※本記事は、『DEAD ASTRONAUTS(死んだ宇宙飛行士)』の装画を手掛けたアーティスト、田内万里夫による日本語翻訳、及び再構成によって作成されています。


 動物たちの持つ感覚や感情のことを指す「アニマル・センティエンス(animal sentience)」という言葉をご存じでしょうか。アニマル・センティエンス、そして自然界におけるマインドフルネス、アートとアクティビズムの関係について、文学の新ジャンルとなった「クライメート・フィクション」の旗手、ジェフ・ヴァンダミア氏へのインタビューをお届けします。

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◇作家ジェフ・ヴァンダミアとは?

 ジェフ・ヴァンダミアは、「クライメート・フィクション(Climate Fiction=環境フィクション)」の草分けであり、現代アメリカ文学において独自の地位を確立している作家です。

 ヴァンダミアの小説は、サイエンス・フィクション(SF)における既存の境界線を拡張させるのみならず気候危機についての議論を推し進める役割をも担い、まさにアートとアクティビズムの最先端を切り開いています。

 代表作とも呼ぶべき『BORNE(ボーン)』および『サザーン・リーチ三部作(Southern Reach Trilogy)』(日本では早川書房より『全滅領域』、『監視機構』、『世界受容』として出版)によって、一躍アメリカ幻想文学の寵児(ちょうじ)となったヴァンダミア氏ですが、『サザーン・リーチ三部作』の1作目に当たる『全滅領域』は、女優ナタリー・ポートマン主演、アレックス・ガーランドの監督・脚本、スコット・ルーディンのプロデュースによって『アナイアレイション-全滅領域-』として映画化されています。

 ヴァンダミアの活躍は21世紀において、「ニュー・ウィアード」と呼ばれるファンタジー小説の新たな潮流を生み出し、“スペキュレイティブ・フィクション”の思弁的世界に未知なる闇、恐怖、そして美しさを持ち込んだと評価されています。

◇最新作『DEAD ASTRONAUTS(死んだ宇宙飛行士)』について

 ヴァンダミアの最新作である『DEAD ASTRONAUTS(死んだ宇宙飛行士)』の舞台となるのは、前作『BORNE』において示されていたポストアポカリプティック…つまり「終末の後」の世界です。

DEAD ASTRONAUTS(死んだ宇宙飛行士)

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 天から落ちてきた3着の宇宙服の正体とその謎に迫るストーリーが、『DEAD ASTRONAUTS』で描き出されています。

 遺伝子操作で生物を開発し、地球の生態系を破壊するバイオテック企業に抵抗した3人の宇宙飛行士たちの生前を振り返る本書では、メビウスの輪のように幾重にも裏返る世界が各章ごとに展開され、その暗く幻想的な世界へと多くの読者を引き込んで離しません。人類の飽くなき欲望と資本主義により引き起こされた環境破壊に対し、ヴァンダミアは破滅した後の世界を描くことで、激しく警鐘を鳴らしているのです。

 辛口で知られるアメリカの文芸誌『Kirkus Reviews』から「同著者による最高傑作」と評されるなど、既にアメリカで大きな話題作となっている本書。自作について、また動物や自然環境の現状について、ヴァンダミアが『エスクァイア US』の取材に対して余すことなく語っています。

◇ヴァンダミアに独占インタビュー

エスクァイア(以下ESQ):私が衝撃を受けたのは、本書(『DEAD ASTRONAUTS』)に登場する“狐(キツネ)”の放った一言です。「欲求の強制から人々を解放するための新しいガジェットはもう発明されたかい? その材料となる資源を得るために地面を掘り返し、あらゆる農作地や森林を破壊し、他の生命を飢え死にさせようとしている、あのスマートフォンに代わるものは、もう開発されたのかい?」。

これはまさに、資本主義社会の末期的症状を見事に言い当てた、衝撃的なセリフでした。これに関して…現在の世界を構成しているシステムと、そこで起きている現象、それぞれの相互関係性についてどの程度まで掘り下げて考えたのでしょうか?


ジェフ・ヴァンダミア(以下
JV):この小説はあらゆる意味において、社会システムについて書かれたものです。

物語の設定を共有している前作、『BORNE』の執筆に際しては、その舞台設定を「シティ」および「カンパニー」といった単なる抽象的な呼称とすべきか否か決断を迫られました。結局のところ晩期資本主義の世界における「カンパニー」たる企業は、実際のところそれ以上の個性を持ち合わせていないように思えたのです。

現代の私たちの生活は文字通り、「カンパニー」によって取り囲まれています。もし20年前にこの小説を書こうとしたのであれば、その企業の社名や特徴について、もっと具体的に考えようとしたかも知れません…。ですが、この強固に組成されたシステムを備えた高度資本主義社会に内包されている私たちにとっては、それら企業の実体はもはや不可視的なものであり、例えなんらかの気配は察知できたとしても、その中核まで見通すことなど無理なのではないか? と感じたわけです。

この物語の設定は「未来」ということになっています。が、今私たちの生きるこの世界の実体を掘り下げようと考え、そして書き上げたのが本作なのです。

また、他のフィクションにはないレジスタンス性、つまり、抵抗の新たなカタチを生み出そうという試みでもありました。その抵抗が失敗に終わるというのも、説得力のある筋立てのようにも思えたのです。この資本主義社会においては、私たち個々の実践するアクティビズム(積極行動主義=行動主義のひとつであり、社会的・政治的変化をもたらすために特定の思想に基づいて意図的な行動をすること)が、すなわち、それぞれの人生に対する評価の指標となります。例え熱意ある試みが失敗に終わったとしても、そのことが世の中を前へと推し進める効果を持つことがあるのです。

既に世界に広く蔓延している“なにか”に抗(あらが)おうとした場合、分かりやすく目に見える勝利を得ることなど、もはや不可能なのです。だからと言って何もしないのではなく、例えそれが失敗に終わったとしても、その努力が私たちを「ここではないどこか」へと導くに足るパワーの源となる可能性は否定できないのです。そんな行動が積み重なることで、この世界が構築されているのではないでしょうか。

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映画『アナイアレイション-全滅領域-』におけるナタリー・ポートマン。

ESQ:アクティビズムと資本主義について考えれば考えるほど、その重層的な関係を想わずにはいられません。そこには振り払いたくとも振り払いきれない不安もあります。例えば、なんらかの抗議のためのバッジを買うとしたとします…。しかし、そのバッジの製造過程に存在する退廃したシステムに対して、ここで加担してしまう可能性も排除しきれないのです。最善を尽くそうとしても、なお加担してしまうという現実から逃げ去ることはできません。


JVまさに、そのとおりです。私たち小説家にしても、この業界なりの退廃に常に加担しているのだと言えますね。

例えば、資本主義を押し留めようという目的で小説を書いたとします。それでも、その出版プロモーションに関われば、まるで自分の行動が、「むしろ逆効果を生んでいるのではないか?」という何とも落ち着かない気持ちにさせられることとなるわけです…。

実にややこしい話です。でも、私自身が自分の“コンフォートゾーン(居心地のいい場所)”の外に存在する声を描写することで、読者の気持ちをザワつかせ、それが彼らに非日常的な思考をもたらすのであれば、「それは一定の効果を生んでいる」と思えるのです。

ESQ:この小説には、コピー(複製)としての存在が多く描かれています。群生する苔植物、アヒルの群れ、そして複数のタイムラインさえ同居しています。どのような発想に基づいて、これを書かれたのでしょうか?

JV:「物事が多重的になれば、その連続性は意味を失っていくのではないか!? 」と思い至ったのです。これは面白い発見でした。感動的でさえありました。

登場人物が異なるバージョンとしての自分自身と接触し、そのことによて感情的かつ象徴的な意味が生まれるという設定に、面白さを感じているのです。エコーのように反射する存在が生み出すものは、実に多様であると言えますよね。ある登場人物をさまざまな異なるバージョンで描き出すというのは、遊び心を刺激される行為でもあるのです。その連続性が機能しなくなるポイントが、いつどこで現れるのか記録してみようと思ったのです。想定の範囲外にある非連続性を、ここで見極めてみようと考えました

ESQ:物語の世界を構築することは、あなたにとってどのような作業なのでしょうか? どのようにはじまり、どのように生命が吹き込まれてゆくのでしょう?

JV多くの場合、それはキャラクター次第と言えるかもしれません。

例えば、この現実において人々の知り得ない物事については、小説の中の世界であっても、登場人物はそれを知らない…というふうに私は描きます。しかし、『サザーン・リーチ三部作』の場合には、このアプローチに不満を持つ読者も現れました。なぜなら、それでは物語のプロットに形式的な幕引きがなされることが、“ない”からです。

今回は場面によっては、著者によるゴリ押しと思われるかもしれない箇所もありますので、事情は多少異なるかもしれません。本書『DEAD ASTRONAUTS』において、設定上の重要な役割を担う「生物」そして「バイオテック」は、前作『BORNE』の設定をそのまま引き継いだものです。

まず、目の前にある設定を拾うところからはじまりました。以前の作品においては、はじめに綿密な時代設定と世界構造とを確立し、その後それを物語の軸にしていきました。登場する動物などは、その背景として描かれているに過ぎません。しかし本作において動物は象徴的とも言える舞台装置の中で、より前面へと押し出されています。登場する物体や動物などは、この舞台の中でこそ必然性のある在り方で、物語と共鳴し合うことになったのです。

とは言え、これは感覚的につくり上げた世界とも言えるでしょうね。例えば、あまりにも巨大であるがゆえに、中心がどこにあるのか見渡すこともできないあの「カンパニー」のような組織があったとして、それがどのようなシステムで機能しているのかに思いを巡らすことは世界設定の構築に役立ちます。

他の作品とは「異なる」と言うつもりはありませんが、新作は極めてオーガニックな作品となりました。全く思いも寄らなかったところから、浮かび上がってきた要素もありました。本書の場合、かなりの部分でそのようにストーリーが紡がれたのです。

ESQ:動物の話題が出たところなので、あの“狐”についてもう一度訊ねなければなりません。“狐”自身の語りとして、自身が狐であるという設定に、そもそも拒否反応を示していますね。いわく、狐たちは狐という立場に置かれることに合意したわけではないと…。

「人間世界の外で生きるというのが、どういうことか考えたことはあるかい?」と“狐”は言っていますが、どうやって動物の頭の中を言語化しているのですか? 狐としてのフィジカルな経験のみならず、そのエモーショナルな経験をあなたはいかにして獲得しているのでしょうか。

JVまず大前提として、狐としての経験を我が物にすることなど不可能なことです(笑)。その上で、意識していることがふたつあります。

まず、 “擬人格化”しないということです。これは多くの作家が常々気にかけていることでもあります。現代においてはポップカルチャーの中でさえ、さまざまな動物がひどい方法で擬人化されています。動物をまるで物のように見なそうというプロパガンダが、ありとあらゆるカタチで存在しているのです。動物もそれぞれが一個の生命体であるという事実に、人々の意識が及ばないように仕向けられているのです。

そしてもう一点。動物の性質を少し加工して描いています。動物本来の性質をどこかに残しつつも、なんらかの調整を加えています。それが私なりの文法と言えるでしょうか。露骨に反抗的な “狐”でさえ、システムの内部に囚われた存在なわけです。そんな“狐”ですので、私たちが望むようには人類の行いを許してはくれません…。また、自然界を食い物にし、他の生物に対して被害を及ぼしている人類の在り方を見逃そうともしません。

あの“狐”はかなり極端な性質を備えていますので、書くためには私自身の内面にその性質を構築する必要に迫られました。それはある種、大きな解放感を伴う経験でもありました。危険なアイデアであっても、それを試すことのできる実験装置としての役割を、フィクションは果たすべきなのです。

ESQ:「人間たちは、我々の存在によって恩恵を授かっているのにも関わらず、こちらなど顧みようともしない」と“狐”は言います。私たち人間が、再び動物の世界へと目を向けるためには、どうすれば良いのでしょうか? 自然環境に対する共感と配慮を、私たちは持ち得るのでしょうか?

JV動物の存在を日常的に意識し続けるのは、極めて重要なことだと思います。私自身SNSでは、野鳥のことを話題に挙げることが多くあります。

それは自宅の庭でよく目にするからですが、人々にとって身近な生物だからというのも大きな理由です。人々がもし一羽の鳥を個として見るようになれば、風景の一部として片づけられることなどなくなります。なので、これもひとつのアクションとしてやっています。

また、この庭を手に入れる以前は、私は植物に関する知識をまったく持ち合わせていませんでした。山歩きでも目に入るのは、鳥や動物ばかりだったのです。今では植物の生命にも意識が及ぶようになり、庭に備わる驚くべき生命力を感じています。植物もまた風景の一部などではなく、前面に押し出されるべき存在なのです。

私たちの多くは、既に自然環境から切り離された存在となって久しく、それが物事を難しくしていると言っていいでしょう。この問題から、私たちの目を逸らそうとするプロパガンダに晒(さら)されてもいます…。

アクティビストたちがいかに望んだところで、産業化以前の世界に立ち戻ることなど不可能です。これは困難な問題でもあります。環境学のクラスで、次のような発言をした学生がいました。「自分は大都市の出身で、動物をこの目で見たことなどありません。どうして私たちが自然について考えなければならないのでしょうか?」と…。

私はとっさに、「自然環境が人間の生存にとって必要だから」としか答えられませんでした。しかし、私たちがしているように、他の生命を蹂躙(じゅうりん)することは倫理的にも道徳的にも間違ったことなのです。

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「危険なアイデアであっても、それを試すことのできる実験装置としての役割を、フィクションは果たすべきなのです」

ESQ:地球という生命環境の中心に自らを位置づけている人間の過ちについて、作品の中で強調されていますね。

JV:「もし、人間が物事の中心から自らを退けることができるのであれば、そこに大きな進歩が生まれるはずだ」と、私は考えています。

地球が太陽系の中心ではなかった、つまり太陽が地球のまわりを回っているのではなかったという発見は、人類にとって大きな衝撃でした。そんな衝撃も、長くは続きませんでしたが、それでも人間という存在が万物の中心なのではなく、より大きな全体の一部分に過ぎないことに気づかされたことは、重大な発見だったのです。

ESQ:絶滅の危機とも言われているミツバチなどが、人々の気づきを促す効果はあるでしょうか?

JVより多くの人々が、問題の深刻さに気づきはじめていると感じていますよ。SNSに庭の写真を投稿し、そのことについて書くようになって驚いたことがありました。そのような投稿を続ければ、数千人単位でフォロワーを失うに違いないと覚悟していたのです。

ですが現実は、数千人単位でフォロワーが増える結果となりました。自宅の庭に対する見方が変わったという人々から、毎週のようにメールやツイートなどが届くようになったのです。「自分たちにもできることがあるのだ」と…。そしてそれは、「面倒なことでも特殊なことでもないのだ」と、人々が気づき始めているのです。

落ち葉を掃除したりせず、草花を刈り取ったりしないことが、この惑星に対する貢献となり得るのです。野の花を摘まないことで、変化を生むことができるのです。これは、誰にだってできることなのです。

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ESQ:「自己主張のある美、道徳の欠落した美に対しては、チェンは一切の興味を示さなかった」と作中にあります。自然について、特に気候変動によって失われつつある物事について語るとき、私たちは往々にしてそれを美と結びつけて語る傾向にあります。

…例えばサンゴ礁の問題ですが、まさに私たちの目の前で絶滅しようとしている美のひとつとして取り上げられることが多いわけですが、サンゴ礁をよりどころとして生きる生物については言及されず…サンゴ礁の美しさばかりが強調されています。自然を語る際に、その種固有の価値や美しさに焦点を当てるというのは、誤ったアプローチではないでしょうか?

JVそれは難しい問題です。アニマル・センティエンス(動物の持つ感覚や感情)に関して、私たちの行ってきた研究や調査があまりにもお粗末であることが問題をさらに難しくしているとも言えます。

例えば鳥類の知能について言えば、「これまで考えられてきたよりも倍の能力のキャパシティーがある」ということが分かったのが、つい2年ほど前のことに過ぎません。脳内の1マイクロインチ(0.0254ミクロン)あたりのニューロン(脳の神経細胞)の数が、人間よりも多いと判明したのです。

魚類が夢を見ること、そして社会性のある生物であることも明らかになりました。この世界は、私たち人間が未だ知らないことだらけなのです。かと言って、「あらゆる生物には、人間と同じように知性や自意識が備わっている」と言うつもりはありません。

しかし、私たち人間のとる意識的行動の多くが、実際のところ自由意思とは無関係であることなどが近年の研究で判明したりもしています。種の異なる他の動物と人類がいかなる関係性を持っているのか、また、その関係性について動物が(それぞれの種なりに)どれほど自覚的であるのか…そのようなことを知ろうと思えば、意識と自由意思の組み合わせについても考慮に入れることが極めて重要なのです。

可愛らしさや美しさを感じることと、人々がそれを救うべき対象と見なすこととの因果関係についても科学者は考慮しなければならなりません。可愛くも美しくもない動物に不利益が生じるといった状況は、現実的にしばしば起こっているわけですから…。

「システムの全てを人間が把握できている」などということはあり得ません。ヘビに襲われているカエルを助けたくなる衝動は私にもありますが、同時に、心の一部ではヘビにシンパシーを覚えてもいるのも事実です。このような心理の働きは、人間と自然との断絶を示す一例ではないかと考えています。

私たちの目には残酷に映ることが、自然界では起きます。ですが実際ところ、それもプロセスの一部にすぎないのです。そしてもちろん、人類もまた残酷なことを山ほどしています。

「落ち葉を掃除したりせず、草花を刈り取ったりしないことが、この惑星に対する貢献となり得るのです」

ESQ:「世界のすべてについて責任を負っているなどと、誰であっても考えるべきではない」とも小説の中で書いていますね。私たちが子の世代、そして孫の世代へと進む中で、人類が向かうべき方向性として示された言葉なのでしょうか?

JV考えを広め、人々を結びつけるために、ソーシャルメディアがとても便利であることは間違いありません。しかし同時に、ソーシャルメディアはあなたを押さえつけもするのです。例え良いニュースがあったとしても、それより多くの悪いニュースが飛び込んでくれば、人々は「もっと頑張らなければ」、「あらゆることに対処しなければ」と感じてしまうのではないでしょうか。

個人的な行動と社会システムとの相関関係を巡る議論などを、目にしたことはないでしょうか。シチュエーション次第ですが、物事とはその両者の組み合わせ次第なのだろうと私は考えています。ボイコット、つまり拒否という選択の持つ、極めて大きな力を私たちはもっと評価すべきです。個々のアクションが、実際の社会システムを体系的に変えてゆくことにつながります。しかし人々は、あまりにも多くのことを抱え込んでしまっており、それゆえ身動きが取れなくなっているのが現状なのです。

今や慢性的に、PTSDやうつ病の症状に苦しめられている気候科学者たちのことに思いを馳せずにはいられません。どうにかしてこの状況をやり過ごしながら、先を見据えつつ、行動し続ける道筋を見出さなければならないのです。

私自身は気候科学者ではありませんが、同じ問題を注視している人間です。庭と向き合うことが、日々をやり過ごしてゆくのに役立っていますし、おかげで目の前の瞬間に集中することができます。瞬間に生きるという感覚こそ、人々が失ってしまったものではないでしょうか。

ESQ:この瞬間を大切にするという状態を、私たちが取り戻すにはどうすれば良いのでしょうか?

JVそこには、自然の果たす役割が大きいと思います。自然環境の中に身を投じること、特に見知らぬ地域を探索する機会を持つことは、瞬間に生きる感覚の回復にとって大いに役立つものです。

五感を再起動させるのです。自然の中では、よほど鈍感な人でない限り目の前の瞬間を無視することなどできません。マインドフルネス、つまり意識的に物事を考えることこそが、私たちが改めて学習しなければならないものだと考えています。

「よし、身の回りの機材など何も持たず、公園に行こう。もしくは、近所を散歩でもしよう。いつもは気づかずにやり過ごしてしまう物事を見るためにも、目の前の瞬間に注意を働かせよう」と、意識的に考える必要があるのです。

ESQ:あなたの書いてきた小説が今やひとつのジャンルとして認知され、クライメート・フィクション(Climate Fiction)と呼ばれています。そのジャンルの役割が現在、議論されるようになりましたが…。あなたにとってクライメート・フィクションの目的とは、何なんでしょうか? 

それは…芸術なのか、もしくはアクティビズムなのか、もしくは両者の融合か、お聞かせください。

JV様々な媒体を用いて、この問題と格闘する表現者たちをたくさんご存じではないですか⁉ 「問題を掘り下げすぎれば、コマーシャルな小説から遠ざかったと見なされて読者を失ってしまうかもしれない。でも、もしコマーシャルに寄せ過ぎてしまえば、伝えようとするメッセージの複雑さを伝えることができず、結果として主張が損なわれてしまうかもしれない」と、葛藤がついて回るものです。

「クライメート・フィクション」と「サイエンス・フィクション」とは混同されがちですが、クライメート・フィクションとは、今まさに私たちが現実として直面している問題を映し出そうとするものです。なので、それが思索的でない現代小説であろうと詩であろうと、もしくは他の様式を取っていようと、気候危機に対する言及や取り組みであれば、あらゆるものがこのジャンルに含まれるはずです。

こうした問題を扱うために、SF小説を意識して書こうとする必要などないのだ…と人々は気づくべきなのです。例えば、まったく異なるテーマで書かれた小説の中に紛れ込む気候変動についてのささやかな言及など、それはとても効果的だと思っています。

そのような介入の方法こそが、大きなゆさぶりのトリガーになり得るからです。気候危機に対するメッセージを含むフィクションを書くということであれば、対象とすべきは気候変動を否定する読者層ではなく、問題意識をどこかに持ちながらも、この先30年くらいは手を打たなくてもまだ安泰だろうと楽観視しているような読者です。

考えるだけで行動に移さない人々の背中をしかるべき方向へと押すことが、クライメート・フィクションの役割と言えるのですから…。

《田内万里夫のこぼれ話》

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 『サザーン・リーチ』三部作(早川書房)で世界中の読者の度肝を抜いた、ジェフ・ヴァンダミアの最新作『DEAD ASTRONAUTS(死んだ宇宙飛行士)』(MCD x FSG)において描かれる終末的な世界は、現代を生きる私たち人類にとって想定し得る未来です。つまり、極めてリアルなフィクション世界を描き出すことで地球上の全生物規模の問題提起をおこなう、稀有な作家がヴァンダミアなのです。

 インタビューを読んでいただいてお分かりのとおり、ヴァンダミアの視線の先にある風景とは、人間の際限ない欲望を刺激することで“成長”を続けてきた資本主義経済に導かれる地球の末路です。地球規模の環境破壊を続けてゆくことで加速する気候危機は、この時代における最大の問題のひとつです。

 テクノロジーや高度資本主義により導かれる人類の未来を描き出そうとするヴァンダミアの物語世界は、サイエンス・フィクションというジャンルに括られてしまいがちですが、本人がインタビューで発言しているとおり、これは現実の延長線上に想定され得るリアルな物語です。すなわち今日を生きる私たちに対する予言であり、警鐘である言って良いのではないでしょうか。

 日本語で読むことのできるヴァンダミアの著作は、今のところまだ限られていますが、かつて小学校の図書館で手にしたジュール・ヴェルヌの『海底二万海里』(あの『バック・トゥー・ザ・フューチャー』の三部作の裏テーマでもあります)を読んだときのような興奮と恐怖とを呼び起こす極上のフィクションです。

 果てなき欲望に突き動かされる人類を待ち受ける現実とはいかなる世界なのか? ぜひ本書で体験していただければと思います、が、先ずは既に早川書房から日本語訳で出版されている『サザーン・リーチ』の三部作を味わってみてください。

 明日からの生き方が変わる、そんな読書体験を得られるはずです。―田内万里夫
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Source / Esquire US
Translation / Mario Tauchi
※この翻訳は抄訳です。