「自分の顔がスニーカーにプリントされているっていうのは、確かに変な気分ですね」と、ウィンブルドン・コモンのそばにある、手入れの行き届いた庭園に置かれた椅子に寄りかかってスタン・スミス氏は笑います。

 新鮮な空気に、アジサイと切りそろえられた芝生の香りが漂い、空にはヒースロー空港から飛び立ったジェット機の音が遠くに響いていました。

 アメリカの伝説的テニスプレイヤーは、高そうな水色のシャツに、しみひとつない紺のブレザーを羽織った出で立ち。195センチの長身で、カリフォルニア的なゆったりとした威厳があり、わし鼻で朝一番のプールのような鮮やかな青い瞳。遠い日の記憶が浮かぶ穏やかな表情で、強い日差しのもとボールを追った日々が刻まれた褐色の肌をしています。

 現在72歳。長年トレードマークとなっている口ひげには、茶色とグレイの色合いが混ざり、向かいのオールイングランド・クラブのテニスコートのようにしっかりと手入れされています。足元には、はき慣れた黒のベルクロのスタンスミス。そのシュータンからはもちろん彼の顔がのぞいています。最後に数えたときには、70から80足のスタンスミスを持っていたそうです。

 「最初のモデルがあればよかったんですが…オリジナルをぜひお見せしたかったです」と、どこか悲しげ表情で言います。クラシックな白が好きだそうですが、黒のレザーとブルーのスエードも気に入っているのだとか…。

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Finlay Renwick

 「面白い話をしましょう」と、スミス氏は話し始めます。

 「3年前、ウィンブルドンのロイヤルボックスにいたとき、突然ヒュー・グラントがこちらを向いてこう言ったんです。『初めて女の子にキスをしたとき、あなたの靴をはいていたんですよ!』って。それまで知らなかったのですが、スニーカーを通じて多くの人が私とつながっていると感じてくれているようです」と。

 そんな思い出があるのは、ヒュー・グラントだけではないでしょう。

 「スタンスミス」は1971年の発売開始から、控えめに見積もっても5000万足以上、実際にはもっと売れていると言われており、アディダスのスニーカーで最も人気の高いモデルとなっています。

 ここ10年近くにわたる多くのコラボレーション、勢いの止まらない人気、そしてスタン・スミス氏を“強いテニスプレイヤー”から“スニーカー界の大物でファレル・ウィリアムスの友だち”へと変身させたのは、その才能と数々のタイミングの良さによるものでした。

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Finlay Renwick

 「スタンスミス」は、スタン・スミス氏から始まったわけではありません。

Haillet And Bergelin
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1954年7月24日、パリのローランギャロススタジアムで行われたデイビスカップでのロバート・ハイレット選手(右)。対戦相手はスウェーデンのレナート・ベルゲリン選手(左)。

 1965年、アディダス創業者アドルフ・ダスラーの息子、ホルスト氏が急成長していたテニスシューズラインの顔として、フランス人プレイヤーを選びました。その名を取った「ロバート・ハイレット」が最初のモデルでした。当時は先端技術だったレザーのアッパーとヘリンボーンのラバーソールで、他のメーカーがつくっていたキャンバス地のモデルよりも耐久性と安定性が高かったため、テニスシューズとしては高い人気がありました。

 しかしその後、1971年にロバート・ハイレット氏が引退したため、ホルスト氏は改良が加えられた新たなモデルのアンバサダーを探し始めます。求めていたのは、アメリカ中にアディダス人気を広げられるような人物でした。

 そして、ちょうどこのフランス人プレイヤーがコートを離れるときに(後にブランドの営業担当となります)、巧みなボレーと鋭いサーブで実力を上げてきていたのが、この若きカリフォルニアのテニスプレイヤー、スタン・スミス氏だったというわけです。

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1972年のウィンブルドン選手権で、2年連続で男子シングル決勝に進出したスタン・スミス選手。対戦相手はルーマニアのイリ・ナスターゼ選手。結果は2時間41分の時間をかけ、4-6、6-3、6-3、4-6、7-5 のフルセットでスミス選手が勝利し、ウィンブルドン初優勝を飾りました。

 彼の言葉を借りて言うなら、若いころはバスケがやりたかったという“微妙”な選手であり、スミス氏は近代のテニスの波が来ているタイミングで大学を卒業し、グランドスラムへのプロ出場が解禁された1968年にツアーに参加し始めました。

 稼ぐチャンスも観衆の興味も高まっていましたが、80年代になってジミー・コナーズやビョルン・ボルグ、ジョン・マッケンローといった強豪選手たちが王座に居すわる黄金時代の前だったので、まさにスイートスポットと言える時期だったのです。

 「私の人生は、運に恵まれてきました」と、スミス氏は言います。「16歳のとき、私には4つの目標がありました。アメリカでトップのプレイヤーになること、ウィンブルドンで優勝すること、デビスカップでアメリカ代表として優勝すること、そして世界一になることです」と、スミス氏は当時を振り返ります。

私の人生は、
運に恵まれてきました

 1972年にアディダスが声をかけたときには、スミス氏はすでにデビスカップで4勝し、1971年のウィンブルドン決勝で敗れながらも、同年のUSオープンで優勝し、世界トップのシングルスプレイヤーになっていました。

 そして翌1972年のウィンブルドンでは2年連続の決勝に進出し、1万5000人の観客を前にコートマナーが悪くて有名だったルーマニアのイリ・ナスターゼ選手を破って、初優勝をはたしました。「その後は、目標を設定し直さなければなりませんでした」と、スミス氏は再び笑顔を覗かせました。

 ホルスト・ダスラー氏との最初のミーティングは、1972年の全仏オープン中にパリのナイトクラブで午後11時に行われました。「ホルストは、夜遅くにミーティングをするので有名でした…」と、スミス氏は当時を振り返ります。

 「タキシードを着た女性たちがいて、『いったい自分はここで何をしているんだ!?』って戸惑いましたよ」とスミス氏。しかしその夜のうちに、現在では至る所で目にするあのスニーカーの第一歩となる、アディダスとのパートナーシップに合意していたと言うのです。 

 1971年にはすでに、「スタンスミス」と刻印されたスニーカーが登場していたものの、その時点ではまだ正式契約を結んでいませんでした。そして、正式契約は上記のようにスミス氏自身の合意ののち、1973年に取り交わされます。しかし、その後もホルスト氏は「ハイレット」の名を完全に塗り替えるべきか決めかね、その先数年はこのスニーカーを「ハイレット」と呼ぶべきか「スタンスミス」と呼ぶべきか非常に曖昧な時期でもあったのです。そうして時は経ち、1978年にこのモデルのシュータンから「ハイレット」の文字は消え、「スタンスミス」と明記されるようになります。

 またそこには、スミス氏の代理人が顔(皮肉なことに、口ひげのなかった貴重な期間の写真が使われました)をシュータンに入れるよう交渉した結果、現在のようにスミス氏の顔もプリントされるようになったのです。

 このようにして、当時誰もが予想もしなかったひとつのポップカルチャーが誕生したのでした。現在ではこの1978年のタイミングを、このスニーカーが正式に「スタンスミス」となったときだと認識する人々も多いようです。

 ほどなくして、スミス氏の対戦相手がネットの向こう側で自らの顔がプリントされたシューズをはくようになりました。

 「あのシューズで私を打ち負かそうとするのは、どうかと思いましたよ」と、スミス氏は笑います。「私のシューズをはいていたプレイヤーたちは、余計私に勝ちたがっていたんでしょうね」と…。

 アディダスはこの「スタンスミス」を、1988年までに2200万足も売り上げたということです。

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adidas
オリジナルの「スタンスミス」。

 スミス氏は意外なるポップカルチャーアイコンとして、面白い逸話がたくさんあります。ここでも彼は少し困惑しながら、その中のいくつかを話してくれました。

 ニューヨークで追いかけてきたある男性には、「あんた、地元界隈で有名人だよ」と教えられたそうです。駐車場の係員には、買ったばかりの靴にサインをしてほしいと、クルマの窓から足を入れてきたのだとか…。

 またジェイ・Zは、2001年のアルバム『ザ・ブループリント』の収録曲で、「スタンスミス」の名前を歌っていますし、ファレル・ウィリアムスは2018年にスミス氏が出版した著書『Stan Smith: Some People Think I Am A Shoe』の前書きを担当し、写真家のユルゲン・テラーがポートレートを撮っています。

 デザイナーのステラ・マッカートニーとラフ・シモンズは、それぞれプレミアムなコラボシューズをデザインしました。ケイト・モスの顔がシュータンに印刷されたこともあります。ジョン・レノンは、「スタンスミス」が大人気になる前から愛用していました。

 「フィービー・ファイロがはいていたのも話題になりましたね」と、スミス氏は言います。スリマンが就任する前にセリーヌのクリエイティブ・ディレクターを務めたファイロは、クールなヨーロッパ女性のスタイルのリーダー的存在で、クラシックな「スタンスミス」を愛用していました。「フランスで人気が高いんですよ」と、スミス氏は頷きながら話してくれました。

 「はき心地がよくて、とてもシンプル。余計な飾りは一切付いていません。まあ、ちょっとした装飾が付くものもありましたけどね…」と、彼のスニーカーが愛される理由を説明します。

 緑色のヒールタブに、控えめで丸いトゥキャップ、穴の空いた3本のストライプ。1971年からほぼ変わらないそのデザインは、今でも何百万足も売れています。「どんな服にでも合わせられて、値段も高すぎません。時間とともに味が出るので、はきつぶした感じが好きな人もいますし、新品のようにピカピカにしておくことが好きな人もいます」とスミス氏。

 「見ていて嬉しくなるのは、母親と娘がお揃いではいているのを見たときです」と、スミス氏は続けます。「母親と同じ靴をはいているところなんて、死んでも見られたくないような年ごろでも、なぜかスニーカーは気にならないみたいで…あれは、今でも不思議に感じます」とのこと。

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 「『スタンスミス』がアディダスで最も売れているスニーカーなのには理由があります」と、スニーカー専門雑誌「Sneaker Freaker」の創設者サイモン・ウッド氏は言います。

 「史上最もクラシックで、つまらなくて、ベーシックなスニーカーデザインです。悪口のように聞こえるかもしれませんが、褒め言葉です。かなりの謙虚なスマートさがなければ、ここまでシンプルなのにホットなスニーカーをつくることはできませんから。どこのブランドも、これほど売れ続けるスニーカーは喉から手が出るほど欲しがるでしょう…」と、ウッド氏は称賛しています。

どこのブランドも、これほど売れ続けるスニーカーは喉から手が出るほど欲しがる

 「今でも毎日はいていますよ」と、スミス氏は自身の黒いスタンスミスを見つめ、芝生の中で足を動かしながら言います。

 「スタンスミスは、世界で通用するスタイルだと思っています。日本でも大人気です。日本に行ったときにある男性が声をかけてきて、この20年間毎日はいているのだと言っていましたよ! パリで人気なことはお話しましたよね? 彼らにとっては、ファイロの影響で、フレンチスタイルだと感じているようです。ただ未だに、ウィンブルドンのロイヤルボックスにはスニーカーでは入らせてくれないんですよ!」とスミス氏。

 競合ブランドが様々な価格帯で次々と登場し(例えばコモンプロジェクトは、スタンスミス風の300ポンドのスニーカーをつくって成功しています)、2014年まで2年ほど製造中止をして希少価値が上がったりしましたが(スミス氏はそのころについて、「ここまでよくやったけど、もう潮時かなと思ったのを覚えています」と話しています)、「スタンスミス」は50年近くたった今も強い人気を誇っています。

 「この6カ月ほどの間、『スタンスミス』は継続的にベストセラーになっている靴のひとつです」と、いまイギリスで勢いを増しているメンズウエア専門のセレクトショップ、エンド・クロージングのバイヤーであるジェームス・トリヴノヴィッチ氏は話します。「マーケティングやSNSでの宣伝なしで、オーガニックに売り上げが伸びているんです」と言います。

 さらに、「誰もがはけるカタチと美しさを備えています」と、トリヴノヴィッチ氏は付け加えます。「市場に出ている中で同じことを言えるスニーカーは、数少ないと思います」とも…。


 現在のスタン・スミス氏は、人生を楽しんでいます。

 1985年に正式に引退してからは、サウス・カロライナ州のヒルトンヘッドにマージョリー夫人と暮らし、子どもが4人、孫が14人います。自身のテニスアカデミーを運営し、テニス殿堂選手権の会長も務めています。サーブの切れ味は現役時代には劣るかもしれませんが、「今でも定期的にテニスをし、玉打ちを楽しんでいます」とのことです。

 17年以上活躍したテニス人生では、約170万ドル獲得したそうですが、スニーカーから入るロイヤルティーと、2018年に結んだアディダスとの終身契約で、スミス氏がお金に困ることはないようです。夜行性だった創業者の息子と、夜の11時にパリのナイトクラブで会ったのは大正解だったというわけです。

 「初めは5年契約でした。こんなに売れる靴になるとはまさか夢にも思っていませんでしたよ」とスミス氏は首を振ります。「気づいたらもう72歳です」。

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 2週間にわたるウィンブルドン選手権初日であった2019年7月1日(月)、だんだんと日も傾いてきたころ…近くの庭で芝の手入れが始まったようで、芝刈り機の音が会話をかき消します。

 スミス氏は、ノバク・ジョコビッチ選手がまた優勝すると予想していました。(そしてその予想は見事的中しました!)また、ラフ・シモンズにはまだ会ったことがないけれど、ぜひ会ってみたいという話や、2019年後半にはアディダスの70周年を祝うため、ドイツの小さなバイエルンの町にある本社に行くという話をしてくれました。

 そして「私が一番社歴が長いんじゃないですかね」と、ニコッと笑いながら場を和らげてくれます。

 庭園の周りを散歩していると、5000万足のスニーカーに印刷されたこの男性はゆっくりとかがみ、めずらしい花を眺めています。そして散歩の終わりには、私に向かってこう語ってくれました。

 「最終的にこうなったことを、とても幸せに思っています…何もかも、かなりうまくいったようです」と。

From ESQUIRE UK
Translation / Yuka Ogasawara
※この翻訳は抄訳です。