1967年の冬、外国産の小型車の一群がアメリカ中西部の雪原を這(は)うようにして進んでいました。広大な平野を吹きさらす冷たい吹雪を浴びながら、野望の種をはらんだ車は肥沃な大地を求め、前進を続けます。凍てついた原野は、今は休眠状態です。しかし、すぐに春は訪れ、また新たな実りの季節を迎えます。収穫のときは必ず訪れるのです。

隊列を組んで雪原を行くのはホンダ車、より詳しく言えば600ccの2気筒エンジンを積んだ「N360」です。砂型鋳造でつくられたパーツで組み立てられた、45馬力の小さなホットロッドでした。それはまるで、空気のような軽さです。

今回のコラムで、まずご登場願うのはボブ・ハンセンさんです。彼はアメリカン・ホンダ・モーターの設立当初からのメンバーであり、ホンダ創業者の本田宗一郎氏とも親交があった人物。オートバイロードレースのホンダチーム監督時代に本田宗一郎氏からアドバイスを求められ、そのままそのアイデアを採用され誕生したのが、あの画期的な4気筒エンジンのオートバイ「CB750」です。

さらに、このハンセンさんの意見が日本の本社経営陣に伝わった結果、あの「N600」のアメリカ市場への投入が決定されたという逸話もあります。ホンダが初めてアメリカ市場に投入した自動車となった「N600」ですが、驚くべきはこのときのシリアルナンバー「1」を付けた小さな車がいまだに現存しているという事実です。

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BRENDAN MCALEER

その第1号車が種となり、オハイオ州のど真ん中に200エーカー(約81万平方メートル)を超える工業地帯が広がっていきました。400万平方フィート(約37万平方メートル)の工場が建設され、そこでエンジンとトランスミッション、ボディやドアなどのパーツが生産されました。日本に輸出できるほど高品質の「アコード」も、この工場でつくられたのです。

プロトタイプとなった初期型「N600」がアメリカの大地を走り回るようになって約50年の歳月が過ぎた頃、ここオハイオ州でスーパーカーの最初の1台となる車両の生産が始まりました。その車こそ2代目となる「NSX」です。しかしその生産にも、いよいよ終了のときがやってきました。

ホンダのパフォーマンス・マニュファクチャリング・センター(PMC)が置かれているのはオハイオ州のメアリーズビル工場から西へ1マイル(約1.6キロ)、同州の大都市コロンバスから1時間ほどの場所です。ホンダパークウェイを挟んだその向こう側には、当然のように果てしないトウモロコシ畑が広がっています。このあたりでは当たり前の風景です。

PMCはホンダが誇る工場であり、同時にショーケースの役割も担っています。入ってすぐの所には、マシンの組み立てをその目で見たいというNSXオーナーのための特別駐車場も用意されています。小さなロビーには「NSX」の新旧モデルと並んで、ザナルディのCART(Championship Auto Racing Teams:アメリカ合衆国を中心として開催される独自のフォーミュラカーレースで、2003年に経営破綻)2冠達成を記念してつくられた貴重なオリジナルカー「NSX アレックス・ザナルディ・エディション」なども展示されており、厳重に警備されています。

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「NSX アレックス・ザナルディ・エディション」の背後のすりガラス製のスライドドアの向こう側が、いよいよファクトリーの敷地です。漢字の「夢」の一文字があしらわれたドアが開けば、そこには広々と開放的な空間が、ドラマチックに立ち現れます。施設そのものが目に見えるインパクトと言えますが、今回はそのような「場」の話ではなく「人」に焦点を当てたいと思います。

ここメアリーズビルではおよそ100名の人々が働いていますが、彼らが身に着けているのは1979年当時の従業員たちが着ていたのと変わらないユニフォームです。上着のボタンは車体の塗装を傷つけることのないよう、布製フラップの裏側に収まるつくりになっており、胸ポケットには個々の従業員のファーストネームが刺しゅうされたワッペンが付けられています。

ここで働く100人はいずれもホンダの北米部門、アメリカン・ホンダモーターの他のセクションからの出向者であり、またその大半が勤続25年以上の経験豊富なベテランたちです。高度な技術を獲得した人々を対象に募集されますが、抽選で選ばれる人もいます。アメリカ製「NSX」の第1号車の当時から組み立てチームに加わっているジェニー・プーティーさんに、PMCへの志望動機を訊ねてみました。

彼女はこの工場から30マイル(約48キロ)ほど離れたデグラフという、人口1400人の小さな町の出身。生まれも育ちもオハイオ州で、レース好きの家族に囲まれています。「息子はストックカーに乗っていますし、孫はまだ4歳のときからゴーカートに夢中なの」と、プーティーさんは目を細めます。PMCにはユニークなプログラムがあり、従業員には「NSX」を自宅まで持ち帰ることが許可されます。つまり彼女の家族は皆、「NSX」に乗ったことがあるのです。「デグラフの住人、一人残らずみんな乗せてやったんだろ?」と、別のエンジニアが冗談を飛ばしながら通り過ぎます。

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レース場での試乗やPMCの従業員オリジナルの公道コースなどを使って、従業員たちのほとんどが実際に「NSX」を体験しています。これは、他の工場ではほぼあり得ないことでしょう。

以前、ケンタッキー州にあるGMのパフォーマンス部門のエンジン開発責任者にインタビューをしたときのことを思い出します。彼は「CT5-V」を試乗した後、実際にそのエンジンを組んだ担当技術者に電話をかけて「おまえ、自分が一体ここで何をつくってるのかを知ったら、ぶったまげるぞ」と、言ってやったのだと笑っていました。

PMCのテクニシャン(整備士)なら、自分たちが何をつくっているのかを間違いなく知っています。プーティーさんの家族はみんな、「NSX」がこの工場で彼女たちの手によってつくられている事実を誇らしく思っていると言います。仕事の成果をプロセスごと共有することで、家族の中にもオーナーシップのような感情が芽生えているのです。

当然のことながら、アキュラ自体もこのPMCのショーケースには大きな誇りを持っています。塗装部門を中心にハイテク技術を駆使した工場ですが、生産性ばかりを追求する他の工場と大きく異なるのは、1台1台にかける人手の多さと時間の長さです。エンジンマウントのボルトが適切に締められているかどうかを把握し、記録するためにはワイヤレス通信機能付きのトルクレンチが使われており、またウェザーストリップは丁寧な手作業で貼られています。「NSX」の出荷までには、度重なるチェックが繰り返されます。

PMCの溶接セクションに所属するケヴィン・ジョセフさん(ここでは皆からKJと呼ばれています)は、2代目「NSX」の足回りの全てをその目で見てきました。元海軍兵で、長距離トラックの運転手を経て、ホンダに入社しています。「まさか、自分がこんな仕事をするようになるとは思いもしませんでしたよ」と、彼は言います。

後編へつづく