ペレ 伝説の誕生(吹替版)

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サッカーの王様、
ペレにオーレ!

ペレが「O Rei(オー・レイ)」と呼ばれていたことは、ブラジル人なら誰もが知っているでしょう。日本でも、私のようなシニアなサッカーファンの中にもいるはずです。これはポルトガル語で、“O Rei do Futebol(サッカーの王様)”を簡略化して、ペレ=O Reiとなったというわけです。

ここでちょっと勘違いして、1994年に日本サッカー協会公認で発売された日本代表オフィシャル応援歌『WE ARE THE CHAMP 〜THE NAME OF THE GAME〜』の歌詞「オーレオレオレオレー」と混同してしまう人もいるかもしれませんが、コレは違います。こちらはスペイン語で、つづりも“Ole”であり、音読も「オーレ」になりますし…。これはスペインの闘牛でいい技が出ると叫ぶ、「オーレ!」となります。現役時代の中田選手風に言えば、「ヨッシャー!」的な意味となります。調べれば、「アラビア語が起源でスペイン、ポルトガル、イタリアなどで使われている喜びの雄叫び」という解説もありました。

これはxの内容です。詳細はそちらでご確認いただけます。

話を戻しましょう。実際、ペレの古巣のクラブチームであるサントスFCの公式ウェブサイトでは現在(2023年1月26日)もトップバナーには王冠を冒頭に添え、ペレをトリビュートするムービーを流しています。真実、「サッカーの王様」というニックネームの背後にある物語は実に明確であり、これに抗う人などいないことでしょう。そうしてペレが既に王として君臨していていることで、マラドーナは「神」へと昇格したというわけです。 ペレはブラジル代表として参加したワールドカップで3度の優勝の立役者となり、そのプロとしてのキャリア中で1000点以上ものゴールを決めているのです(1977年に引退するまで1363試合に出場し、1281得点を記録)。そして何よりも彼は、サッカーの未来を切り開きました。「プレーの発明家」と言ってもいいでしょう、まるで未来から来たかのようなプレーを60年代70年代に披露してくれたのです。かつての彼のプレーをYouTubeなどでご覧になれば誰もが納得するはずです。そのプレーは今でも新鮮に映ります。そして多くの名選手たちが、彼のプレーをお手本に技を磨き上げてきたことも想像できるのです。そう、ブラジルサッカーを現在の形にした張本人でもあるのです。

pele of the santos team at paris in 1960
Keystone-France//Getty Images
1960年に、フランス・パリへの遠征の際に撮影した写真のひとコマこま。

さまざまな面で選手に対する要求の厳しいヨーロッパのリーグでは決してプレーせず、1956年に15歳でサントスFCに入団すると、1974年の33歳までこのクラブ一途にプレーを磨き上げます。ブラジルでも群を抜いた活躍から、当然財力のあるヨーロッパの有力クラブチームは関心を示しました。スペインのレアル・マドリードCFの当時会長を務めていたサンティアゴ・ベルナベウから直接オファーを受け、FCインテルナツィオナーレ・ミラノからも、ユヴェントスFCからも高額の移籍金で申し入れがありました。

しかしペレ当人も、これらのオファーに乗り気を示しません。当然、所属クラブのサントスFCもペレを放出する意思がないことを示します。さらには後に、ブラジル政府が「ペレは輸出対象外の国宝」と公式に宣言し、移籍を阻止する事態にまで発展しました。

そんなペレはのちに、欧州のクラブでプレーをしなかった理由について、「ジジ(バウジール・ペレイラ)がレアル・マドリード、ジノ・サニとジョゼ・アルタフィーニがACミランへ移籍したように欧州のクラブでプレーをした選手が何人かいたけど、僕はサントスFCでの生活に満足していたから…」と発言しているそうです。

こうしてペレは、外人枠の設定やチーム内の規律やシステム重視など、さまざまな方向から要求の多いヨーロッパチームには興味は示さず、“贅沢な生活”よりも“自分らしく、自由にサッカーをクリエイトする”ことを選んだのでしょう。ブラジル国内に留まって、国内のリーグ戦で世界トップレベルの技術を磨き上げていったのです。

これはxの内容です。詳細はそちらでご確認いただけます。

その生き様は、当時サッカー少年だった日本版編集長・小川の心にも突き刺さり、感動をはるかに超越した存在だったのです。とは言え当時は、そんな選手が移籍することで発生する諸々のことなど理解してはいません。ただなんとなく、一途に同じチームでプレー姿に男気を感じているだけだったのです。それがのちのち大人になって、その諸々は理解できるようになったとき、「マラドーナがなんで神なんだ? ペレこそ神だろう」と高校サッカー部同期会で議題を提案したことを思い出しました。大人になればなるほど、さまざまな政治的に経済的な状況を把握するにしたがって、ペレの偉大さが増していったわけです。

そんなペレも1975年には、なんと北米サッカーリーグのニューヨーク・コスモスに移籍するわけですが…。これは理解できるところです。その背後には、当時の国務長官で熱狂的なサッカーファンであったヘンリー・キッシンジャーの存在があったと言われていますが、これも「サッカー文化の発展のため、ペレは意を決したのだ」と勝手に確信しています。

football legend pele funeral
Wagner Meier//Getty Images
現地時間2023年1月2日(月)、ブラジル・サンパウロ州サントスに本拠を置く古巣サントスFCのホームスタジアム「ヴィラ・ベルミーロ」にペレの棺は運ばれ、ファンらの弔問を受けました。15歳で入ったサントスFCで長年にわたってエースとして活躍し、1962、63年にクラブ世界一にも導いた英雄です。スタジアムには「ビバ(万歳)王様」「ペレ82歳」と書かれた巨大な横断幕が飾られていました。棺は弔問後の同月3日に、サントス市内を葬列。100歳のペレの母セレステさんが現在も住む自宅前などを通り、家族葬が行われました。

「エスクァイア」スペイン版の筆者ラファエルは、こうつづっています。

「王様ペレが82歳で、大腸がんの進行による多臓器不全のためこの世を去った今、彼がサッカーに与えてくれた全てを思い出すときが来ました。 ビッグ 4 (ペレ、ディエゴ・マラドーナ、ヨハン・クライフ、アルフレッド・ディ・ステファノ) が全て、とうとうこの世からいなくなったことを悔やんでいる人も少なくないはずです。 もちろん、ワールドカップで3回も優勝を経験しているのに、彼がブラジル国外でプレーしなかったことに不満を抱いている人もいるでしょう。また、「ペレのワールドカップ4大会出場に対して、2006年ドイツ大会から2022年カタール大会の5回出場したメッシのほうが上だ」と言う人もいるかもしれません。もはやペレが引退してから時間もかなり経っています。

なので、ここは年寄りのサッカーファンの出番です。「メッシの時代のサッカーしか観たことがない」という人や、「少年時代の思い出として、マラドーナの5人抜きドリブリはうっすらと覚えているかな…」という人たちに、「なぜペレのほうが優れているのか」を伝えるときが来ました。 日本版編集長も加えたシニアなサッカーファンなら、彼らの議論をなんとか沈黙させることもできるかもしれません。

そんなわけでまずは、少年エドソン・アランテス・ド・ナシメントが「O Rei」というタイトルを獲得する以前に、なぜ「ペレ」と呼ばれたのか? その理由を再確認しましょう。

ペレはなぜ、「ペレ」と呼ばれたのですか?

ブラジルのサッカー界では、選手がニックネームで呼ばれることは一般的です。またブラジルで男の子が誕生すると、父親の名前をそのまま受け継ぐことが常でもあります。例えばネイマールです。彼の名前こそそのとおりで、彼の本名はNeymar da Silva Santos Júnior(ネイマール・ダ・シウバ・サントス・ジュニオール)。父の名はネイマール・ダ・シウバであり、ナディーン・サントスとの間に生まれたことにより、ポルトガル語圏の人名慣習に従って第一姓(父方の姓)である「ダ・シウバ」を、第二姓は母方の姓である「サントス」を受け継ぎ、さらに父親の名前をそのままもらうことで最後に「その子ども」を意味する「ジュニオール」が加えられているのです。つまり、「ジュニオール」を一生背負わなければなりません。

その他、カカのような面白いケースもあります。彼の本名はRicardo Izecson Dos Santos Leite(リカルド・イゼクソン・ドス・サントス・レイテ)ですが、彼の幼い弟が本名である「リカルド」が発音できずに「カカ」と呼んでいたことに由来します。なので、彼の場合は別にそこに意味は込められていません。しかしながら、欧州のラテン語圏であるイタリアやポルトガルなどで「カカ」と言う呼び名は、発音によっては汚物を意味する“CACCA”を意味するということで、ACミランへの移籍する際は愛称を変えなくてはならないというような議論もされたようです。そんなACミランでは、本名に由来する「リッキー」という愛称で呼ばれていたとのこと。

それではEdson Arantes do Nascimento(エドソン・アランテス・ド・ナシメント)が、なぜペレ(Pelé)と呼ばれるようになったのでしょう? そこには、2つの意味が組み合わされています。それは彼の父親のせいではなく、彼の父のチームメイトのせいと言っていいでしょう。

ぺレが少年時代、「ドンディーニョ(Dondinho)」というニックネームで呼ばれていたペレの父ジョアン・ラモス・ド・ナシメント(João Ramos do Nascimento)は小さなチーム、バスコ・デ・サン・ロレンソ(Vasco de Sao Lourenço)に所属していました。そこでペレは、そのチームでゴールキーパーとして活躍していた父親の同僚“ビレ(Bilé)”ことホセ・リノ・ダ・コンセイソン・ファウスティーノ(José Lino da Conceiçao Faustino)”のファンになります。

当時のペレは幼かったことや訛りもあって、「B」の発音ができず「B」を「P」と発音していたようです。そうしていつしか、クラスメイトから自身も「Pelé」と呼ばれるようになったということです。 つまり、子どもの頃のペレはゴールキーパーに憧れていたということが確認できます。

そして、ペレはチームメイトである友人にいじられるキャラであったことも推測できるでしょう。当時ですので、今とは違って微笑ましい瞬間であった思えます。そんな自身の幼い発音によって生まれた小さな嘲笑のカタチが、いつしか世界中で知られるニックネームとなったというわけです。

ちなみに少年時代の本人は、この呼び名を好んでいなかったようです。本名の「エドソン」と呼ばれることを望んでいたとのこと。あるとき、「ペレ」と呼んだ友人を殴って、2日間の停学処分を受けたこともあったとか…。実際は微笑ましい中でのネーミングではなかったのでしょうか?

これはyouTubeの内容です。詳細はそちらでご確認いただけます。
Así despidió el Santos a 'O Rei' Pelé I MARCA
Así despidió el Santos a 'O Rei' Pelé I MARCA thumnail
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Translation / Utah Zion
※この翻訳は抄訳したのち、日本版で加筆しています。

From: Esquire ES