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米国における黒人に対する暴力と組織的人種差別は、長く深い歴史があります。2013年に生まれた人種差別運動を示す合言葉「ブラック・ライブズ・マター(Black Lives Matter=BLM)」は、2020年に世界的に広がっていきました。そのきっかけとなったのが、2020年5月にジョージ・フロイドさんが警察暴力により亡くなった事件です。当時の状況が映された動画はSNSで拡散され、フロイドさんの名前はBLMと同義語と捉えられるほど広く知られていきました。

事件から約2年後の2022年5月17日、ロバート・サミュエルズとトルーズ・オロルニパによって書かれたジョージ・フロイドさんの伝記『His Name is George Floyd: One Man's Life and Struggle for Racial Justice』が発売されることになりました。

以下では、この新著を読んだ『エスクァイア』US版のシニアカルチャーエディター、ダリル・ロバートソンが、自身の経験とともに感じたことをお話していきます。


私の生い立ち

拳の使い方を覚えるまでは、頬を殴られても耐えていました。小さな男の子から大きな石をぶつけられ、縫わなければならないほど深い傷を目に負ったこともあります。これは、私(『エスクァイア』US版のシニアカルチャーエディター、ダリル・ロバートソン)が幼稚園に入る前のことです。学校に通い始めると、私は意見の相違を解決するために暴力を使うようになりました。すぐに私の行動は「異常」だと判断されました。2年生になる前にはコロンバス公立学校から追い出され、セント・ヴィンセント・チルドレンズセンターという、学習や行動、心理状態に問題のある子どもたちを専門に扱う学校に送られたのです。

セント・ヴィンセントにいた2人の黒人教師の1人、オズボーン先生は初めて私に愛を感じさせてくれた女性でした。先生は私のことを優秀で美しい子だと言い、他の先生に私の勉強熱心なところを自慢していました。私は彼女の言葉を信じるだけでなく、彼女の期待に応えたいと思いました。そしてもう一人、ジョンソン先生も私のお気に入りの先生でした。オズボーン先生と同じように、ジョンソン先生も私の本好きを褒めてくれました。

セント・ヴィンセントで過ごした学校生活の中で、特別に覚えているシーンの記憶はありません。ただ、そこで覚えているのは感触…オズボーン先生の愛です。そして、ジョンソン先生の文化に適した教え方がとても印象的に覚えています。

ある日、ジョンソン先生に「首からぶら下がっているペンダントの中にいる赤ら顔の男性は誰ですか?」と訊くと、「黒人解放運動指導者のマルコム・Xだ」と教えてくれました。また、リビングストン・アベニューにある黒人経営の書店にも連れて行ってくれました。そこで近所の大きな子どもたちが、オハイオ州フランクリン郡にある重罪犯の少年を収容する刑務所「T.I.C.O.」での生活について話しているのを聞いて、そんな不安とは正反対の中で暮らしている自分を再確認もできました。

そうして本屋の中を歩き回り、ページをめくりながら、その本に登場する重要そうに扱われている黒人たちは誰なのか? 不思議に思っていたものです。ですが、それについてはあまり質問しませんでした。その代わり、ジョンソン先生が聴いていたヒップホップについてはよく質問していましたね。彼はアイス・キューブ、ア・トライブ・コールド・クエスト、パブリック・エナミーをよく聴いていました。薬物乱用やそのほかの犯罪、そして私の住む地域に蔓延する貧困などの社会問題に関して、ヒップホップを使って7歳の子どもにもわかるように話してくれていたのです。

5年生のとき、私はセント・ヴィンセント・チルドレンズセンターを離れ、公立学校の補習クラスに入りました。ここでは、先生ともカリキュラムともつながりを見出すこともできず、自分が透明な存在になったように感じました。家庭生活も改善されませんでした。学校にはほとんど行かず、グループホームか、フランクリン郡矯正施設で暮らしていました。

また、軽犯罪で拘置所に入ったことも…。喧嘩に乗ってこない男の家の窓ガラスを割ったり、友人と一緒にショッピングモールでバスケットボールのジャージを盗んで捕まったこともあったのです。結局、ミシシッピ州のローレルの祖母の家に引っ越したのですが、彼女の年齢で私を見張るには無理がありました。その後、私は学校を中退し、麻薬の売人になりました。クラック(煙草で吸引できる状態にしたコカインの塊)中毒で苦しんでいた知り合いの大人がいて、私を見守りながら薬を売りさばく商売のイロハを教えてくれたのです。


ジョージ・フロイドにとってのフットボールは
私にとっての読書だった

私が売人になる何十年も前に、ジョージ・フロイドはノースカロライナ州フェイエットビルで生まれ、やがてテキサス州ヒューストンに引っ越しました。私たちの人生は、いろいろな意味で平行線をたどっています。

彼がジャック・イエーツ高校で受けた教育は、彼をしくじらせます。この高校はフットボールの名門校として知られ、フロイドもスター選手として活躍はしていました。ですが、老朽化した施設、時代遅れの教科書、人種差別の名残に悩まされていたのです。ロバート・サミュエルズとトゥルーズ・オロルニパの著書『His Name is George Floyd: One Man's Life and Struggle for Racial Justice』によると、ある教師はフロイドに対し、「教室の後ろに座って黙っていれば合格点をやる」と言ったそうです。

His Name Is George Floyd: One man’s life and the struggle for racial justice

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文化に合った教育を受けていない多くの黒人と同様にフロイドは、「フットボールでの自分の才能こそ、家族が貧困から抜け出すための方法だ」と考えていました。そんなわけで、バスケットボールのコートやフットボールのフィールドでは優秀だったフロイドですが勉学は苦手だったのです。

そんなフロイドに、イェーツ(高校)やスポーツの枠を超えて考えるよう促したのが、バーサ・ディンキンスという教師でした。彼女はフロイドのことを、勉強に苦労している賢い子だと判断していたようです。しかしながら、ディンキンス先生の励ましは、フロイドがイェーツや自分の住むキュニーホームズ公営住宅で夢見たものとは矛盾していました。ヒューストンの第3区で貧困から抜け出している多くの人たちは、勉強ではなく、フットボールのエリートとして活躍できているおかげだったからです。イェーツからNFLに行った選手もいました。しかしながら、そんなフットボール選手たちには高校卒業に必要な標準テストに合格する生徒はほとんどおらず、当のフロイドも、クラスを卒業できませんでした。

私は、ブラックカルチャーが人生の教科書だった

そしてフロイドは、命を落としました。その一方で、私は生きています。しばしば私は、「なぜいま生きているのか?」とよく考えます。それは、私が読書への愛に出会ったからです。そのとき、われわれの物語を分岐点を迎えたのです。皮肉なことですが、私は本や言葉を愛するために、学校を中退したのです。そうして現在、私は『ESQUIRE(エスクァイア)』誌のシニア・カルチャー・エディターとなり、コロンビア大学における「JUSTICE-IN-EDUCATION SCHOLARS PROGRAM」(他の大学やコミュニティベースの組織と協力して、キャンパス、地元の刑務所、およびライカーズ島の刑務所でコース、ワークショップ、創造的なプロジェクトを実施している)の一員となっています。

このような肩書きや学歴があったとしても、人種的暴力から免れることはできません。ですが、このような立場になった私には、新たな役割を見出しています。それは、「私もジョージ・フロイドと同じであり、さらにジョージ・フロイドのような人間が世界中に実在していることを世に示さなくては」と思っています。そして自分たちのために、新たな人生を切り開くという夢の実現を目指しているのです。

私にとっての大きな変化は、ナズ、ウータン・クラン、ジェイ・Z、ジェイ・エレクトロニカなどの知性を取り入れることによってもたらされました。彼らの言葉は、私自身も気づいていなかった自己教訓主義の波を私の中に引き起こしてくれたのです。

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フロイドと私…二人の生活は非常に似ていました。 最大の違いは、私は夢を実現させることができたということです。一方フロイドは、その過程で殺害されることになったのです。

同級生たちが高校を卒業し、大学や軍隊に入ったり、ローレルの鶏肉工場に就職する頃、私はクラック密売所で働くことから卒業するも、数グラムのクラックを売るようになっていました。大きな塊を抱えて手売りすることはなくなり、街角の麻薬常習者たちに小分けで売っていたわけです。その頃は暴力、警察の嫌がらせ、商売への意識、絶望感、そして幼少期のトラウマとが重なり、私自身もコカインを使用するようにもなっていました。

しかしその一方で、ヒップホップやヒップホップ雑誌に登場する歴史的かつ社会的なコンテンツにも夢中になっていたのです。ヒップホップが私を読書家にしたと言っていいでしょう。ウータン・クランのRZAの愛読書は、『The Good Earth』『The Art of Peace』『The Bible』『Holy Qur'an』だと聴き、自分も読みたいと思いました。

ナズはラングストン・ヒューズ、クラレンス13X、ヒューイ・P・ニュートンなどのことをラップしていたので、彼らの書いた本や彼らについて書かれた本を買うようになりました。そうしてヒップホップ、ヒップホップ雑誌、そしてストリートが、高校中退後の私の教室になったのです。


新著に綴られたジョージ・フロイドの人生

フロイドは学業の不振により、ディビジョン1のフットボールで活躍するという夢を実現することができませんでした。サウス・フロリダ・コミュニティ・カレッジで、バスケットボールの奨学金を得ることはできました。ですが、ここでも学業面でその後苦労します。奨学金を受け続けるためには、溶接や自動車修理などの職業訓練を受けなければなりませんでした。その後、フットボールをするためにテキサスA&Mキングスビル校に転校します。

しかし、サウス・フロリダで取得した職業科目の単位の多くが移行されず、数学や英語といった基本的な科目を受けなければなりませんでした。すると、あまりに成績が悪いので補習授業が課せられ、フットボールの試合に出る資格も失ってしまいます。

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フロイドは無視され続けた自身のポートフォリオから、何か意味のあるものを作成しようという試みを決してあきらめることなく続けていたのです。

高校時代に住んでいたキュニーホームズ公営住宅の実家では、フロイドの母親は娘の子どもの子育てを一手に引き受けていました。そのストレスから母親は、高血圧症になり、脳卒中も起こします。その頃、テキサスA&Mキングスビル校のフロイドは月日が経つにつれ、自身が「グラウンドで活躍する日は来ることがない」と気づくのです。落ち込んだフロイドは、教育も不十分なまま、母の健康状態を気遣ってヒューストンの第3区へと戻り、そこで苦労を重ねることになります。

私の人生でもっとも暗い過去

フロイドが軽度の薬物犯罪と加重強盗で短期間の服役を繰り返している頃、私はストリートでの暮らしが終わりに近づいていることを感じていました。その頃の私は、ヘロインをルイビルからローレルへと運び、クラックを2週間ごとにジャスパー郡からミシシッピ州ジョーンズ郡へ600グラム近く密売していたのです。そして、そのライフスタイルに疲弊していたのです。ルイビルへ行ったある日、私の目から涙がこぼれ落ちました。私は、自らの新しい人生を切り開きたかったのです。そして自分が刑務所に入るか、殺されるか、重傷を負うか、自分を守るために誰かを傷つけることになるのでは? と、不思議な予感もありました。

その数カ月間、私はドラッグの世界から抜け出す方法を考えぬきました。ディープサウスのストリートカルチャーや音楽を取り上げる雑誌、『The Diary』を創刊しようともしました。ですが、何度か取材をした後で特集記事の書き方について何も知らないことに気づいたのです。そこで、ヒップホップの名言や読んでいた本からの引用をプリントしたシャツやパーカーを売ろうとしたのですが、これもうまくいきませんでした。

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フロイドは亡くなりましたが、その一方で私自身はいま生きている…。そのことをしばしば考えます。

“死”と“刑務所”に対する私の感慨は深く、それは祖母から「お前が死ぬ悪夢を見るようになった」と聞かされたためでもあります。高速道路59号線のカーブを曲がる長距離バスの重力に身を任せながら、その窓から外を見つめては私は涙を流し、敗北感を感じながらうなだれました。

そのときの膝の上には、カーター・G・ウッドソンの『The Mis-Education of the Negro』とXXL誌、そしてノートが置かれていました。そして、「このボケ、お前はヒップホップ雑誌と歴史書も好きなんだから、大学で歴史とジャーナリズムを学べばいいじゃないか」と気づくのです。

ですが、それから1週間ほどして私は、ミシシッピ州の高速道路で100グラム強のヘロインを所持しているところを逮捕されます。21歳の私は刑務所行きとなり、5年の刑期で4年近く服役することになります。


私の人生はジョージ・フロイドと紙一重だった

それでは、カレンダーを現在に戻しましょう。

フロイドの命日の1週間前に、私は『His Name is George Floyd』を読み終えました。読んでいる間、自分が仲間たちと街角に立ちながら太陽の光を浴びているような感覚を得ました。

それは、キュニーホームズの中庭で仲間たちと一緒に過ごすフロイドの輝く顔にも、降り注いでいた光です。仲間たちが笑い、冗談を言い、前の晩の話をするときの、不ぞろいな歯並びが目に浮かびます。クラックを買っていく、私たちが心から気にかけていた中毒者たちの、汗の粒、ボロボロの服、黄疸(おうだん)の出た目、汚れた歯も見えるようでした。取引していた中堅の麻薬少年たちの真剣なまなざし、新品の服、細部にまでこだわった車も見えました。大きな目と満面の笑みで、「いつかドラッグを売らなくても生活できる日が来るだろう」と語る友人たちの南部訛りの声が聴こえました。

しかし、その笑顔の裏をよく見れば、私たちが望む前途有望な未来など誰にも待ち受けていないことを知る苦しみも隠されていることに気づきます。『His Name is George Floyd』を読んだときに私は、人を撃ったり刺したことのある男たちと交わしたときの絶望感や、「自分の人生が違っていたら…」と考えたときの感覚がよみがえりました。

私自身、フロイドと何ら変わりはないことに改めて気づいたのです。

私もフロイドと同じように中毒と闘い、愛する人が中毒と闘うのを見守り、そして麻薬の売人でもありました。そして、刑務所に入ったこともあるのです。私もフロイドと同じように、自分の望む人生を想像し続けました。殺されるその日まで、フロイドはトラック運転手になる計画を実行に移していたのです。高速道路で逮捕されたときの私も、自分の人生をより良くするための計画を実行してた最中だったのです…。

フロイドの人生は、「成功とはどのようなものか」を謙虚に教えてくれるものです。フロイドの死から、痛みだけに満ちた人生を見るのはとても簡単です。ですが、フロイドが成功したのは、「与えられた粗末な素材から意味あるものを生み出そうとする、決してあきらめることのない姿勢」…それを維持することです。私と同じように彼は、自分の膝を見つめ、世界の限界を超えたところにある自分の未来を見ていたのです。私は確かに、独学でより良い人生を切り開く方法を考え出しました。しかし私の成功がここにあるのは、夢を実行しようとしたときにデレク・ショービン(ジョージ・フロイドを殺害した元警察官)のような人物に出会わなかったから…ただそれだけなのかもしれません。

私はジャーナリズムを、フロイドはトラックを運転することを夢見ていました。私たちの人生は、驚くほど似ています。最大の違いは、私は自分の夢を実行することを(運よく)許されたことです。そしてフロイドは、その実行の途中で命を奪われたのです。

Source / ESQUIRE US
Translation / Yuka Ogasawara
※この翻訳は抄訳です。