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Obama Rights Historic Racial Wrong For Olympic Heroes
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2016年9月、
オバマ前政権によって
改めて世界発信された
アスリートたち

 前大統領によって違う世界だった頃…今から5年ほど前となる2016年9月、かつて全米屈指の短距離走アスリートであったトミー・スミス(Tommie Smith)氏は、当時の大統領であったバラク・オバマ氏と会うため同士であるジョン・カーロス(John Carlos)氏と共に、ワシントンD.C.にあるホワイトハウスを訪れました。

president and mrs obama welcome 2016 us olympians to the white house
Elsa//Getty Images
2016年9月29日に当時のオバマ大統領は、2016年リオデジャネイロオリンピックおよびパラリンピックにおける米国代表チームをホワイトハウスに招聘し、その参加と成功を称える会を開催。そして同時に、1968年メキシコシティ大会で黒人差別に対しての抗議“ブラック・パワー・サリュート(Black Power Salute)”を行ったトミー・スミス氏(写真向かって右)とジョン・カーロス氏(同左)の二人も招き、改めて敬意を示しました。

それは第19回五輪
メキシコシティ大会で活躍した
英雄たちの物語です

 トミー・スミス氏とジョン・カーロス氏は、1968年五輪メキシコシティ大会における男子200メートル競走の代表選手です。優勝候補として前評判も高かった二人は、共に決勝進出。そして迎えた1968年10月17日夕刻の決勝では、当時の世界記録である19秒83でトミー・スミス氏が優勝。そしてオーストラリア代表のピーター・ノーマン氏が20秒06をマークし2位に入るものの、ジョン・カーロス氏はわずか0.04秒差の20秒10で3位に食い込みます。そうしてこの3人は、メダル授与のため表彰台へと向かうわけですが、アフリカ系アメリカ人選手二人は、「共に表彰台に立てたなら、あることをしよう」と計画していたのでした。

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John Carlos & Tommie Smith Make a Stand with a Simple Pair of Gloves | Fashion Behind the Games
John Carlos & Tommie Smith Make a Stand with a Simple Pair of Gloves | Fashion Behind the Games thumnail
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 それが近代五輪の歴史において、最も有名な政治行為である知られる“ブラック・パワー・サリュート”だったのです。上の動画はOLYMPIC CHANNEL SERVICESがまとめた“ファッションがオリンピックの歴史に与えた影響を知ろう”というコンセプトでつくられた「FASHION BEHIND THE GAMES」シーズン 1 / エピソード15の『ジョン・カーロスとトミー・スミス - 信念の主張 | Fashion Behind The Games』です(この動画には、IOC(International Olympic Committee)のコンテンツが含まれているため、ウェブサイト上で閲覧することができません。YouTubeからご覧ください)。

 後にスミス氏は、こう話しています。

 「もし私が勝利しただけなら、私はアメリカ黒人ではなく、ひとりのアメリカ人であるのです。しかし、もし仮に私が何か悪いことをすれば、たちまち皆は私をニグロであると言い放つでしょう。私たちは黒人であり、黒人であることに誇りを持っている。アメリカ黒人は(将来)私たちが今夜したことが何だったのかを理解することになるでしょう」と…。

1968年はアメリカ史上、
揺れに揺れた年でした…

mlk at the march on washington
CNP//Getty Images
1963年8月28日、職と自由を求めた「ワシントン大行進」の一環として、およそ25万人の人々がワシントンD.C.に集結し、ワシン トン記念塔からリンカーン記念堂まで行進しました。そこですべての社会階層の人々が公民権と、皮膚の色や出身などに関係なくあらゆる市民を対象とした平等な 保護を求めました。そうしてこの日最後の演説者となったマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の写真になります。このとき、キング牧師の名言である「私には夢がある(I have a dream)が発せられました。

 1968年はアメリカ史上、激動の年と言っていいでしょう。4月4日にはマーティン・ルーサー・キング・ジュニア(Martin Luther King, Jr.)牧師が、そしてその2か月後の6月6日には、第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディの実弟ロバート・ケネディ(Robert F. Kennedy)氏が暗殺されました。

 この同時期、ベトナム戦争への反戦運動も高まり、多くの都市で学生運動や反戦運動が起こるのと同時に、アメリカ国内の至る所で人種差別が引き金となった暴動や警察との衝突によって、多くの人々が命を落としてもいました。その規模はアメリカばかりでなく、世界へと広がっていました。まさに激動の年、そんな真っただ中で第19回五輪メキシコシティ大会は開催されたのです。

 黒人差別反対運動が激化していたメキシコシティ大会の1年前である1967年、当時から金メダル候補として話題でもあったスミス氏は、ボイコットを主張。「なぜ海外まで行き、100%の努力をして帰ってきて黒人の権利を否定されなければならないのか?」という姿勢を見せます。そして、アスリートによる人権プロジェクトを立ち上げ、差別撤廃を訴えながら五輪ボイコットを提唱していました。「ボイコットしても何も変わらないかもしれないが、前進のための1歩になるかもしれない」というコメントをしています。

1年前の
「ボイコットする」という想いは、
やがて「表彰台で訴える…」
という想いにシフト

 当時、「ボイコットは黒人選手だけでなく、白人選手からも支持を得ている」とコメントと共にキング牧師もボイコットを訴えていました。これに対し、当時のIOC会長であるアベリー・ブランデージ氏は、黒人選手の五輪ボイコットの動きを非難します。一方でスミス氏の同士ハーレム出身のカーロス氏は、五輪に参加して走ることに意義と希望を感じていました。「陸上は(僕たちが)新しい地平に立つきっかけになった。走ることで世界が広がる…」という想いを当時述べています。やがてボイコットを支持していたキング牧師は暗殺され、黒人差別反対運動はさらに激化。そんな中でスミス氏は、「五輪で勝つしかない。1位の表彰台に上り、黒人の思いを伝えるために」という想いと共に、メキシコシティ大会出場を決意します。

olympic medalists giving black power sign
Bettmann//Getty Images
1968年10月17日夕刻に行われた決勝の結果、表彰台に立つ3名の選手。中央に優勝したアメリカ代表のトミー・スミス氏、向かって右が3位のジョン・カーロス氏。そして左が2位のオーストラリア代表のピーター・ノーマン氏。

 そうして二人のアフリカ系アメリカ人であるトップアスリートは、その想いを実現します。200m決勝の表彰式の前に一組の黒い手袋を分け合い、それぞれを片手につけてメダル授与に臨みます。さらにシューズを履かず、黒いソックスを履いてメダルを受け取りました。さらにスミス氏は、黒人のプライドを象徴する黒いスカーフを首にまとい、カーロス氏のほうはクー・クラックス・クランなどの白人至上主義団体によってリンチを受けた人々を祈念するためロザリオを身につけていました。

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 一方で銀メダリストとなったオーストラリア代表のノーマン氏も、他の2人に同調。3人そろって、OPHR(Olympic Project for Human Rights =人権を求めるオリンピック・プロジェクト)のバッジを着用して壇上に立ちました。さらにノーマン氏は、カーロス氏が当初身につける予定であった自分の黒グローブを忘れてしまったことに対して、スミス氏のグローブを2人で分かち合うことを提案。そうして結果的に、スミス氏が右の手袋を、カーロス氏が左の手袋をつけることになったのです。

 表彰台の上に立ち、メダルを受け取ります。そして、アメリカ国歌が演奏されながら星条旗が掲揚されている最中にスミス氏とカーロス氏は、目線を下に外して頭を垂れます。と同時に、高々と握り拳を突き上げました。もちろん会場の観客は、一瞬沈黙に…。やがてブーイングが巻き起こります。

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 この様子をわれわれにも最もわかりやすく解説してくれている映像が、 上の「NHKスペシャル 映像の世紀プレミアム 第16集」の『オリンピック 激動の祭典』です(00:54:51~1:10:06がメキシコシティ大会について描かれています)。この映像が語っているように、われわれはオーストラリア代表の銀メダリストであるピーター・ノーマン氏も忘れてはならないでしょう。

'whites only' cab
PhotoQuest//Getty Images
1962年8月18日、ジョージア州アルバニーのストリートに停車中のキャブ(タクシー)。ドアには、「ホワイトオンリー、ベックスキャブ」とペイントされています。
話を再び
21世紀に戻しましょう

 エスクァイアUS編集部は12月の第2週に、このスミス氏とZoomによる取材を敢行しました。そのときスミス氏は、オバマ氏に会ったときの印象をこう語っています。

 「“Hey Tommie, How you doing? (やぁトミー、元気かい?)”という感じで、実に印好印象な挨拶から始まって…。まるで彼を実の弟かのように感じたよ」とスミス氏。ドキュメンタリー映画『With Drawn Arms』の中には、スミス氏がオバマ大統領と会談する場面も登場します。そのときのことをスミス氏は、回想してくれたのでした…。

 この映画は、アーティスト兼映画製作者のグレン・カイノ(Glenn Kaino)氏と撮影監督のアフシン・シャヒディ(Afshin Shahidi)氏が共同で、金メダリストであるスミス氏にスポットライトを当てて製作したドキュメンタリーになります。スミス氏とカーロス氏(およびノーマン氏)らが行った1968年の抗議を再定義し、アスリートとしての人生ばかりでなく個人としての人生も大きく変えたその瞬間を50年ぶりに振り返っているのです。

 もはや史実となった題材を、公民権運動活動家でもある生前のジョン・ルイス議員を代表に、アフリカ系アメリカ人のジャーナリストや文化批評家へのインタビューから得た証言によって、骨太の柱で支えながら、ジェスチャーの歴史的重要性と今日の政治的言説におけるその関連性を考察しています。「ひざまずく」ことを愛国心がないものとみなされる現代のアメリカにおいて、黒人アスリートから活動家へと転向した勇気あるスミス氏に関しての丁寧な取材は、希望とインスピレーションに満ちた内容となっています。

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With Drawn Arms Trailer
With Drawn Arms Trailer thumnail
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 ストーリーは、スミス氏が1968年のことを彼自身の言葉で語るところから始まります。アメリカ屈指、いいえ、世界屈指のスプリンターが国の恥として扱われたこと、そしてその後、FBIによって追い回されていたことなどなど…。さらに、そうしてスミス氏が全てを失ってしまった後で、人権運動への称賛が寄せられていることに関して語っています。

 しかし、このドキュメンタリーは、過去の事実の検証でのみ終わっていません。そこには、スミス氏が人権を守るためにこれまで活動し紡いできた『未来への希望』が浮き彫りにされているのです。映画の中でスミス氏は、前出の製作サイドの主要人物カイノ氏との出会いについても語っています。カノイ氏はアート作品を通じて、スミス氏の活動を支援してきました。そして、その作品群からも、映画に出演する方々の立ち振る舞い方からも、53年前から行ってきた人権運動の精神は一切衰えていないことが見えてきます。

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 2016年8月に行われたプレシーズンマッチで「黒人や有色人種への差別がまかり通る国に敬意は払えない」と理由を述べ、「ひざまずく」ことで人種差別への抗議を行ったNFL(ナショナル・フットボール・リーグ)のQB(クォーターバック)であるコリン・キャパニック(Colin Kaepernick)氏。同性愛者であることをカミングアウトし、自らLGBTの権利擁護活動にも参加しながらアメリカにおける不平等に抗議して国歌斉唱を拒否したり、アメリカ・サッカー連盟に対して選手の待遇を男女平等にするよう訴えも起こしたりしているミーガン・ラピノー(Megan Rapinoe)選手。さらに直近となる2020年8月に起きた黒人銃撃事件の抗議活動として試合をボイコットしたNBA(北米・男子プロバスケットボールリーグ)に所属するミルウォーキー・バックスの選手たち12名…その他にもたくさんの方々の心に、スミス氏の紡いだその精神が宿っているのです。

スミス氏に直接質問する
Zoom取材を敢行

 Bounce TVでの『With Drawn Arms』のプレミア上映前、そしてトミー・スミス氏がBounce Trumpet Awards(人権運動など社会的な正義に貢献した方々に贈られる賞の式典)で表彰される以前のタイミングで、エスクァイアUS編集部は1968年にスミス氏らが行った象徴的な抗議活動について、またジョン・ルイス氏との出会いに関して、さらには直近のNBAで行われた抗議活動について話を直接うかがうという貴重な機会を得ました。

エスクァイアUS編集部(以降、ESQ):このドキュメンタリーでは、さまざまな方々がインタビューのカタチで登場しますが、どれも感銘を受けるものばかりでした。特にジョン・ルイス氏から、貴方や貴方のレガシー(受け継いできた精神)をお聞きできたことはとても光栄でした。ルイス氏とはその後も親交はあったのですか?

トミー・スミス氏(以降、スミス氏):そうですね。40分ほど彼のオフィスで一緒に会話したこともありました。彼も私も農家の子どもだったので、(植物の)栽培についての話に花を咲かせましたね。彼はワシントンのオフィスには、ドライフラワーになったコットンが置いてあったのです。議員のオフィスに農作物が飾られているって、普通じゃありませんよね(笑)。

それを見て私も、テキサスやカルフォルニアで綿花を摘んだりしたこと、ぶどうを切ったりしたこと、そして、水路をつくって水を引く灌漑の手伝いをしたことを話しました。そうしたら、私が高校3年生になるまでカリフォルニア州のセントラル・バレー南部サンホアキンバレーの労働者として働いていたことを知った彼は、すごくそれに興味を持ってくれました。

ESQ:彼に最初に会ったのはいつでしょうか?

スミス氏:そうですね、あれはもう4、5年前になるでしょうか。大統領に会うためにワシントンに出向いたときです。2人で、オバマ大統領(当時)と話をしました。私たちが大統領に会ったとき、「Hey Tommie, how you doing?(やぁトミー元気かい?)」なんて言ってくれて、大統領のことがまるで弟のように感じました。それから20分ほど、執務室で一緒に過ごしましたね。

ESQ:グレン・カイノ氏はドキュメンタリーの中で、貴方に「作品を通して、1968年の貴方自身を客観的に見て欲しい」といっていますね。どう感じましたか?

スミス氏:カノイは私のことを、深い意味で“観て”くれていたのです。彼は「私自身だけが知る私の内なる自身」について興味を抱いてくれて、「あなたのことを内側から知りたい。人権運動しているときに何を感じ、その後、何が起きたのか? そして、何を得たのか? 世界記録を樹立し、子どもたちと話し、あなた自身のキリスト教徒としてのバックグラウンドについても知りたい…」って話してくれました。それは私がこれまで、語ることになかったストーリーを…。そこに彼は、興味を持ってくれたようでした。

olympic atheletes on podium
Bettmann//Getty Images

ESQ:映画『With Drawn Arms』の話に戻りますが、アスリートの抗議活動についての、スミスさんなりの思いをうかがいたいのですが…。2020年の夏、NBAでミルウォーキー・バックスがプレー停止に追い込まれるほどの抗議行動を行いましたが、この抗議についてどう思われましたか?

orlando magic v milwaukee bucks   game five
Kevin C. Cox//Getty Images
2020年8月26日、2019-20NBAプレーオフにおけるイースタンカンファレンス第1ラウンドのゲーム5「ミルウォーキー・バックス 対 オーランド・マジック」を開催予定していた、アドベントヘルス・アリーナ(マジックの本拠地である)の試合前風景。この日バックスは、同年同月23日にウィスコンシン州ケノーシャでアフリカ系アメリカ人のジェイコブ・ブレーク(Jacob Blake)氏が警官によって発砲されたことに対しての抗議として、プレーを拒絶することで「声」をあげました。そしてリーグは、この日に行われる予定だったすべての試合を延期することになりました。

スミス氏:彼らは、「声」をあげたのです。「声」をあげることのできない人たちのために、「声」をあげるキッカケになろうとしたのです。そしてその「声」の力は、大きなパワーへと増大していった。そのパワーは、個人個人が擁する信念の昇華であると同時に、いまの人類が抱えている“人間として本当に向き合うべき問題(アメリカの人種差別)”を解決するために必要なものだったのです。

普段はプロスポーツ選手として人々と幸せを共有する彼らが、このコロナ渦の中で、バブル(コロナによって設けられた選手用の隔離施設。ここから抗議活動が行われた)から、自分たちが関わっているアメリカという国の信念はなんたるかを、国内外に発信しようとしたのです…そう発信する必要があると考えたのです。コロナによって、半ば隔離状態であったにもかかわらず…。

だからこそ、彼らが本業である『試合で得点を決めて勝利する』ための時間をわざわざ削ってまで、「違いを見つけて差別するのではなく、似ているところを見つけて愛そう」ということを伝えようとしたのですね。誰だって、(人との)違いを話題にすることは簡単にできるものですが、それを止めて、お互いの共通点について語り合って関わりを持てば、本当の意味での理解を交わすことができるでしょう。

ESQ:バックスの多くの選手が言っていたことを確認すると、あの試合を欠場した理由は全て、ジェイコブ・ブレーク銃撃事件がきっかけでした。そこで彼らは、自問自答していました。「われわれがそもそも(このコロナ渦の中で)NBAのバブルに入った理由は、そこに状況を変えられる舞台があると思ったからだ。でも、こうしてまた黒人が殺されているのなら、われわれはしていることの意味がわからない」ということ。そうして彼らは、大切な試合をボイコットしたというわけですが…現在、NBAは新しいシーズンに突入しようとしています。ですが、われわれはまだ、「この問題について話し合わなければいけない」と私は思うのですが、いかがですか?

スミス氏:もちろんです。新型コロナウイルス感染症の最中、多くのアスリートによって行われた抗議活動によって、アスリートの団結はより深まりました。死と向き合ったとき、誰もがさまざまな感情を抱いたと思います。それでも、彼らの行動があったからこそ、今われわれが抱えている問題を解決の方向へと進めるきっかけになったのです。それは偉大な事実でもあります。

orlando magic v brooklyn nets
Pool//Getty Images
シーズン再開を果した2020年7月31日、フロリダ州オーランドのHPフィールドハウスで行われたオーランド・マジック 対 ブルックリン・ネッツの試合前のスナップ。

実際に多くのNBA選手が抗議の意味を込めて、ユニフォームに“Black lives matter”等のメッセージを刻んで試合に臨む姿を観ると、誰もが今私たち人類に起きている問題と向き合い、そして、それを誰もが好転させてようと願う意志が実感することができました。当然、黒人選手も含めユニフォームで抗議をしない選手もいましたが、それは私が手を掲げた1968年の抗議活動をしたときも同じです。抗議に賛同する選手もいれば、しない選手もいます。それでもみんな互いを理解し合い、心を一つにして大会へと臨んだわけなのですから…。

スミス氏とカーロス氏、
この2人が示した「違い」の違い

あのとき、私とジョン(カーロス氏)が(拳をあげる)行動ができたのは、「アメリカの自由のために戦う兵士だから」という理由以前に、「違い」というものに対して当時のアメリカ人がどう接しているのか? 「その違いを見極める洞察力を持っていたから」と言っていいでしょう。

そしてそれは、このNBAの一連の抗議においても、これと同じ感情だったのだと思います。「一丸になる」という考えは今もなお、そこに存在しているのです。だからこそ今、声をあげているプロスポーツ選手には、本当に感謝しています。そして、「その精神を絶やさずにいてほしい…」と願っています。

orlando magic v milwaukee bucks   game five
Kevin C. Cox//Getty Images

ESQ:ドキュメンタリーの中でも、言っていましたね。変化への唯一の道は、「人のつながり」と「兄弟愛」だと。私もそれを、NBAの抗議活動を通して感じました。ですが現在アメリカは、この精神と矛盾したところにいまだにいるように感じます。人と人とが対立し、政党間の壁もあります。誰も対立している相手の領域へと乗り出していって、つながろうとはしません。そして、それをしようとする思いも感じることができません…。

スミス氏:そうですね。彼ら政治家は、相手を見ようとしていないのではないでしょうか。彼らがしっかりと相手を見つめ、「何をしているのかをきちん見極めることができれば、相手と自分の主張との間にある一致する部分を見つけるように行動することができればいいのになぁ」って思います。自分の考えが憲法上合っていれば、条文にさえ沿っていれば、そこから逃げ出す必要もないわけですから。

憲法を理解した上で、逆のことをしようとしている感じですね。大統領が変わり、内閣が交代し、それがローカルのコミュニティにまで至って制度が変わっていく。そして、このルールを変えるのに必要な票を得るためにそのルールに従う。それが、この国が目指す民主主義的な変化のあり方なのでしょうか…。

ESQ:ドキュメンタリーは、このパンデミック以前につくられたそうですが、あなたは映画の中で「Stop. Look. Listen. (Your)Life will appear.(止まって、観て、聴くんだ。そしたらそこに「命」が現れる)」と言っています。パンデミックが起き、ある意味でいろいろなことが「強制的に止められた状態」にあるという点において、すごく心に響く言葉でした。この「停滞状態」から学べることは何だと思いますか?

スミス氏:私は、「(前に進むために)間違ったカタチでその場凌ぎのことをしても、うまくいかない」と思っています。確かに、一時的に凌ぐことはできるかもしれません。ですが、その間違いはのちのち、自分の前進を阻む原因にもなる可能性も十分あります。そしてそれは実際に、今まで起きてきたことでもあるのです。間違いは間違い…それ以上でもそれ以下でもありません。

ESQ:ドキュメンタリーの最後に出てくるタイトルカードは、近年話題になっている「Rule 50問題」を彷彿とさせていますね。このように禁止されようとしている中、「声をあげたい」と思っているアスリートに向けて、何か言いたいことはありますか? 

※2020年1月にIOCのアスリート委員会は、政治的・宗教的・人種的な宣伝活動を禁じた五輪憲章第50条(Rule 50)について、禁止行動を具体的に挙げた指針を発表。以降、それに対して異論が高まっている問題です。さらに同年9月1日、2028年ロサンゼルス五輪・パラリンピック組織委員会のワッサーマン会長が、憲章改正を訴える文書をIOCのバッハ会長へ送ったという報道もあります。ですが、それに対するバッハ会長のコメントは、「人種差別に反対する発言が、政治的だとは思わない」と述べています。

ちなみにその改訂後の内容は、「期間中に選手らは、会場や選手村、表彰式などでの政治的なメッセージやジェスチャーは一切認められない」となっています。「国歌演奏の際にひざをついたり、表彰式で表彰台に上がらなかったり、記念撮影を拒否したりしてはいけない」ということも記載されています。事案があった場合には、当該国・地域の五輪委員会や国際競技連盟、IOCが違反かどうかを判断し、どのような処分をするか、を個別に判断するというもの。ただし「表現の自由」を配慮し、「記者会見や報道機関を通じての発言、SNSなどでの発信は処分の対象外」としています。

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スミス氏:Rule 50は、非常に厳しいルールですね。それは選手たちに、直接的なストレスを与えることになると思います。走って、黙って、心臓に手を当てて、国歌を聞いて、結果を残してホームに帰ってきても(差別によって)人間性を奪われる…。それって、間違っていると思いませんか?

Rule50は、“それ”を促進していると言えます。身体的強さを持った上で、彼らが発言する内容まで「こうあるべきだ」と示し、半ば強制しているようにしか感じられません。アスリートたちは「Rule 50」という名の「牢獄」に入れられたようなもので、そこがどんな感覚で、どんな気持ちになるのか? 声をあげる権利はあると思います。

現在、そのRule 50におけるネガティブなイメージを払拭するための作業が行われてはいますが…。結果的にアスリートたちは、「こうあるべきだ」という決められた指針に基づいて、プレッシャーを受けているのです。なので、かつて私が競技をしていたときのようにはならないことは確かですね。「黙って走れ。われわれが求めるのは君ではなく、お金だ。身体を使ってお金を稼ぎ、われわれが『やれ』と言ったことだけをやれ!」と。

人種差別も含め、私はこのRule 50が暗示するメッセージによって、辛い思いをした人々の権利のために(さまざまな組織)が戦ってくれることを信じています。そしてその抗議が実って、必ずや変化をもたらすことでしょう。いや、変わらなくてはいけないのです。

心」を持たなければなりません。誰かを蹴落とそうとしたり、後ろ指をさしたりするのではなく、自分に信念を持って人を愛すること…。そうしなければ、それがどんなものであったとしても、誰の信念にも沿わない、ただの「問題」として私たちにのしかかってくるだけなのです。

ESQ:ドキュメンタリーの最後に誰かが、「現代で新たなトミー・スミスが現れたとき、世界はそれを受け入れる準備はできているのだろうか?」と話していました。あなたはそんな人物が登場したとき、現在の世界は受け入れてくれると感じていますか? それとも、2018年のコリン・キャパニック氏の抗議の例のように、受け入れられることは難しいと思っていますか?

スミス氏:人生と一緒で、計算で全てがうまくいくものではありません。なので、一概には言えることではないでしょう。ですが、もしかしたら私は、私が抗議した1968年当時よりも現在のほうが、アスリートに対して資本主義的存在あると信じている方が多いかもしれません。ただ、それが事実であるか?は、誰にも分からないことです。

「ルールをつくり、ルールを破り、ルールを変える」、このようなチャレンジは無知によって、次第に麻痺してしまうものです。だから何をするにも、私たちは賢くすごさなくてはいけないのです。ここで私が、「こうなるだろう」と行く末を予測することはできます。ですがRule 50は、(「変わるだろう」という予測ではなく)必ず変えなくてはいけない重要な問題なのです。「アスリートの行動・発言の自由すら無視する人たちのために、アスリートが戦っている」という現実を、ここですぐにでも変えなくてはならないと、強く思っています。

ESQ:最後に、言い残したことはありますか?

スミス氏:私たちはここまで、未来のために建設的な話をしてきました。ですが、「事なかれ主義」な方の目には、少しネガティブに映ったかもしれません。ですが、「変化」という言葉を肯定するのであれば、そこには「何かが起きる」ということは当たり前のことなのです。そしてその次には、その「変化」にも対応できるような準備をしなくてはならない…それも忘れてはならないのです。

それぞれが、それぞれの立場に立っている。だからこそ私たちは、コミュニケーションを取り合って、共に前へと進み続けるしかないのです。そうでなければ何事も、成長できないのですから…。

* * *

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 スミス氏とカーロス氏両名の母校であるサンノゼ州立大学(San Jose State University)のキャンパス内には、現在、「John Carlos and Tommie Smith at the Olympic Statues」が置かれています。そこには、母校ではないからでしょうか、2位のオーストラリア代表のピーター・ノーマン氏の銅像は含まれていません。ですが、その2位の表彰台の台座面には、「FELLOW ATHLETE AUSTRALIAN PETER NORMAN STOOD HERE IN SORIDALY/TAKE STAND」と記されています…。

 ここで最後に、スミス氏とカーロス氏に連帯して「OPHR(人権のためのオリンピック・プロジェクト)」のバッジをつけることで、彼らと「つながり」「兄弟愛」を具現化したピーター・ノーマン氏という人物の存在に再度触れましょう。この人物も、スミス氏カーロス氏同様に、忘れてはならない存在です。彼は2006年10月3日に、享年64歳でこの世を去りました。そしてその葬儀には、スミス氏とカーロス氏も列席しています。

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Australian in Olympics protest to get apology
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 ノーマン氏はこう言います。「決勝レース終了直後、スミス氏とカーロス氏に『人権を信じるか?』と尋ねられた…」と。そこでノーマン氏は「信じている」と答えたそうです。そうしていくつかのやり取りを行ったあと、ノーマン氏が口にした言葉が「僕も君たちと一緒に立つ」です。そしてスミス氏カールス氏は共に、「この言葉は、いつまでも忘れることはできない」と語っています。

 スミス氏とカーロス氏に対して示威行為を行なったノーマン氏は、その後長い間、スポーツ界から事実上追放されることになっています。オーストラリア初の陸上短距離のメダリストであるのに、報道されることはありませんでした。また、以後の五輪代表には選ばれることもありませんでした。ですが、「選ばれることはない」と認識しながらも、彼はこの4年後のミュンヘン五輪までに、五輪派遣標準記録を13回も突破しているのです。彼はトップクラスのスプリンターであり続けることで、「記録」という拳を掲げ続けていたのです。やがてミュンヘン五輪の直前には、オーストラリアの五輪委員会は陸上200mに選手を派遣しないことを決定しました…。

 もちろん当の2人も五輪委員会の逆鱗に触れたことで、直ちに2人は選手村から追放されました。閉会式に出ることすら許されず、強制帰国させられています。そして共に職場は解雇され、家族はさまざまな脅迫を受けます。悲しくもカーロス夫人は、自殺に追い込まれるという苦難にも見舞われていたそうです。

 さらに時は流れ、2000年代に入るとスミス氏とカーロス氏の名誉は、徐々に回復されてきます。2005年には、スミス氏カーロス氏の勇気あるこの行動をたたえ、前出の銅像が母校サンノゼ州立大学に建てられました。そしてそこに自身の像が割愛されているにもかかわらず、除幕式にはノーマン氏も招かれ出席しています。

 なぜなら、この銅像にノーマン氏がいないのは、実はノーマン氏自身の願いからだったというのです。彼は、「ここを訪れた人が、自分の立った位置(銀メダリストの表彰台上)に立ち、そのときの自分の思いを感じて欲しい」と希望し、そのため2位の台は空席にしたというストーリーが隠されていなのです。

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2006年10月9日、ビクトリア州の州都であるメルボルン南西郊外の町ウィリアムズタウンの市庁舎から、ノーマン氏の棺を運ぶスミス氏(写真向かって左)とカーロス氏(同右)。

 わたしたちはスミス氏カーロス氏のように、当事者であると強く訴えることはできないでしょう。ですが、このノーマン氏の位置に立つことはできるはずです…。

Translation & Addition / Shane Saito
※この翻訳は抄訳です。

From: Esquire US