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アカデミー賞作品賞候補『落下の解剖学』恐るべきポイント8

殺人か事故か―—夫殺しの疑惑と男女の悲哀。カンヌ国際映画祭最高賞受賞作にしてオスカー候補である『落下の解剖学』第96回アカデミー賞を前にその魅力をあらためて振り返ります。

By
anatomy of a fall aka anatomie dune chuteneon courtesy everett collection
Aflo

恐るべき作品。『落下の解剖学』ほどぐったりする作品はありません。 

『落下の解剖学』(劇場公開中)

疑念の中に<落ちて>いく――。

人里離れた雪山の山荘で、男が転落死した。男の妻に殺人容疑がかかり、唯一の証人は視覚障がいのある 11 歳の息子。これは事故か、自殺か、殺人か―。証人や検事により、夫婦の秘密や嘘が暴露され、登場人物の数だけ<真実>が現れるが――。

公式サイト

1

監督二人の“血みどろ”の闘いの末に生まれた物語

落下の解剖学
Carole Bethuel

壮絶な夫婦喧嘩を疑似体験できるこの作品は、実際にジュスティーヌ・トリエとアルチュール・アラリという映画監督カップルが紡ぎ出した共作であり、実際トリエは映画のPRツアーにおいて「血みどろになった」「死人がでるのではないか(どちらかが死ぬのでは)」と、その制作過程を劇的に宣伝していました。

ですがその魅力は、そういったドラマチックな制作秘話だけではなく、無論、パリ国立高等美術学校・エコール・デ・ボザール(Beaux Arts*)の入学試験の絵画科をパスした芸術エリートである監督の作品には、画角の構成、そして祖母の影響で観ていたという小津安二郎的な撮影方法、ヌーヴェルヴァーグ“っぽい”編集など、要素に“映画好き”が惹かれる美的蘊蓄(うんちく)もたっぷり含まれています。
 
*カンヌ国際映画祭批評家週間HPより

2

「結婚」というシステムの偽善を斬る

落下の解剖学
Aflo

しかし、本作において圧倒的なのは蘊蓄よりも、その物語性に尽きます。実の子どもにすらわからないあらゆるものを共有する、夫婦という関係。経済共同体として、次世代を育むパートナーとして、そして同じ欲望を共有する共犯者2人の企みが少しずつズレていき、そのひずみが不可逆的になった瞬間、夫婦はどうなってしまうのか…。

16~17世紀から続くロマンティック・ラブ・イデオロギー(もともとは11~12世紀の叙事詩に起源をもつ複雑な概念)の帰結とも言える近代家族への批判や、システムの破綻をも予感させる物語であり、モノガミー(一夫一婦制)がもつ偽善の領域に足を踏み入れるその大胆さに息を呑みます。

3

強烈な没入感

スワン・アルロー
Aflo

欲望に素直で偽悪的な役を妻に、良心的で偽善的な役を夫に据え、典型的ジェンダーロール(性的役割分担)を逆転させたことで見えてくる結婚システムの滓(おり≒けがれ)の部分を、夫の死の裁判を舞台に、夫殺しの犯人だと思いたい観客の視点(検察側)と、自殺だとしたい観客の視点(弁護側)をいったん二分します。

ところがこの作品は、冒頭に事件の真実を「どうでもいい」と打ち捨てます。そうすることで、この真実を求める法廷劇から、果てしない夫婦の闘争——もっと言えば、混乱状態に観客を巻き込むという、今流行りのイマーシブエンターテインメント*もびっくりの没入型体験を、映画というある意味クラシックなコンテンツで実現してしまおうという試みと言えます。

しかも、IMAXナシで…。そう受け止めると、ひれ伏すしかありません。

※観客が視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚などの五感を通じて、作品の世界に没入できるエンターテインメントのこと。従来のエンターテインメントとは異なって、観客は受動的に観賞するのではなく、作品世界の一部として積極的に参加することで、より深い体験を得ることができる。

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4

『ローズマリーの戦争』より100倍恐ろしい夫婦喧嘩

映画 落下の解剖学 anatomy of a fall
Aflo

映画の英題『Anatomy of a Fall』はロバート・トレイヴァ―の『Anatomy of a Murder(映画『或る殺人』の原作)』を彷彿とさせますが、この小説は仏語タイトルが『Autopsie d'un meurtre』のため、原題『Anatomie d'une chute』は『或る殺人』との類似よりも、“chute(転落、脱落、不成功)”という単語のほうに意識が向きます。(ちなみに東京創元社から出た日本語訳の小説は、『錯乱―ある殺人事件の分析』)そのため、本作が夫婦の話だとわかるとすぐ「離婚話か何かなのかな…」と容易に推測できます。

このようにカップル間の葛藤を前面に出し、一度も緊迫感を手放すことなく妻と夫の戦争を見せつけるその過程は、嘘と新たな真実と猜疑心(さいぎしん)の波状攻撃。多くの夫妻が家の中で何年もかけて蓄積させていく互いへの不満と不信感を、だんだんと「知る」ことになる息子の視点になったかのように錯覚させられます。

『ローズ家の戦争』(1989年)や韓国ドラマ「夫婦の世界」(2020年)といった、夫婦の闘争を素直に傍観する作品より100倍恐ろしい仕上がりです。

5

恐るべき子役

ミロ・マチャド・グラナー
Aflo

一方でこのおそるべき作品には、恐るべき若き才能が2人登場しています。1人目は息子サミュエルを演じたミロ・マチャド=グラナー(マシャ=グラネ)。弟のソランと兄弟で俳優として活躍するミロは、実際にとても賢い子のようで、本作の受賞ラッシュで訪れることになったあらゆる国の映画賞では15歳(カンヌ映画祭参加時は14歳)にしてしっかりとした受け答えを英仏語でこなしています。

この映画では結末を知らせることなくその場面ごとに必要なセリフを言わせる演出方法によって、彼の演技そのものが父の死が自殺か他殺なのか? 母を信じたいが信じていいのか?――あやふやな脆さを表現する要となっています。

これは是枝裕和監督なども採用していると語る手法ですが、この仕事が演出によるものだけで済むはずがなく、膨大な台詞と複雑な設定を理解したうえで英仏語を使い分け、ピアノまで弾いて、さらには犬とのパートナーシップも構築しなければいけない、これらは並の子どもではできない芸当。彼の演技だけでも一見の価値ありです。

6

恐るべき犬役

これはyouTubeの内容です。詳細はそちらでご確認いただけます。
"Anatomie d'une chute": on a rencontré le chien Messi qui joue Snoop dans le film
"Anatomie d'une chute": on a rencontré le chien Messi qui joue Snoop dans le film thumnail
Watch onWatch on YouTube

そしてもうひとりの才能こそ、その犬メッシ君です。ボーダーコリーのスヌープは激中命の危険にさらされるわけですが、そのシーンをどうやって演じたのか? 気になって眠れないくらい鬼気迫った表情をしています。

メッシはこの難役をどうこなしたのか? 本人に訊けないことは心苦しいですが、アニマルコーチがそれを解説してくれています。こちらも相当な賢さです(とは言え、大変な愛犬家であるトリエ監督は、如何にメッシに危険な思いをさせないか苦心したとのことでした)。

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7

政権に喧嘩を売っても大成功

落下の解剖学 映画
Aflo

この作品のすごいところは、それだけではありません。

パルム・ドール受賞スピーチでトリエ監督は、「今年、年金改革へ(受給年齢の引き上げ)の全国的抗議運動がひどいやり方で潰されたけど、映画だって例外じゃない。ネオリベ野郎がやってる文化の商業化は、そのうちこの国の独自性さえダメにするかんね(意訳)」と発言。

政治的は発言だと罵(ののし)られ、マラク文化大臣は「オマエ、助成金もらっておきながら生意気。ぜってぇあの発言忘れねえ(超意訳)」と敵対視。その報復か、忖度した(かもしれない)フランスのアカデミー賞選定委員会はカンヌ映画祭監督賞の『ポトフ 美食家と料理人』を国の代表作として米アカデミー賞に選出。本作は国際長編映画賞の候補から落選させられました。

にも関わらず、こうして世界中の映画賞を席巻し、米アカデミー賞では国際長編映画賞どころかメインの作品賞をはじめ5部門の候補となってしまいました。それほどアカデミーにとってインパクトのある作品だったということでしょう。

8

興行的にも大ヒット

パルム・ドール受賞時のジュスティーヌ・トリエ監督と共同脚本を手掛けたパートナーのアルチュール・アラリ  palme d or winners photocall the 76th annual cannes film festival
Pascal Le Segretain//Getty Images

皮肉なことにそんな『落下の解剖学』は現時点で国内動員160万人を超え、世界動員470万あまり、世界興行収入約3100万ドル(約46億円)という、2023年公開の「もっとも成功した」フランス映画になってしまいました。2時間半も上映時間があるにもかかわらず…。

『オッペンハイマー』や『哀れなるものたち』といった壮大なスケールの物語と並んだアカデミー賞作品賞のリストの中でも、決して見劣りすることのない閉ざされた世界観の本作にこそ、「映画の力」を五感からリアルに見いだせる作品と言っていいかもしれません。

(写真)パルム・ドール受賞時のジュスティーヌ・トリエ監督と共同脚本を手掛けたパートナーのアルチュール・アラリ 

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