パラスポーツ部門
陸上競技選手

山本 篤

 その日、彼は跳ぼうとしなかった。

 2008年北京、2016年リオ…2度のパラリンピック走り幅跳び(T42クラス)の銀メダリストである山本 篤。当然、彼は2020年東京に照準を合わせています。開催まで1年を切った現在、厳しい追い込みが続く時期のはず。ですがその日、拠点の大阪体育大学陸上競技場で見た彼の練習メニューは、あまりにもあっけないものでした…。

 30、60メートル走を各2回ずつ。その後は、トレーニングルームで体を調整するのみ…まったく跳びません。

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Makoto Ito
義肢装具士の資格を持つ山本は、専門知識を生かし自らの義足改良に積極的に関わる。取材の日は、完成したばかりの新型義足と従来の義足を一走ごとに交換して装着…その感触を確認していました。

 「跳ぶのは、予選大会や記録会の日のみ。東京の本番まで合計しても、4、5回でしょう。そこでの感覚と日々の走りの感覚を総合して、体と義足の調子を仕上げていきます。それが僕のトレーニングスタイルです」

 もちろん、走り幅跳びのパラリンピアンが、全員このような調整方法を取っているわけではありません。世界各国のライバルたちは、今この瞬間も、繰り返しフィールドを跳んでいます。そんな山本は、まさに“異端”のアスリートです。

 その人生を振り返れば、そもそも左足を失ったときの反応も異色でした。17歳の春、自らの不注意によりバイク事故を起こす…。その日までの山本はスポーツ万能。特に、スノーボードを得意としていました。

 そんな若者が足の切断を宣告されたですから、絶望に打ちひしがれるのが普通でしょう。しかし、彼が泣いたのは一度だけ。からりと現実を受け入れ、すぐに義足を使いこなすための厳しいリハビリに取り組みます。そして9カ月後には、ゲレンデでターンを決めていました。そこには、山本流のこんな論理があります…。

 「僕にとっては、悶々(もんもん)と悩んでいる状態が一番苦しい。前に進めば、そこから脱け出せるので…」

 そんな山本は2年後、20歳で陸上と出合い、世界のトップへと躍り出ます。業績はパラリンピックだけにとどまりません。世界大会2連覇、2016年には当時の世界記録を更新。37歳の今日まで輝かしい軌跡を描いてきた彼ですが、その間、パラスポーツ自体も大きく変化していました。いくつかの種目で、健常者を超える記録が生まれ始めたのです。山本とはクラスは異なるのですが、走り幅跳びもそのひとつです。

パラスポーツ 陸上競技選手
Makoto Ito
山本の母校であり、現在の練習拠点でもある大阪体育大学は、科学的トレーニング法で知られています。山本は同大大学院でスポーツ力学を専攻。人体構造、そしてさらに、スポーツで人体各部分にかかる力学をも熟知しています。母校の哲学と、こうした研究者としての視点が彼の現在の独自のトレーニング法を形づくっていると言えます。この日も通常通り、30、60mを2度全力疾走。その都度、タイムを確認したのみで、すぐさまフィールドを引き上げるのでした…。

 しかし、――そんな新たな潮流に異議を唱える人々がいます。これは本当に“世界記録”なのか。義足が有利に働いているのに違いなく、健常者と比較することは公平ではない――それが、彼らの主張だ。実際、健常者と障害者が同じ場で世界一を競う競技会は実現していないし、37歳の山本が現役でいられることも、義足の有利性の表れかもしれません。では、このような議論を、山本はどう見ているのでしょうか? 尋ねると、議論自体を面白がるように、彼はにやりと笑いながら言いました。

 「義足でも義手でも徹底的に改良して、パラアスリートはもっと行けるところまで行けばいい…」

 そう、パラアスリートはこれまで、身体機能のどこかが欠けたかわいそうな異端者として扱われてきました。しかし今、それ故にこそ、人類がまだ見たことのないスピード、距離を体現する、新しい異端者となるのです。

 義足や義手は、やがて憧れの対象にすら変わるかもしれません。その最もクールな異端者として、山本 篤は今、東京の空へと跳び上がる瞬間を待っています。


♢PROFILE
山本 篤
さん
…1982年、静岡県生まれ。高校2年時のバイク事故により、左足を大腿部で切断。義肢装具の専門学校に進学後、陸上を始める。大阪体育大学陸上部、スズキ浜松アスリートクラブに所属し、2008年北京パラリンピック銀メダル、13年・15年世界IPC大会金メダル、16年には世界記録を更新。同年のリオパラリンピックで再び銀メダルを獲得。現在は、客員准教授を務める母校の大阪体育大学を練習拠点に、プロパラアスリートとして活動する。

Photograph / Makoto Ito
Text / Maya Nishihata