「コスモ」を披露。ロータリーエンジンの展示と相まって来場者の度肝を抜きます。そのデザインは、マツダ社内でも初となる原寸大クレイモデルを製作し完成されました。そのデザインプロセスは、その後の市販モデルに受け継がれていくことになります。そうして誕生したのが、まるで未来を先取りしたかのような未来的な造形からなる「コスモスポーツ」でした。マツダ・ロータリーエンジン搭載車の原点です。 

【編集長からの余談
ちなみに特撮TV番組『帰ってきたウルトラマン』(1971年4月2日から1972年3月3日まで放映)の中で、怪獣と戦う防衛チームMAT(Monster Attack Team)の特捜車両「マット・ビハイクル」は、「コスモスポーツ」の後期型・L10Bをベースにチューンナップがなされています。

そしてこれを含め、円谷プロ(ウルトラマンシリーズを代表とする特撮映像製作会社)作品を敬愛する庵野秀明監督は、自らの作品『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』(2009年公開)の中で、NERV戦術作戦部作戦局第1課課長葛城ミサトの愛車(NERV官用車)として「コスモスポーツ」を登場させています(いつもの愛車はアルピーヌ「A310」ですが、物語途中で大破するので…)。

|No3|
5代目ファミリア(1963年)

 
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小型車において、後輪駆動から前輪駆動への分水嶺(ぶんすいれい=転機)となったモデルでもあります。

100年企業であるマツダの歴代ラインナップから名車を選ぶのは、容易ならざる行為ですが、あえて挙げるとするならば、1980年に誕生した5代目「ファミリア」も語り継がれる名車の1台だと思います。

初代「ファミリア」の誕生は戦略的に商用ライトバンに始まり、そして時節を見据え、「家族そろってドライブを」をテーマに乗用車化しラインナップを拡大していきます。

しかし、それでもなお5代目「ファミリア」を挙げるのは、後輪駆動から前輪駆動への転換点だったからという根拠もあります。5代目「ファミリア」より前のモデルはFR車、それ以降はFF車と、車づくりそのものが現在へと続く分水嶺的モデルなのです。

デザインも大きく変わりました。4代目ファミリアは山田洋次監督の1977年公開の映画『幸福の黄色いハンカチ』の劇中車となりましたが、丸いヘッドライトとキュートなヒップが象徴的でした。しかし5代目は逆に、シャープな角形ヘッドライトとエッジを効かせたデザインが新鮮に映り、また、欧州ではマツダ323の名で投入され高い評価を獲得。国内では33か月連続で前年比を上回るセールスを記録するなど、爆発的人気を博しました。

今日人気のシティ派SUVは、このFF車の技術力なくして車づくりは成立しません。また、この5代目を皮切りに乗用車に適した4WD技術が磨かれたことも、ここで付け加えておきます。

|No4|
初代ロードスター(1989年)

 
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FF車主流の時代に誕生したFR車のスポーツカーでした。

1989年に初代「マツダ・ロードスター」が誕生したとき、世界に衝撃が走りました。当時、軽量オープンスポーツカーの市場はなくなったと思われ、誰も新しくつくろうとはしなかったFR車のライトウェイトスポーツカーです。一時期は英国車の代名詞的存在でしたが、安全基準と排気ガス規制の高まりから、失われたスポーツカーの一種となっていました。

これもマツダの伝統なのでしょうか? 1980年代前半に、「走る歓び」や「クルマを通して得られる幸せ」を提供する商品が必要との認識から、有志による開発がスタートします。バブル終焉(しゅうえん)の足音なんて誰にも聞こえなかった時期であり、また一方では「RX-7」というロータリーエンジンを搭載した本格的スポーツカーの存在があり、当初は非公式なオフラインプロジェクトとして物語は走り始めます。

 
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1989年2月シカゴオートショーでの「MX-5ミアータ(初代ロードスター)」ワールドプレミアの様子。
 
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初代ロードスター プロトタイプ(1984年製作)。

志は高く、「人馬一体」をキーワードにコンセプトづくり…。時代はFF車が主流でしたが、軽快で素直なハンドリングを重視したことから「FR車で前後重量配分50:50」に決定。社内的にも公認を受け、再び難関に挑むことになります。無論、そこにはコストという壁も立ちはだかります。

ギア操作の的確な感覚を実現するためにトランスミッションとデファレンシャルギアを結合するトラス構造のバックボーンフレーム「パワープラントフレーム」が新たに採用されています。サスペンションにもこだわり、前後ともダブルウィッシュボーン方式が採用されています。初心者に優しく、上級者のお眼鏡にもかなう車へと進化を深めます。

 
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初代ロードスター

徹底してマスの集中化と低重心にこだわった点も、マツダ「ロードスター」の特徴です。前後ブレーキキャリパーの位置をホイールベース内に収め、ボンネットに軽量なアルミを採用するなど、運動性能を左右する要の部分は徹底した車づくりが行われています。通常は鋳物でつくることが大半のエキゾーストマニホールドをステンレスでつくるなど、今では許されない部分かもしれません。

日本には、「モノには魂が宿る」という考え方があります。工業製品である車を「愛車」と呼ぶように、カーライフは人の心を、流れるときを、豊かにするモノでなければなりません。マツダ車に乗ると、どこか温もりを感じさせる、そんな瞬間に出合った気がするのです。

 
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