オールドファンに花束を
 
Yoshinobu Masuda

片手にジュールリメ杯(※1)、片手に入れ歯。イギリス・ロンドンにあるウェンブリースタジアムの芝生の上で踊るノビー・スタイルズは、イングランドのファンにとって幸福な時代を象徴する風景として記憶されている。

「私はペンの力でスタイルズを抹殺するつもりだった」

この物騒な発言は、イギリスのサッカー雑誌『ワールドサッカー』の主筆記者エリック・バッティによるものだが、実際にスタイルズはワールドカップの最中に葬り去られる寸前だった。

「紙に殺されかけた」(ノビー・スタイルズ)

1966年、フットボールの母国であるイングランドで開催されたワールドカップ、グループステージの最終戦でスタイルズは警告を受けている。対戦相手のフランスの選手にタックルをして重傷を負わせた。これがあまりにも酷いということで、FA(イングランド協会)も次戦からスタイルズを外すべきだと圧力を掛けたという。もちろんメディアは、一斉にスタイルズを非難した。

nobby styles of manchester united
Getty Images//Getty Images
名門マンチェスター・ユナイテッドでも、中盤の要として活躍した熱血漢。判定に不服のスタイルズは、主審の手をガブり…。

以前から、“ラフファイター”として知られていた。フランス戦のタックルについて、「遅れてはいたが、悪質ではなかった」という本人の言葉を信じる人がどれほどいたか。ともあれ、当時のイングランド代表のアルフ・ラムゼー監督が、「それなら私が辞任する」と啖呵(たんか)を切って事態を収めたのだが、準決勝ではポルトガルのエースであるエウゼビオの足を蹴りまくっていた。バッティ記者は「レフェリーが見ていない所で顔面を殴ったのを見た」と言う。何ひとつ反省などしていなかったわけだ。

あの時代、スタイルズのような選手はどのチームにも1人ぐらいいたものだ。「殺し屋」「手斧師(ちょうなし)」など、かなりホラーなニックネームがついていた。前歯が何本か欠けていたスタイルズは、ニッと笑って相手を威嚇していたという。完全にホラーだ。父親の職業が葬儀屋というのも彼の稼業に箔をつけていたのかもしれない。ついたあだ名は「トゥースレス・タイガー」、歯の欠けた虎である。

 
Central Press//Getty Images
主将のボビー・ムーアがジュールリメ杯を掲げるその傍らで、歓声に応えるスタイルズ(前列左端)。

時期はずっと後になるが、ディエゴ・マラドーナがスペインのFCバルセロナでプレイしているときの映像を見て驚いた覚えがある。若き天才をマークしていたのが、レアル・マドリードのホセ・アントニオ・カマチョだった。後にスペイン代表やレアル・マドリードで監督をした人だが、その試合の仕事はとにかくマラドーナを蹴ること。ボールを奪うのではなく、足を蹴る。マラドーナが持つたびに蹴る。

今日の感覚で見ると一発退場もののファウルばかりだが、カマチョはイエローカード1枚ですんでいた。ただ、2枚目はもらえないので、途中でマーク役が他の選手に代わったのだが、代わった選手もマラドーナを蹴るだけ。1982年ごろの試合だから、60年代はもっと酷かったのかもしれない。

筆者はスタイルズの現役時代を知らない。ふと、どんなにひどい奴なのか確認したくなり、古い映像を入手して見た。今ならYouTubeで簡単に拾えるだろう。見てみたら、想像とかなり違っていた。

めちゃめちゃ足を蹴っていたのは伝え聞いた通り、というよりもっと酷かったが、ボールを持ったときのスタイルズはクレバーなテクニシャンなのだ。アンドレア・ピルロ(※2)は言い過ぎかもしれないが、深い位置で優雅にパスをつないでいた。

小柄で体格も貧弱なため、なかなかプロになれなかった。頭髪は薄く、歯は欠けていて、ド近眼だった。気持ちだけでも「虎」にならなければやっていけなかったのかもしれない。足を蹴らなければ相手を止められなかっただろう。蛇蝎(だかつ)の如く嫌われた男だが、味方の信頼は厚かった。

そもそもマンチェスター・ユナイテッドでマット・バスビー監督がスタイルズを抜擢したのは、ボビー・チャールトンを最大化したかったからだ。プレイメーカーに自由を与えるため、チャールトンの後方にスタイルズを置いている。当時としては珍しいアンカーのポジションは、同じ理由でイングランド代表でもラムゼー監督によって採用された。

4バックの前でスクリーン役となり、奪ったボールを丁寧に捌(さば)く。ときに相手の強力なセカンドトップをマンツーマンで潰す。試合によって微妙に役回りを変え、チャールトンたちを陰で支えた。イングランドは初めてワールドカップで優勝し、それっきりメジャー大会でタイトルを獲っていない。入れ歯を外してトロフィーを掲げる風采(ふうさい)の上がらない男の醜悪(しゅうあく)なダンスは、これ以上ない甘美な記憶としてイングランド人の記憶に刻まれている。

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Manchester United//Getty Images
マンチェスター・ユナイテッドのクラブ創設50周年記念式典でスピーチするスタイルズ。クラブの重鎮として、1990年代後半から2000年代初頭にかけての黄金期の礎を築き上げた1人です。

ノビー・スタイルズの代表キャップは28試合にすぎない。ワールドカップの9カ月前に招集され、本大会の全試合をフル出場しているが、代表でプレイした期間も5年だけだ。引退後に監督になったが成功せず、マンチェスター・ユナイテッドの育成を担当していた。

破壊専門の悪役と思われていたが、スタイルズのいたクリフ(練習場)からは多くの俊英が巣立っている。デビッド・ベッカム、ライアン・ギグス、ポール・スコールズ、ガリーとフィルのネビル兄弟たちは新たな黄金時代を築いた。壊すだけでなく、周囲の人々を輝かせる何かがあったのかもしれない。

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※1)FIFAワールドカップの優勝国に贈られるトロフィー。初代トロフィーは、ワールドカップを企画した当時のFIFA(国際サッカー連盟)のジュール・リメ会長の名を冠してジュール・リメ杯(トロフィー)と呼ばれています。1970年に3度目のワールドカップ制覇を成しとげたブラジルに永久寄贈され、現在はデザインチェンジされた3代目のトロフィーが使用されています。

※2)高いパスセンスと戦術眼を兼ね備えたミッドフィールダー。イタリア代表として活躍し、2006年のワールドカップでは優勝の原動力となりました。


text / 西部謙司
1962年9月27日、東京生まれ。 早稲田大学卒業後、3年間の商社勤務を経て、サッカー専門誌『ストライカー』の編集記者になる。1995~1998年にフランス・パリに在住し、ヨーロッパサッカーを堪能。現在はフリーランスのサッカージャーナリストとして活躍中。近著に「犬の生活 Jリーグ日記 ジェフ千葉のある日常」(エクスナレッジ)、「フットボールクラブ哲学図鑑」(カンゼン)、「戦術リストランテVI ストーミングvsポジショナルプレー」(ソル・メディア)、「サッカー最新戦術ラボ ワールドカップタクティカルレポート」(学研プラス)などがある。

Illustration / Yoshinobu Masuda
Edit / Ryutaro Hayashi(Hearst Digital Japan)