懐かしのサッカーを語る オールドファンに花束を!
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Yoshinobu Masuda

1970年代のフットボーラーは、アウトロー的な魅力があった。「簡単なのと難しいのがあるなら、僕は難しいほうを選ぶ」。そう話していた西ドイツ(当時)のギュンター・ネッツァーも反逆児の1人だ。

ブロンドの長髪、恵まれた体躯(たいく)、エレガントで大胆なプレイぶり、歯に衣を着せぬ発言、高級スポーツカーに乗り、どこか寂しげな孤高の雰囲気…当時の若者の憧れだった。ボルシア・メンヒェングラートバッハ(ボルシアMG)を小さな街クラブからブンデスリーガ(※1)のトップチームに押し上げた立役者でもある。

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ullstein bild//Getty Images
宙を舞い、ゴールを決めるネッツァー。ボルシアMGのスタープレイヤーだった。1971年撮影。

監督のヘネス・バイスバイラーは西ドイツきっての切れ者。コーチを育成するケルン体育大学の主任講師であり、豪放な大酒呑みでもあった。やがて世界最高の指導者と呼ばれるのだが、なかなか癖の強い人物である。

ボルシアMGは「子馬」と呼ばれた。選手の年齢が若かったからだが、自由奔放さと爆発的な攻撃力で知られていた。そのプレイスタイルは、現在のユルゲン・クロップ監督率いるリバプール(※2)に似ていたかもしれない。

エネルギーにあふれた若い選手たちが走り回り、攻撃する。5点、7点、ときには10点以上も取る。「子馬」というより「暴れ馬」だ。その中心に司令塔のネッツァーがいて、縦横に走る仲間たちに最高級のパスが届けられる。クロップは全盛期のFCバルセロナを「退屈」と言った男だが、フットボールに何を求めているのか?という点ではバイスバイラー(1964-1975年、ボルシアMGの監督を務める)の後継者とも言える。

ドイツ人には勤勉さや規律正しさのイメージがある半面、その反動なのか、自由を求める気持ちも強い。例えば、ヌーディズムが盛んだ。素っ裸になって解放感を味わいたい人が一定数いる。ボルシアMGは、そうした振り幅の大きな国民性をフットボールに結びつけていた。徹底したマンツーマン・ディフェンスでボールを奪うと、マークしていた相手を放り出して我先にと攻め込んでいく。規律と自由のコントラストを最大化させた、リスキーだがダイナミックなスタイルだ。

ベーケルベルク・スタジアム(当時のボルシアMGのホームスタジアム)の王様だったネッツァーは、国内でその名声は揺るぎないものでありながら、ワールドカップには縁がない。1966年と1970年は負傷でメンバーから外れ、自国開催で優勝した1974年は約20分間しかプレイしていない。例外は1972年の欧州選手権優勝。その名を世界に轟(とどろ)かせた。

リベロとして新境地を開拓したフランツ・ベッケンバウアーとのダブル司令塔方式は「ランバ・サンバ」と呼ばれ、歴代で最も華やかで圧倒的なドイツ(当時は西ドイツ)だったかもしれない。

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1972年のユーロ(欧州選手権)に向けた予選ラウンド、アルバニア戦(1971年6月12日)。ネッツアーがフリーキックで先制点を挙げる。

1973年、ネッツァーはスペインのレアル・マドリードへ移籍する。

この移籍をめぐってひと騒動あり、ネッツァーとバイスバイラーは冷戦状態に入っている。自分が正しいと思ったら一歩も引かない者同士で、何週間も口を利かないことも恒例行事。それでも信頼し合っているという間柄だった。冷戦の最中に迎えたドイツカップ決勝、監督はネッツァーを出場させない。ところが延長に入ると、ネッツァーは勝手に選手交代を告げ、いつもの10番でなく背番号12でフィールドイン。監督であるバイスバイラーは何も言わない。そして中盤のワンツーから一気に走り抜けて豪快な決勝ゴールを叩き込み、トロフィーを残して去っていった。

 
ullstein bild//Getty Images
フットボールが今よりずっとおおらかだった時代。確かに存在したロックスターのような2人の名選手、ネッツアー(写真左)とヨハン・クライフの競演。1972年に行われた親善試合、ボルシアMG対アヤックスより。

1974年、ワールドカップ西ドイツ大会が開幕する。

スペインへ移籍してコンディションを崩していたネッツァーの出番がようやく3試合目の東ドイツ戦、観衆のコールに応えて登場するのだが、0対1でこの歴史的な東西対決に破れてしまう。これでネッツァーのワールドカップは終わりだった。

2位でグループリーグを通過した西ドイツは、力闘型に伝統回帰。薄氷を踏む思いだったが、決勝にたどり着く。ただ、そこで大きな問題に直面した。オランダのヨハン・クライフをどう抑えるか。

変幻自在のクライフのマーク役にはボルシアMGのエースキラー、ベルティ・フォクツしかいない。ここは満場一致である。問題は…どう抑えるか。

ハーフウェイラインで迎撃する作戦を立てたが、フォクツは紅白戦で「クライフ役」のネッツァーに毎回振り切られ、何も結論のないまま決勝を迎えている。決勝もクライフの突破から開始1分でPKを献上、0対1のビハインドになった。

ここでフォクツが開き直る。クライフがどこに行ってもつきまとい、さらに攻撃のときはクライフを置いて突撃を繰り返した。クライフにボールが届けば、フォクツももれなく飛んでくる。少々無茶なやり方だが、ボルシアMG方式そのものだった。西ドイツはゲルト・ミュラーのゴールで逆転に成功する。決勝点をアシストしたライナー・ボンホフもボルシアMGの選手で、自陣から一気にフィールドを駆け抜けてラストパスを送っている。

バイスバイラーは、「俺が監督だったら結果は2対1ではなく、3対4だったろう」と試合後に語っていたが、彼とネッツァーが築いたボルシアMGの魂がもたらした決勝点だった。

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(※1)ドイツのプロサッカーリーグ。現在、1部と2部それぞれ18クラブ、3部は20クラブが所属しています。

(※2)イングランドのプロサッカーリーグ、プレミアリーグに所属する「リバプールFC」。創設は1892年。愛称はレッズ。


text / 西部謙司
1962年9月27日、東京生まれ。 早稲田大学卒業後、3年間の商社勤務を経て、サッカー専門誌『ストライカー』の編集記者になる。1995~1998年にフランス・パリに在住し、ヨーロッパサッカーを堪能。現在はフリーランスのサッカージャーナリストとして活躍中。近著に「犬の生活 Jリーグ日記 ジェフ千葉のある日常」(エクスナレッジ)、「フットボールクラブ哲学図鑑」(カンゼン)、「戦術リストランテVI ストーミングvsポジショナルプレー」(ソル・メディア)、「サッカー最新戦術ラボ ワールドカップタクティカルレポート」(学研プラス)などがある。

Illustration / Yoshinobu Masuda
Edit / Ryutaro Hayashi(Hearst Digital Japan)