私(この記事を担当する編集長小川)がサッカーに興味を持ったのは、おそらく1972年の頃。なぜ覚えているかと言えば、その当時はテレビを観ることが唯一の娯楽だった時代であり、日曜日の夜には青春学園シリーズのドラマ『飛び出せ! 青春』を観ながら中学になったらサッカー部に入ろうと誓った頃だから…。このドラマの放映は、1972年2月~1973年2月にまで。さらに、そのドラマのエンディング曲青い三角定規による『青春の旅』が流れる時間には、翌日からまた学校生活の1週間が始まる現実に苛まれていたのを今でも鮮明に覚えているからです。

そして同時に、サッカーによって世界的な視野も持つようになりました。今でこそ、世界のニュースが流れるのは日常茶飯事のこととなっていますが、その当時は違います。生まれた町で外国人に出会うのは稀なことで、サーフィンの大会の時期になると外国人たちが集団でいる場に遭遇することもありましが、そのときはまさに日焼けした外国人たちを前にビビッているだけの小僧でした(笑)。

そうです、サッカーのおかげで世界的な視野が持てるようになったと言って過言ではありません。既に、1970年のFIFAワールドカップメキシコ大会で3度目の優勝を果たしブラジル代表は当時から大好きで、千葉の片田舎の草サッカーでも「サッカーならブラジル式に、自由奔放な個の力で得点しなくちゃ」なんて生意気なセリフをかましていた小僧もいましたね。そして中でも、通称“ペレ”ことエドソン・アランテス・ド・ナシメントの存在は別格でした。

そんな思い出が脳裏によぎりながら、ワールドカップ2022カタール大会を楽しみました。ですが、その興奮も冷めやらぬ同年 12月29日(木)、2020年 11月25日(水)にマラドーナが逝去した悲報の続き、それ以上の悲しい報告が舞い込んできたのです。そう、私が最初に憧れたサッカーの王様、ペレが82歳で亡くなったのです。

マラドーナの訃報を知ったのち、ペレが投稿したツイートを思い出しました……。今頃、天国で一緒にボールを蹴っていることでしょう。もちろん互いに、愛のある悪態をつきながら…。

これはxの内容です。詳細はそちらでご確認いただけます。


そんなわけで、この悲しさも個人的にピークを過ぎたこともあり、このタイミングでペレの記事をいくつか公開させていただきます。まずは2014年に、作家アレックス・ベロス氏が 3回のワールドカップ優勝者に敬意を表して寄稿したものから。

※アメリカ の スポーツ 専門チャンネル「ESPN」には、ペレ追悼記事においてFIFAの公式記録を掲載。それによれば、1954年に14歳でデビューしてから1977年に引退するまで実働23年で通算1363試合出場し、通算1281ゴールを記録。公式記録として残っているものの中では、世界最高の記録としています。1試合5得点が6回、4得点が30回、ハットトリックは92回、1試合最多得点は8点ということ。YouTubeのFIFAチャンネルで、ぜひとも予習として「Pele's Top 5 Goals」をご覧ください。


ペレのワールドカップ=
コパ・ムンディアルはミスから始まった…

ペレは他のサッカー選手の誰よりも、公式戦で多くのゴールを決めました。ですが、彼の最も記憶に残るワールドカップでゴールに絡んだシーンは、痛恨のミスでした。

それは1958 年のFIFAワールドカップスウェーデン大会、ブラジル代表はグループ4でソビエト連邦を迎えた第3戦にペレは、ワールドカップ初出場を果たします。その最初 1 分あたりで、彼はいきなりシュート。奇しくもバーを叩き、ノーゴール。ですがその乾いた「カーン!」という音は、この大会に最年少17 歳で出場した彼にとっての、スターになる運命への船出を宣言した汽笛だったのです。

brazil won the world cup in 1958
Keystone-France//Getty Images
1958年6月29日、ストックホルムで開催されたワールド カップ決勝の55分、ブラジル代表の2点目をゴールしたババとそれを祝福するペレ。その後ペレは、自身も55分と90分にゴールします。結果、ブラジルが5-2で優勝を果たします。

そうしてブラジルは、この大会を通じて実に愉快で、楽しいサンバのリズムに乗った攻撃的プレースタイルをそのままに、最終的に1958年にワールドカップ初タイトルを手にするのです。そしてブラジル、そしてペレが世界中のサッカーファンの心を捉えるに至ります。以降、1962年のチリ大会そして1970年のメキシコ大会と12年間で3 回のワールド カップで優勝することに。ここでブラジルは誰もが認めるサッカー大国となり、ポルトガル語で代表=Selectionを意味する「Selecao(セレソン)」、そしてユニフォームのカラーから名づけられるように「Os Canarinhos(カナリア軍団)」の異名は世界的に知れわたります。

もちろん、その3回の優勝の立役者となったペレはチームの勝利のアイコンとなり、さらにはブラジルのサッカーだけでなく、サッカーという世界共通語の中で最高位となるシンボルに君臨することになるのです。

そしてペレ最後のコパ・ムンディアルの
思い出も
ミスでした…

そして悲しいかな、この3回目の優勝を果たした1970年のワールドカップメキシコ大会はペレにとって、最後のワールドカップにもなりました。この大会でも、ペレのプレーの中で私が最も印象に残っているのはミスです。それはチェコスロバキア代表との開幕戦において、センターサークル内ハーフウェイライン手前、敵陣からの大胆なロングシュートです。前に出ていたゴールキーパーのポジションを見計らってのシュートでしたが、惜しくも右に外します。 また、ウルグアイとの準決勝での魅惑的なダミープレーも、ゴールを外しながらも実に美しいプレーでした。

world cup semi final 1970
Mirrorpix//Getty Images
1970年7月10日に行われた準決勝のウルグアイ代表戦でのペレ。ブラジルのペレは倒された後、レフリーにファールを訴えるシーン。

彼のプレーには遊び心と創造性が満載され、誰もが夢中にさせられました。ペレはまさにピッチ上に作品を描くアーティストであり、ゲームに対するビジョンと技術的スキルによって、最高位の選手たちが集うセレソンの中でも群を抜いて際立っていたのです。 したがって、彼のニックネームは“キング”ということになったのです。ペレは、サッカー選手としての能力をすべてを最大級のレベルで持っていました。彼の全盛期における公称身長は、172.1cm(5フィート7.75インチ)。アスリートとしては低い身長ですが、完璧と言える体格の持ち主でした。両足ともに不遜なくシュートを放ち、発想もユニークかつクレバー、さらに鋭くも変幻自在なドリブルですり抜け、パスそしてディフェンスまで行うことができたのです。

しかもペレは、そのような体格であるにも関わらず優れたゴールキーパーでもありました。実際、公式戦でゴールキーパーとして4回出場している記録があります。4試合で通算43分間ゴールを守り失点は0。さすがペレです。

brazilian footballer pelé
4Imagens//Getty Images
1969年に、ゴールキーパーとして試合に出場したときのペレ。

また、ペレはピッチ上だけでなく、歴史の流れの中でもタイミングに恵まれた人物でもあります。1970年のワールド カップは、カラーでテレビ放送された最初のワールドカップ。よってペレは天然色で、ワールドカップにおける有終の美を飾ることができたのです。そして、そのテレビで放映された輝かしい光景は世界へと拡散され、ペレと彼を取り巻く黄金のジャージを着たチームメイトたちは、サッカー界のフロントロウの位置に刷り込まれたのです。

またそのニックネーム“ペレ”の響きも世界を熱狂させた

ペレの伝説の偉大さは、そのニックネームも貢献しているでしょう。まるでそれは、国際的なブランド名のようにも聞こえます。さらに少年のような純粋なイメージも醸しながらも、あるときは威圧的なイメージさえ持てる魔法の名前と言えるでしょう。そんな名前を擁した彼は、トップスターになる運命を持っていたと言わざるを得えません。

さらにペレは、スポーツで得た名声を商業的なブランドとして使用した最初のサッカー選手の 1 人でもあります。彼は自分の名前を商標として登録し、製品のスポンサーとなり、ビジネス ベンチャーにも投資したのです。70年代に行われた調査によれば、彼はヨーロッパでコカ・コーラに次いで2番目に認知度の高いブランド名になっていたということ。ペレには、ビジネス的も才能もあったというわけです。そしてビジネスの現場でも、彼は一生懸命働きました。

サッカー史上最も有名な選手であるにも関わらず、ペレは決していい気になどなっていませんでした。選手を引退した後も、彼は立ち止まることはなかったのです。 自分の名前に関わる数多くのプロダクツの宣伝に勤しみ、半永久的にそのツアーに人生をささげていたのです。

彼の選手としての引退は、ほぼ40年前になります。ブラジル代表としては1971年7月18日のユーゴスラビア代表戦を最後に。ブラジル代表からの引退を表明。クラブチームでは1977年に、当時所属していた北米サッカーリーグ(NASL)のニューヨーク・コスモスで引退することになります。同年10月1日に引退試合として、ジャイアンツ・スタジアムで行われたニューヨーク・コスモス対古巣であるサントスFC戦には、約7万5千人の観衆が詰掛けたということ。

そうしてペレはプレーをやめましたが、彼はサッカーの枠をここでも外れ、世界で最も広く知られる規格外のスポーツアイコンとなったのです。

Translation / Utah Zion
※この翻訳は抄訳です。

From: Esquire UK