小児性犯罪カルト共同体、コロニア・ディグニダ。ペドファイルの権力者、パウル・シェーファーの逮捕と性加害の歴史の終わり。

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German fugitive extradited to Chile for abuse trial
German fugitive extradited to Chile for abuse trial thumnail
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最終章 教団を支えた政権の凋落。新たな武器で保身を図るシェーファー

1988年、ついに状況が動き出す。軍事政権への抗議の声が大きくなり、ピノチェトはついに国民投票へ踏み切る。それは、任期をさらに8年延長することを問うたものだった。政権側は、「愚かな国民は自分たち右派保守政党を支持する」と踏んでいたための決断だったが、結果は敗北…。それでもピノチェト自身は敗北を認めず、任期の1年延期を交渉し、翌年1989年に大統領選を仕掛ける。しかしそこでも敗北。半ばひきずりおろされる形で政権を交代したのだ。

1990年3月11日、ついに新政権P・エルウィン政権が誕生。前政権に依存すぎたコロニア・ディグニダは一気に攻撃の対象に。警察ですら入り込めない特殊な自治権のようなものを手にしていたコロニア・ディグニダは、「国家内国家」と呼ばれるほど異常地帯と化していた。もはやこれまで、これを見て見ぬふりをしてきた国民も、政権が変われば放置するべきではないという声が多数派に。「慈善団体の地位ははく奪すべき」「脱税や労働法違反が発覚次第法的措置を取る」「教団の活動は違法」と判断されたのだ。事実、教団が上げた利益はなんら慈善活動に利用されていなかったし、学校と病院にすら還元されていなかったのだ。

ところがピノチェト同様、シェーファーも悪あがきをする。 

信者たちを「壁」に

翌1991年、29年続いた”ゲットー”に警察機動隊が押し寄せると、シェーファーに動員された近隣住民や、キリスト教信者たちが捨て身で抗議活動を展開。人間の壁をつくる。シェーファーはコロニアの子どもをつかって、「自分たちは警察に理不尽に襲われる被害者」とアピールした。そして大統領を相手どり、裁判を起こす。ここでもスラップ裁判の手法を使ったのだ。

コロニアディグニダ
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警察と信者たちの闘争はこののち長年続いた。この写真は1998年時のもの

本来なら無駄な悪あがきだが、とは言え29年もの間、政府中枢に取り入ってきた教団がすること…結果、功を奏することび。裁判所内の協力者のおかげで勝訴、そのときの勝利宣言に利用したのが「民主主義」であった。

「私は民主主義時代に、国家内国家を築いたのだ」

自分たちは共産主義政権の庇護(ひご)ではなく、民主主義の手続きを踏んで裁判に勝利し、自分たちコミュニティーを世間に認めさせた。「自分たちこそが真の民主主義国家だ」と宣(のたま)った。まるでナチスが民主主義の合法的プロセスにのっとって政権を掌握し、全権委任法を成立させたのと同じように。

自分が不利になったときこそ、大胆な反撃に出る。シェーファーの手法は、いつもと変わらなかった。そして活動を再開する。さらなる美少年たちを近隣から集め、世間にアピールした。少年たちは大体が貧しく、恵まれない家庭の子どもたちだった。これまでと同じように親の権利を譲渡する契約書にひっそりとサインさせたり、親子の交流を絶たせたりした。さらに文明の利器を利用し、施設各所にマイクとカメラを設置。四六時中自ら監視した。

ところが、その中のひとりの少年が、教団が仕掛けたマインドコントロールにはかからず母親に告げ口をした。彼は地元民だったため、母親が家に呼び戻せたのだ。そうして連れ戻された少年は、母とともに警察へ。それまで捜査を邪魔されてきた警察は、「今度こそは」とまともな裁判官に取り次ぎ、訴えは通った。それは捜査責任者の意地とも言える。教団の人間は裁判所にも出入りし、懐柔策を講じていたためそのネットワークをかいくぐり、ようやく解決の糸口をつかんだのだった。

小児性加害カルト コロニアディグニダとパウル・シェーファー
Aflo
ビジャ・バビエラ(元コロニア・ディグニダ)の敷地内の様子。1990年撮影

強制捜査再開、そして逃亡

12歳のクリストバル少年がレイプを告発したことで、1996年の11月、1991年エルウィン政権下での捜査に続き、再び強制捜査が開始される。

しかし、当局側の内部協力者がここでも事前に捜査を教団側に密告する。そしてシェーファーの逃走を手助けしてしまうのだ。屋根の上から信者たちは狙撃する準備を整え、警察は身動きが取れない。そのタイミングで信者たちは、数カ所に火を放った。こうして完全な混乱状態に…。そのうえ訴えたクリストバル少年が他の少年たちを救おうとするも、洗脳された彼らは教団関係者と一緒に山中へ逃走する始末。完全にハーメルンの笛吹男である。

「あいつらは、お前たちを監獄に入れるために来るのだ。すべて否定しろ」とシェーファーに言い聞かされていた幼い少年たちは、保護されたあとも報道のカメラの前で本気でおびえ、涙を流した。

実はこのとき、少年たちと山の中へ逃げたはずのシェーファーは、地下の秘密の部屋で信者たちが裏切らないかモニターで監視していたのだ。彼は「いつでも見ているぞ」と子どもを脅していたわけだ。それを知らずに子どもの言葉を、「事実を語った証言」として流したメディアの罪は大きい。

それゆえ少年たちは法廷で次々に、「いやなことをされたことはない」と証言する。そのうえ法廷では、シェーファーには総勢12人もの弁護士がついた。法律家がいかに金と権力が好きなのかがわかる。ついにはチリ全土に、「訴えた少年がうそをついている」と彼らをオオカミ少年扱いする人々も続出したのだ。

弁護団のひとりエルナン・ララインはピノチェト派の弁護士で、上院議員となり、その後一貫してコロニア・ディグニダを弁護。虐待の事実に関する裁判で勝利し続けた。コロニア・ディグニダがビジャ・バビエラと名前を変えて現在に至るまで存在するのは、彼の擁護のおかげである。恐ろしいのはこのララインがつい2022年まで、司法・人権大臣を務めていたことである。1990年代に入ってもなお、それほどまでに教団は政治と蜜月関係を維持していたといいうことがわかるだろう。 

1997年に脱走を果たした地元住民の息子の少年ルナは、4年間シェーファーに付きまとわれた。彼はレイプされかけたときのことを思い出しこう証言している。

「信者が少年をひとりひとり連れていき、寝屋を共にさせました。私は(被害に遭ったとき)『お前なんか嫌いだ』と逃げて、他の少年たちが集まっている食堂に行くと、全員が私のことを『お前もやられたのか』という目で見ました…。あのときです、絶対に復讐(ふくしゅう)すると誓ったのは」

ルナは、時間をかけ準備をした。信頼できる仲間を見つけられたことは何よりもまして勝因となった。トビアス・ミュラーという快活で自由な精神の持ち主と仲良くなったルナはある日、トビアスが何度もシェーファーによってレイプされていることを告白され、2人で逃走計画を練ったのだ。1997年7月、青年団のパーティーの夜に脱走。ナイフを片手に森の中を17km進み、ルナの実家で彼の兄が逃走用に手配した車で逃亡。彼らを迎えたドイツ大使公邸は「大使館の中にも協力者はいる。ここは危険。ドイツ政府がドイツへ招待する」と伝えると、ルナとトビアスをドイツへ亡命させた。その先で生き証人として訴え、ドイツで被害届を提出する。

「おしまいだ」

シェーファーは今度こそ、自分が築いたコロニアを離れ逃亡することに。大金を抱え、警護を連れ、アルゼンチンへと逃亡。ついに指名手配犯になる。

ドイツから戻ったルナは、捨て置かれてもなおシェーファーへの崇拝の火を絶やさない教団の信者たちから、嫌がらせを受けることに。しかし、近所の人々が守ってくれたという。

コロニアディグニダ 小児性犯罪の楽園
Aflo
1997年8月ドイツからサンティアゴに戻った際、警察に警護され移動するルナ。

2005年シェーファー逮捕

シェーファーはと言えば、わずかな教団信者たちとアルゼンチンで新しい”コロニア”の建設を計画し、7年間捜査を逃れていた。「『神のお告げがあった。私は捕まらない』と言い続けていた」と、警護担当者が語っている。チリ社会が彼の事件を忘れかけていた頃、弁護士H・フェルナンデスと仲間たちがついにシェーファーの居所を割り出し、隠しカメラで彼らの存在を暴いた。そのことで捜査は再び動き出し、ついに2005年3月アルゼンチンでシェーファーは逮捕されるのだ。すでに老いさらばえたシェーファーは、自力でまともに歩くことすらできなくなっていた。

「小児性愛者のけだものが、ついに報いを受ける」と、少年は喜んだ。

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Leader of secretive German colony in Chile arrested
Leader of secretive German colony in Chile arrested thumnail
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裁判でシェーファーには、性的虐待の罪で懲役20年が科された。2006年5月24日に、性的虐待の罪で20年の他、殺人と拷問の罪で13年の懲役を科す判決も出ている。しかし、それでも表に出てこない人権侵害がまだまだあるということなのか…ルナは「(残念なことに)非人道的行為つまり拷問の罪は裁かれなかった(※)」と悔しさをにじませている。

その頃、コロニアでは捜査当局は遺体を運び出していた。DINAに捕まった写真家とジャーナリストの遺体が車とともに発見された。

「あれは『セクト』だ。だから従わざるを得なかった。罪は犯していない」。そう信者たちは言い訳をした。「私は被害者だ」と主張する者すらいた。一方で、「捕まってよかった」と漏らす幹部も。「私は組織を重視しすぎて、人が見えていなかった」とある幹部は語る。 

※ この発言の「人道的罪」が指すところは、シェーファーへの判決は以下のようなものであることから、シェーファーが積極的にピノチェト政権と協力して、組織的に反政権の活動家を拉致および監禁、拷問、殺人していた行為について罪を償ってはいないという意味と受け取ることができる。

2006年5月判決 未成年者への性虐待20年
2006年8月判決
 未成年者への拷問及び強制的服薬3年、武器法違反7年(3年と記述されている資料も2件。この拷問3年は子どもたちに対するもの)
2008年11月判決 殺人で7年

小児性加害を数十年に渡って繰り返したカルト共同体コロニアディグニダの幹部、へルート・ホップがドイツに逃亡した際の家
Mathis Wienand//Getty Images
2017年、シェーファーの“右腕”の医師ハルトムート・ホップがドイツのクレーフェルトに移住(帰国)したことは、「ロイター」はじめ各メディアによって報道された。シェーファーを支えた教団幹部22人が性的虐待で有罪判決を受けたが、彼もそのうちのひとり。

現代でも組織の存続を重視し、労働者が虐待されても訴える人が出てこない企業体はいくらでもある。それと何ら変わらないこのセクトは、いますぐそこにある危機だ。どの国にも同じ闇-組織に加担する悪の凡庸さがあることを忘れてはならないだろう。

「人がうろたえるのを見るのは快感だ!」「私といると正気を失うぞ(笑)」

そう叫んだパウル・シェーファーというサイコパス。その呪(まじな)いの正体が判明してもなお、社会はその呪いから自由になれない。

小児性加害カルト コロニアディグニダとパウル・シェーファー
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――2010年4月24日、シェーファーはサンティアゴの刑務所病院で心不全のため88歳で死去。まだ30年近い刑期を残していた。

幹部や信者の子どもたちは親の罪に苦しむも、いまだ刑務所に入った親たちをずっと世話せざるを得ない状態に陥っている。教団を長きに渡り支援した政府の罪は大きい。「コロニア・ディグニダ」から「ビジャ・バビエラ」に改名した教団はなおも存続し、今でも教団内部の人々は、シェーファーへの尊敬の念を捨てきれていはいないようにも見える。

[了] 


Research: Miyuki Hosoya

【参考資料】

“The Torture Colony” The American Scholar, PHI BETA KAPPA by Bruce Falconer | September 1, 2008

Claudio R. Salinas, Hans Stange: Los amigos del „Dr.“ Schäfer: la complicidad entre el estado Chileno y Colonia Dignidad, Debate 2006, S. 51.
 
“German court rules Chile sect doctor should be jailed”
REUTER, Aug 16, 2017

20世紀最後の真実』落合信彦著(集英社刊) 初版:1980.10

"La mort au Chili de l'ex-nazi et pédophile Paul Schaefer" La Nouvel Obs by Cristina L'Homme, July 24, 2017

Colonia Dignidad: Eine deutsche Sekte in Chile(邦題:コロニア・ディグニダ: チリに隠された洗脳と拷問の楽園)』(2021)※Netflixにて配信中

Im Paradies』(2020)