イタリア・ミラノ出身のブガッティ家。父カルロと、その息子エットーレがドイツとの国境の町フランス・モルスハイムの工場を買い取り、一族の名を冠した自動車の生産を開始したのは1909年のことでした。

ベントレーやロールス・ロイスに対抗すべく、世界で最も速く、最も美しい車を目指して生み出されたブガッティはやがてその速さと美しさにより、高級車の代名詞として名を馳せていくことになります。

広告宣伝とマーケティング、さらにはプロモーション映像などを誰よりも早く活用し、自社の車の繊細な仕上がりとレースにおける成功を広くアピールすることでブランドの地位を着々と積み上げていったのです。

image
BUGATTI AUTOMOBILES
在りし日のシャトー。まるでブランドに忠誠を誓うかのように、数台ものブガッティが並びます。

そして創業者エットーレ・ブガッティ氏(1881-1947)は1928年、貴族や新たに誕生した富裕層を意識し、自社工場に隣接する19世紀半ばに建てられたシャトー(城)の購入に踏み切りました。シャトーを拠点に投資家らをもてなし、華やかな晩餐会や趣向を凝らした催しを開いては、新たな顧客を取り込みながら新車のアイデアを生み出していきました。また当時、完成した車両の引き渡しもこの城で行われ、過去数十年にわたって納車の儀式が施行された伝統の地でもあります。

「暖房付きのガレージを持たない人の自家用車が寒波で動かなくなり、仕方なくタクシーで乗りつけて来たというエピソードがあります。エットーレは、その人物に車を売ろうとはしませんでした。『暖房付きのガレージが持てないようなら、ブガッティを買う余裕もないだろう』、そんな言葉でその人物をあしらったそうです」

…そんなかつての逸話を披露してくれたのは、車鑑定士としてブガッティの歴史資料の管理を任されているルイジ・ガリ氏。彼は、今回の私たち(この原稿の著者であるブレット・バーク氏ら一行)のシャトー取材に同行してくれる案内役です。

歴史と伝統を誇るシャトーですが、その役割は「今日においても変わることがない」と言っていいでしょう。敷地内では同ブランドのクラブメンバーによる会合が開かれ、アニバーサリーの祝賀会なども催されています。シャトーを舞台に購入希望者とデザイナーがミーティングを行い、数億円という単位のハイパーカーの仕様や設計に関する協議を重ね、そして最後に納車に至るというわけです。

image
BUGATTI AUTOMOBILES
大きな絵画が掛けられたシャトー内のスペース。晩餐会や昼食会など、かつても上流階級のサロンのように利用されていました。

プライベートな昼食会や晩餐会も、かつてと変わることなく現在も催されています。ですが、金銭に関わるやりとりの大部分はこのシャトーではなく、別の場所で進められています。

「ここは顧客とディーラーが出会い、関係を深めるための場です」とガリ氏。「当方のディーラーとしても、購入希望者が果たしてその資格を有する人物であるか否か(このシャトーに招待すべきかどうか?)を事前に見極めなければならないからです」

シャトーからモルスハイム市街まではそれなりに距離があるという点は、昔も今も変わることはありません。かつてこの地を訪れた顧客たちはそのままシャトーの一室で、ブガッティ一族の手によってデザインされた豪華な家具に囲まれながら一夜を過ごすことも珍しくありませんでした(ブガッティの一族には、高級家具のデザイナーもいるのです)。

image
MICHAEL SHAFFER
現在のシャトーの一角は、ブランドの歴史を彩る展示品が並べられています。
image
MICHAEL SHAFFER
シャトーのエントランスへつづく階段には、さりげなくブガッティのエンブレムがあしらわれていました。

しかしながら今日では、状況が少し変わってしまいました。現在のシャトーには、宿泊施設は用意されていません。1階の大広間ほどのスペースには、同社の歴史を彩る展示品の数々が展示されています。そして2階には、営業や分析統計などを司る部門とともに、資産管理を行うヘリテージチームがオフィスを構えています。

城内では、ブガッティ・ホームコレクションの数々の純正アイテムやカシミアのブランケット、そして重厚な革張りの椅子、アロマキャンドルなどが目をひきます。そんな中、ヨーロッパを襲う猛暑対策としてのポータブルエアコンや、30万ドル(約4900万円)は下らないであろうフランス製ウィスキーのボトルなどなど、ブガッティ・ホームコレクションとは無関係なものもいくつか見受けられました。

あくまでも一時的なレイアウトに過ぎないのでしょうが、現在では顧客層のための宿泊施設とはなっておらず、またその必要もないという事実を反映した情景と言えるでしょう。

「今日では当社の顧客も皆多忙を極めており、ジェット機でストラスブール空港まで飛んできたり、ヘリコプターでこの敷地内のヘリポートに着陸するようになりました。ヘリコプターで乗りつけていらっしゃるときには、かなりの騒音になります。ですが、そういうことには慣れてしまうものですね」と、ガリ氏は笑います。

来訪客の多くが朝9時頃に、運転手付きの車で城内に乗り入れてきます。そしてブガッティの試乗を楽しみ、コンフィギュレーション(※1)ルームでデザイナーとの打ち合わせに没頭し、それから改修の施された歴史ある別邸での昼食を楽しみます。そして4~5時間の後、彼らはこのシャトーを去ってゆくのです。

※1 クルマのパーツを自由に選んで取り換えたり、異なる車種にパーツが装備できるようにすること。

名門としての矜持は至る所に…

今回、私はモルスハイムの近隣でブラックとキャメルのツートンカラーの「シロン・スーパースポーツ」を試乗させてもらうことになりました。ブガッティを購入しようというほどの人々であれば、他にも異次元の車を何台も所有しているものです。が、「シロン」のようなとてつもないパワーを誇る車で公道に乗り出すことに馴れているという人は、そうそう多くありません。

そんな理由から、試乗にはプロのドライバーが必ず同乗することになっています。今回、同乗者として助手席に座ったのはル・マン、デイトナ、セブリングでの優勝経験のあるアンディ・ウォレス氏です。

そしてこの車を、ブドウ畑やプラタナスの並木道に囲まれた田園地帯で走らせます。「ついついスピードを出し過ぎてしまう人は、そう珍しくありません。サーキットではむしろ、スピードを出すことを躊躇(ちゅうちょ)してしまうものですが…」と言って、ウォレス氏は笑います。気持ちは理解できます。滑走路のボーイング777でさえ遅く感じられてしまうほど、「シロン・スーパースポーツ」の性能はすでに車としてのロジックを超越したものと言えるのです。

image
ENES KUCEVIC PHOTOGRAPHY
シャトーの展示スペースでは、歴代の名車たちがひっそりと息をしていました。

城内に目を移せば、ブガッティのヘリテージコレクションが荘厳でありながら圧巻のラインナップで展示されています。その中には、クラシックなフレンチブルーで塗装された小型の「タイプ35」のレース仕様車や、防弾窓を備えて12.3リッター直列8気筒エンジンを積んだツートンカラーの「タイプ41(通称:ロワイヤル)」、そしてスーパーチャージャー付きのダークブルーのレース用「タイプ51」、さらには1931年につくられ、エットーレ・ブガッティが工場の見回りに使っていた小型の電気自動車「タイプ56」のワンオフモデルも含まれています。

当時のブガッティの工場は、シャトーからわずか1000フィート(約300メートル)の距離にありますが、現在では航空産業用の部品を製造する企業の手に渡っています。1998年にフォルクスワーゲンがブガッティを買収した際、シャトーの敷地内に最新の設備を持った工房(アトリエ)を建設しました。

訪れた顧客たちはこの静寂に包まれた簡素で明るいアトリエに立ち寄り、自分の注文した車両、そして他の口うるさい顧客たちの注文に応じてつくられている車両の組み立てがどこまで進んでいるのか? それを目の当たりにするのです。「ここで行われているのは製造ではなく、あくまでも組み立てに過ぎないのですが…」と、案内役のウォレス氏が解説を加えてくれました。

image
BUGATTI AUTOMOBILES
当時の工房の様子。最新機械を取りそろえ、充実した環境を誇りました。
image
MICHAEL SHAFFER

フィンランド製のガラス部品、オーストリア産のレザー、3Dプリントのチタンパーツなど、あらゆる部品が最高級で希少なものばかりです。さらにその組立て工程における基準からのバラツキ許容量である“組み立て公差”も非常に厳しい値であるため、慎重を極める各部門の作業担当者は皆、Bluetoothでつながれたツールでモニタリングしています。

よって、トルク設定からそのユーザー名もクラウドにアップロードされるため、例えば時速 250 マイル(400キロ超)でエキゾーストハンガー(排気管をボディから吊して固定するもの)が緩んだあり外れた場合には、ブガッティ側はその原因がどこにあるのか? 責任者が誰であるのか? 即座に把握できるようになっているわけです。

するとウォレス氏は、こう言って笑いを誘います。「顧客は訪問した際には、(記念として車に)ネジを入れることができます…。ですが、その方がシャトーを去ったあとすぐに私たちは、それを元に戻して適切な値になるよう入れ直しています」と、秘密を明かしてくれました。

度重なる悲劇を乗り越え、復活を果たしてきました

シャトーとその近隣が、ずっとこのように平穏な情景であったというわけではありません。1940年にはナチスのフランス侵攻に際し、真っ先に陥落したのがこのアルザス地方でした。ブガッティの城とその工場施設もドイツ軍によって占拠され、ここで武器などが生産されていたのです。よって…「兵器の製造のために、多くの貴重な車が取り壊されました」とガリ氏は振り返ります。

そしてブガッティ一族は、この地を逃れパリに亡命します。しかしながらガリ氏によれば、エットーレ・ブガッティはイタリア国籍を手放すことを拒みます。そんな中、自社工場はドイツ軍によって兵器製造に使われたということで、戦後エット―レはフランスから「敵方である枢軸国の協力者」として起訴されたそうです。これが真実であるかは確認できませんが、何年にもわたる法的努力の後、彼は最終的に免罪されたそうです。そして 彼はその直後、亡くなったそうです。

image
ENES KUCEVIC PHOTOGRAPHY

そうして戦後になり、エットーレの遺志を継いだ人々が車の開発を再開します。しかながら、その努力も虚しく1957年にはあえなく倒産としてしまいます。無残な姿に変わり果てた施設を手中に収めたのは、イスパノ・スイザ社(※編集注:スペインやフランスで高級自動車や航空エンジンの設計と生産を手がけ、関連して兵器も開発。現在はフランスのサフラングループの傘下)でした…が、同社も間もなく消滅しています。

そして城主不在となったこのシャトーの管理費用を負担する者は現れず、土地ごと地元の自治体に委ねられることとなったのです。「村の所有地となりましたが、結果は完全な廃墟化でした。ホームレスの人たちのねぐらになっていたほどです」と、ガリ氏は言います。

ブガッティブランドを買収したフォルクスワーゲンが、このシャトーを買い戻したときには床さえ抜け落ちた状態だったそうです。その後のリノベーションにより、現在の姿に復活を遂げることとなります。

近年になってクロアチアの電動スーパーカーの新興企業リマックが、ブガッティの株式を一部取得しています。クロアチア・ザグレブの郊外には、ブガッティとリマックの合弁による生産工場、そしてモダンなキャンパスが建設されている最中です。

その敷地内にもシャトーがあるのは、ただの偶然でしょうか…。エットーレのオリジナルコンセプト、そして本家ブガッティ・ブランドの現代的なコンセプトに基づき、その城もまた顧客用の施設として改築されることが決まっています。

こうしてこれまでモルスハイムにある展示品やコレクションは、クロアチアへと移されるのでしょうか? そこで最後、ガリ氏に「バッテリー駆動の新たな共同オーナーの側に移管される可能性」について尋ねてみました。

すると彼は、大量のレモン果汁を飲んでしまったマンガのキャラクターかのように、表情を歪めます。そして、「ブガッティはモルスハイムと共にあります。それは未来永劫、変わることがありません」と言います。

Source / Road & Track
Translation / Kazuki Kimura
※この翻訳は抄訳です