数年前、私が新人のファッション編集者であったときのこと。私とそのチームは、デザイナーのショールームを訪問して彼らの最新の作品を見るために、年2回ほど数週間にわたる期間を費やしたものでした。
彼らが展示していたものの多くが(当然ながら)楽しさにあふれていたので、私たちは思わず賞賛の声をあげました。そんななかでも、わずかながらに私たちが「計り知れない成功を収めている」と、感じているブランドの品々が見ることができました(ここで、それらのブランド名を知らしめるという意味合いがあるのかもしれません)。
仕事熱心な広報アシスタントが最新コレクションを見せてくれたところ、言葉を失いました。そのような靴を製作して、それらが素晴らしいもの、または多くの人に履いてもらえるものとなるように考えることができるデザイナーさんが他にいらっしゃるのでしょうか? 私たちは本心を隠し、あまりにもお世辞っぽいと受け取られないような褒め言葉を探そうとしました。
数年にわたる実践を重ねた後で、私たちは目的にかなった言葉を思いつきました。私たちが使った、最もポピュラーな形容詞は"very brave"(非常に派手な)であり、本来ならば私たちが良いと感じるPR思考とは無関係のものです。私たちは、ゴールドスネークでエンボス加工され、特大のホワイトレザータッセルでバッチリ決められている色とりどりのワニ革靴を畏怖の念を持って見つめておりましたので、「非常に派手な」という言葉が合うように思われたのです。
賛否の分かれているアイテムの製作者に、直面したときにかなりの効果がある別のフレーズは、「おぉ、そのコレクションはまさに…あなた…そのものです」でした。温かい笑顔と固い握手で迎えてくれるようなデザイナーは、これを聞くと大体は満足気な表情をしているように見えました。
ところが、ファッションに対する褒め言葉は、いつでもどこでも通用するとは限りません。世界の一部分で理にかなっているものは、常に別の部分でもうまく合うように変換されるというわけではないのです。
英国出身の私の元同僚は、多くのアランニット、フローイング・ツイードコート、チャンキーシューズを呼び物としているイタリアの有力ブランドによるショーを見た後で、そのデザイナーの両頬にキスをし、コレクションは「まさしくバーナビー警部」(イギリスの刑事ドラマ)であったと上機嫌で彼に告げました。彼女がショーの内容について話そうとしたとき、デザイナーは少々困惑しているように見受けられました。「DVDを送っていただけますか?」 と彼は尋ねました。「是非とも視聴したいのです」、と加えて…。
彼女が送った、老婦人が木造階段の下の方で死体となって発見された事件を含む、無限の謎を解決するトム・バーナビー警部のボックスセットについて有力なファッションハウスがどのような判断を下すのか、との疑問を抱く彼女にとって苦悩の数週間は続きました。
私がこれに言及する理由ですが、"brave"(派手な)という単語は(先に説明したように)一見誉めているようで、実はけなしている言葉であるかもしれないのです。衣服に関する内容の場合、Brave(派手な)は何らかの大きな称賛に値するものを表す一方で、何らかのひどく不愉快なものを表すこともあります。
例えば、誰かがダンディに着こなす場合と、最悪な着こなしをする場合との間には、微妙な境界線があるのです。1960年代から1970年代にかけて、ボヘミアンセットを撮影したデイヴィッド・ホックニーの元恋人であるアーティストの、ピーター・シュレシンジャーによる写真本を読んでいる間、私は彼が1970年に撮影した、ウィルトシャー州にあるセシル・ビートンの温室でセシル・ビートンと共に座っているホックニーの写真に心打たれました。脱色された特徴的な髪の毛の持ち主であるホックニーは籐椅子(とういす)に座っています。
また、特大の丸眼鏡をかけ、ビッグベビーブルーとブラウンのウィンドウ・ペイン・チェック柄パステルピンク・ツイードスーツ、大きなピンクの斑点を持つブラウンの絹ネクタイの他、片方に赤レンガ色の靴下、もう片方にエメラルドグリーンの靴下を着用しています。
一方でビートンは、贅沢そうに結び付けられているライムグリーンの絹ネクタイとペアリングされたニットチョッキ、マッチング靴下、モスグリーンのコーデュロイスーツを身にまとっており、すべてがつばの広いブラウンのフェドーラでバッチリ決まっていました。二人とも何て素晴らしく見えるのだろうと思いました。
でも本日、私の衣装がそれらのうちのいずれかであった場合には、私の友人からのコメントを想像してみてください。実際、ミスマッチングの靴下しか選んでいなかった場合は、皮肉コメントを想像してくださいね。誰もが、それを早期発症の認知症のせいにするかもしれませんが。
私は、服を着るということが派手で称賛に値するものとなっているのは、巧妙に考えられているというよりは、心から感じられるものがあるからだと思います。個性に代わるものというよりは、個性の一部なのです。原因というよりは症状なのです。
ホックニーの色、形、慣例破りに対する愛は、彼の作品、性生活、それに何と言ってもワードローブにおいて表現されました。彼の服装は人目を引くにもかかわらず、彼が自らの靴下の色によらずして人々を初めて感動させた1人のアーティストとして成功を収めたのは、部屋に足を踏み入れたときでした。
不思議なことに、(ヒルトン・アルスがシュレシンジャーの本の序文に書いているとおり)彼の写真が今日以上に撮影されていたときは、世界ははるかにオープンな場所でした。1970年には、ミスマッチな虹色のきらびやかな服装で1杯のミルクを買いに行くのにも、それほど派手さを抑える必要はありませんでした。
2016年には、フィレンツェやファッションショーのテントに住んでいない限り、あまりにも風変わりな服装では少しばかり気後れしてしまうかもしれません。エスクァイアチームの誰かが、やって来ている場面に出くわすことだってあるかもしれないですね。そうなれば、どの程度派手に見えるか教えてもらえますよ。
Source / ESQUIRE US
Translation / Spring Hill, MEN'S +
※この翻訳は抄訳です。