パドマ・ラクシュミ,padma lakshmi,インタビュー,インド系アメリカ人,
JENNIFER LIVINGSTON

「わたしはときどき、『神へ頼むべきではない』なんて思うことがあります。それを例えば具体的に言えば、『社会での昇進』などへの希望に対して…。そんなことより、神様にはもっとすべき大事なことがあるはず」、と言います。

51歳のパドマ・ラクシュミは現在、料理業界の大物です。Bravoで放送されている『トップ・シェフ』の司会を2006年以降のシーズンで毎回担当し、Huluの『テイスト・ザ・ネイション』の司会も2シーズン続けて行っています。さらに料理本を3冊出版しているほか、回想録も執筆。最近では初めての児童書となる、『Tomatoes for Neela』を刊行しました。


素晴らしいディナーパーティーというのは、きちんと整ったリンネルとか、ぴかぴかの銀皿なんかとは全く関係ありません。それは、いい招待客リストから始まります。あなたとしては、何らかの共通点がある人たちをお招きしたいところでしょうが、みんなが互いに顔見知りである必要もなく、その出会いを楽しめる人たちであればそれでいいのです。

私(筆者パドマ・ラクシュミ)は、やることをぎりぎりまで残しておくことが好きなんです。ほとんどの料理をつくったあとにはシャワーを浴びて、まだ誰も来ないうちにワインをグラスに1杯飲みます。そして、みんなが到着しはじめたら、みんなに手伝ってもらって一緒にサラダをつくるようにしています。それは、まずはその場を和ませるために…。

隔離生活に中、それに関わる多くのことに関して、特別気にはなりませんでした。静けさもそのひとつではありますが、その静けさにはいつも不安がつきまとっていたことは確かです。ですが、「早く外出できるようになりたい!」と、強くは思いませんでした。

そう、今回のパンデミックが、私から奪い去っていったものの数々を恋しく感じることもなかったのです。私はこの期間に、「自分の愛する人々を除けば、自分に必要なものはそれほど多くない」ということを学びました。

「子どものための本を、もっとたくさん書いていきたい」と、いまでは強く思っています。子どもたちが自分ひとりでも受け止められるような、わかりやすい言葉で説明してあげれば、例えそれが複雑な物事に関してもちゃんと理解できるのだと思っています。

私が子どもだった1970年代後半~80年代にかけて、ニューヨークの至る所をローラースケートで走り回ったことを憶えています。私はこれまで、豊かなニューヨークも劣悪なニューヨークも目の当りにしてきました。クイーンズ地区、アップタウンと住んできて、いまはダウンタウンです。ニューヨークという街は、多種多様な人々がそこに住めようでなければ面白くありません。でも、だんだんそんな状態ではなくなってきています。

パワフルなものと同じで、美も諸刃の剣なのです

私が娘のクリシュナに身につけてもらいたいと願っている最大のものは、「自分の直感に耳を傾けること」です。これは、私がごく幼いときに母から教えてもらったことで、私自身も「その感覚を身につけるよう筋肉を鍛えたい」と思っています。その力は、いわば筋肉による身体の反応そのものだと思っているからです。

もし娘が、突然ヒンディー語やタミル語をしゃべるのを真似るようになっても、私が“インド人のよき母”になったわけではありません。文化というのは家族に敬意を払うことであって、「インドの民族衣装を着ている」とか「ビンディ(=インドの女性が眉間につける丸い印)をつけている」といった外的認識だけではないんです。

われわれは、若い女性に先入観を植えつけてしまっていると言っていいでしょう。われわれが彼女たちに期待するのは、スマートでありセクシーで、素敵で、さらに野心的であることです。でも、野心的すぎてはだめなんです。パワフルなものと同様に美も、諸刃の刃と言えます。

私は現在、ツイッターの利用を控えるようになっています。自分の声を適切に使用することには興味がありますが、同時に、それは雑音にもなりうるんです。ときどき、「神へ願いを祈るばかりではダメ」って思うことがあるんです。私たちの「会社でも昇進」という願いなどをかなえる余裕があるなら、神様はもっとすべき大事なことがあるはずです。

移民の子どもとして、ふたつの文化の狭間(はざま)で成長することで私は、コードスイッチング(=複数の言語の切り替えを行うこと)を身につけることができました。ヨーロッパで仕事をするようになったときに、これは大いに役に立ちましたね。そのおかげで、より広い心が持てて、さらに言語を覚えることができました。そこで役立ったのが「食」の存在でした。「食」はその国の文化を知るための、手っ取り早い入口と言えます。

そんな私がいちばん恐れていること? それは、悪い母親になることです。伝統的な家庭を持つというプレッシャーを感じたことは、これまでありません。なぜなら、それは私に向かないものだと認識しているからです。私は、母がさんざん恥ずかしい思いをするのを見てきました。母は1970年代はじめに離婚をして––それが原因で、私たちはアメリカへとやってきたんです。

ひねくれた態度ではないですが––もしそれで、誰かを満足させられるのであれば素晴らしいことだと理解した上で大勢の聴衆の前で、どれだけ深く愛し合っているかを話すことを考えただけで「そんなの、どうだっていいことじゃない!?」って思っています。

失恋は、いくつになってもすることができます。「今回はきっとうまくいく!」と思っていても、結局はそういかなかったりするものではないですか?

そしてこれまで、お金が私を変えることはありませんでした。現在所有している資産がなかったころと同じような不安を、いまでも感じるいます。

私が性的被害を告発しなかった理由

これはxの内容です。詳細はそちらでご確認いただけます。
「初めて性的虐待を受けたとき、私は7歳でした。加害者の男は、母の2番目の夫の親族でした。周りの人に助けを求めましたが、(加害者の男を追及する代わりに)彼らは私のことを追い出しました。これが、私が被害を告発しなかった理由です。 #Why I Didn't Report」
これはxの内容です。詳細はそちらでご確認いただけます。
「2度目に性的暴行の被害にあったとき、私は16歳で処女でした。相手は、当時の私のボーイフレンドでした。80年代には、”デートレイプ”という言葉や概念が存在していませんでした。とても恐ろしかったのと同時に、恥ずかしいと思っていました。

これが、私が被害を告発しなかった理由です。 #Why I Didn't Report」

これはxの内容です。詳細はそちらでご確認いただけます。
「23歳のとき、3度目の性的暴行被害にあいました。そのときは、『誰も私のことなど信じてくれない』と思っていました。それにきっと、誰も彼(加害者の男性)に立ち向かいたくなかったはずです。(米最高裁のクラレンス・トーマス判事の元部下であった黒人女性)アニタ・ヒルが性的暴行の被害を告発したときの彼女が、世間からどのように扱われていたかを知っていたからです。これが、私が被害を告発しなかった理由です。 #Why I Didn't Report」

「性的虐待」を受けた過去があることを、Twitterに書いたのはとても軽率な判断でしたが、後悔はしていません。そうする必要があったんです、ほかの女性をサポートするためには、わざわざ名乗り出てるまでして、そこにいいことなんか何もありません。あるとすれば、後に続く女性たちが出てきてくれることくらいです。

若いころに、思う存分楽しまなかったことへの罪悪感があるんです。

そして、トラウマが消えることは決してありません。その痛みと向き合って、どうにか対処できるようになるだけです。

優雅に年齢を重ねるということは、「自分が昨日まで知らなかった世界について、年齢を重ねても依然として学ぶことへの強い好奇心が維持できる」を意味しています。どれだけ多くの昨日を生きてきたか? ではないのです。

いまはもう、思う存分楽しむことに何の罪悪感もありません。

…キッチンにある最高の道具ですか? そうですね、(彼女自身がグローバルなマーケットプレイス「Etsy」と提携して、お気に入りのキッチンアイテムの厳選されたコレクションを制作。その中でおすすめしている)木のスプーンですかね(笑)。

Source / Esquire US
Translation / Satoru Imada
※この翻訳は抄訳です。