1955年9月30日の夕方遅く、脚本家のウィリアム・バストはロサンゼルスの狭いアパートでスーツケースに囲まれながら、タイプライターに向かって映画の構想を練っていました。翌朝には親友であり、かつての恋人でもあるジェームズ・ディーンから、「一緒に住もう」と誘われたカリフォルニア州ロサンゼルス郊外のシャーマン・オークスにある大きな借家に、スーツケースを運ぶことになっていました。

数十年後にバストが語ったところによれば、「ディーンは言葉に詰まりながら否定と疑問に満ちた長くややこしい求愛を行い、友人としてだけではなくパートナーとして、そして恋人として、一緒に暮らすことを望んでいた」ということです。

やがて…日が暮れるころ、いきなり電話が鳴ります。そこで、まだ24歳だったディーンが駆るシルバーのポルシェ「550スパイダー」がカリフォルニアの砂漠で衝突事故を起こし、ディーンも死亡したという知らせを受けるのでした。バストはその衝撃で電話を落とし、椅子から転げ落ちて気を失ってしまいます。

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その後半世紀もの間、彼はディーンの評判を守り続けます…。

世界で最も有名な映画スターとして、何百万人ものにものぼるファンたちのアイドルであったディーン。マスコミによる執拗な追求によって、性的指向に関する噂も浮上することもありましたが、バストはそれを全力で否定し続けてきたのです。

そうしてディーンは、亡くなることによって世代を超え、大勢のファンたちが空想や自分自身を存分に投影できる…静かで完璧な、そして永遠のセレブリティになったのです。自身、苦労して手に入れようとしていた名声、愛、そして称賛も、自らの死によって手中に収めることを完遂したというわけです。 

半世紀以上
ロールモデルとして
愛されているディーン

ブルージーンズをはいて壁に寄りかかっている写真は、あまりにも有名な彼のポートレートとして多くの人々の脳裏に刻まれています。それもあって、「ジーンズをアメリカのユニフォームにしたのはディーンだ」と世界的に信じられ続けているのも事実。

このように65年以上経った今日でも、彼はポップカルチャーに欠かせない存在となっているのです。今でも彼の肖像が使われているだけで、ブルージーンズから自動車、高級時計まで、あらゆるものが売れていきます。ニューヨークの街を歩いている写真や、カウボーイハットをかぶってくつろいでいる写真は、数多くの大学生の寮の壁に飾られています。何世代にもわたって、デビューしたても俳優たちは決まって“次のジェームズ・ディーン”になるために競い合ってきたのです。若き日のマーティン・シーンやルーク・ペリー、KJ・アパなど、ディーンを彷彿とさせる俳優たちが半世紀にわたって続々とハリウッドを席巻してきたことを振り返れば、ディーンの偉大さを再確認できるはずです。

またディーンの名前は、デヴィッド・エセックスの名曲『Rock On』からジョナス・ブラザーズの『Cool』まで、数多くの人気曲にも登場しています。2021年の春にカスケードがリリースした『New James Dean』も然り…。ポルノスターが、ディーンの名前を借りたことだってあります。

そんなディーンは、2021年11月に79歳となるジョー・バイデン大統領が思春期を迎えようとしていた頃に活躍し始めました。ですが、その代表作と言えるのはたった3本の映画。とは言え、ほとんどの人が名前を覚えているのはそのうち1本か2本、『East of Eden(エデンの東)』(1955年公開)か『Rebel Without a Cause(理由なき反抗)』(1955年公開)であることを考えるなら、これは逆に驚異的なトップランナーとも言えるでしょう。そんな彼の最後の映画となった『Giant(ジャイアンツ)』(1956年公開)が初めて公開されたときから、今年で65年間もの月日が経過したことになるのです。

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ポップカルチャー内の主たちは、ジェームズ・ディーンが亡くなった瞬間から彼を際限なく再考し始めました。「彼はストレートでありながらもバイセクシュアルであり、ゲイでもある」という噂が浮上したかと思えば、違うところでは「繊細でありながら攻撃的でもある」などとも…。さらには「誤解されやすいタイプであるが、人を操ることも上手」「最高の人間であり、最悪の人間でもあった」などなど、さまざまなカタチで解釈されてきました。

そうして数十年もの時が流れ、新しい情報がゆっくりと世に浮上することで社会の風潮は一変してきます。そんな現代における「ジェームズ・ディーン」という1人の人間としての姿と神話的存在感のバランスもまた変わってきました。

最近のGallup社の調査によれば、Z世代の6人に1人が“クィア”であると自認しているとのこと。“クィア”とは「LGBTQ」における「Q」にあたり、「Questioning(クエスチョニング)」とも言われ、性的指向や性自認が定まっていない人を意味します。このようにジェンダーの役割やセクシュアリティに関する古い概念が否定されるようになった現在、そんな新たな世代の存在も強まってきたことに呼応するカタチで、やっとジェームズ・ディーンの本来の姿が見えてきたのです。

20世紀から活躍してきた多くのスターと比較しても、「彼ほど現代における最先端の男らしさ、人間らしさとは指し示めしてきた者はいない」ということがここで確認できるはずです。と同時に、既成概念を大切にする当時の保守派によって、ディーンの遺産はことごとく検閲されていたというも…。さらには、それを頭ごなしに批判することで、そこにある先進的な可能性を抑え込んできたという事実の存在にも、多くの人が気づけたことでしょう。

ディーンの真のセクシャリティ

いわば彼は、約70年前に存在したZ世代だったのです。

広告会社Bigeyeが最近行った調査によれば、Z世代の50%が「従来の性別二元論は時代遅れだ」と述べています。ですがジェームズ・ディーンはそれを1950年代にやってのけていたのです。抑圧された中心部で一人、その性別の境界線を曖昧にしようとしていたとも言えるのです。

彼はスポーツと演劇、オートバイと芸術の両方を愛し、自己中で自己陶酔型…いわゆるナルシストでもありました。ですが、社会的に疎外された人々とも仲良くしていました。彼は傲慢ではありましたが、自己不信にも悩まされていたのです。鏡に向かって数えきれないほど自撮りをしたり、今で言う「Like」を人々から得るためにとんでもないスタントまでしていたのです。また、人前で泣くことを恐れていませんでした。

スクリーンに映る彼は、一瞬で激しい感情を表現できる人物であり、涙や悲鳴はお手の物、雄叫びもすぐさま爆破できる演技力でした。そして、同年代の若者では表現できないような気の弱さを見せました。10代のファンにとっては、彼は自由の象徴でもありました。ですが一方で大人のアンチにとっては、彼は不愉快で女々しい存在だったのです。

新進の映画評論家だったポーリン・ケイルは、1955年に「彼の演技を観ることは、ホモセクシュアルのクルージングの場で、下品なエロティシズムに出くわすようなものだ」と不満を漏らしています。無意識のうちにケイルは、ディーンの中にある隠れた「理由なき反抗」を感じ取っていたのでしょう。

そもそもの問題は、ケイルはディーンがストレートではないことに気づいていたからに他なりません。

american actor james dean
Sunset Boulevard//Getty Images

1951年の夏、まだ20歳だったディーンは、かなり歳の離れた広告代理店の重役ロジャース・ブラケットと出会い、誘われてブラケットの家に同居。そして、ベッドを共にしたとも言われています。作家ロナルド・マーティネッティが1975年に出版したディーンの伝記『The James Dean Story』によれば、グローバルな視野を持つブラッケットに会った大学の友人は、ブラッケットのことを「同愛者だ」と言っていたことがつづられています。

ディーンは自分も同じように思われることを恐れ、「知ってるよ」と返事をし、友人やエージェントには「別々のベッドで寝ているよ」と嘘をつきました。ですが、それはあまり効果がありませんでした。

一方ブラケットは、マーティネッティに「私はジミーを愛し、ジミーも私を愛した。ただの父と息子のような関係だけではなく、もっと二人だけの特別な…近親相姦(incestuous)的な想いもあったね」、と話しています。

権力者と世間からの
容赦ない扱い

有力者たちはあれこれと憶測をたて、1952年にテレビの生放送に出演したディーンは、監督から「フェラをさせてくれたら、もっといい役を用意できるかも」と言われたそうです。それを拒否すれば、自分のキャリアが終わってしまうことを知っていたディーンは、ことが終わるまで天井を飛び回るハエに全神経を集中させていていたとのこと。このような行為はさまざまな権力者との間で何度も行われたようで、後に彼は「売春婦になったような気分だった」と語っています。

前出の脚本家ウィリアム・バストは、ディーンが「大したことじゃない」と言っていたのを覚えていますが、数年後、彼は怒りしか感じなくなっていたのです。そうしてこの悲しい経験の数々によって、彼は無礼で攻撃的で、危険な行動をとるようになっていったわけです。「自分を不当に扱った社会に対する、ディーンなりの復讐の手段だったのでは」と、バストは考えたそうです。

次第にハリウッドでは、「ディーンはバイセクシャルか、ゲイではないか?」と噂されるようになります。一方で、彼が所属していたワーナー・ブラザーズは、ロック・ハドソンとタブ・ハンターというカミングアウトしていない2人のゲイと一緒に、最も魅力的な独身男性として彼を宣伝していました。

ディーンは性的というよりは、感情的な交わりが多かった女性たちとの短く、激しく、波乱に満ちた関係を繰り返し、感情的なものよりも性的な交わりが多かった男性たちとの密かな関係を経験してきたのです。当時、多くのメディアがディーンの性的指向を特定しようと躍起になり、ストレート、バイセクシュアル、ゲイ、アセクシュアルなどさまざまな主張がなされましたが、彼自身はそんなレッテルを貼られることに抵抗を感じていました。

それはこのレッテルが、「男らしさ」という大きな問題と結びついていたからです。当時、“ホモセクシュアル”というワードは、彼が共感できない女々しいステレオタイプの代名詞であったため、バスケットボールやクルマのレースが好きなディーンにとって納得のいくものではなかったのです。「私は同性愛者ではありません」と、ディーンは「ゲイであるのか?」を率直に尋ねた記者に答えています。

そして、「でも、苦労せずに生きているわけではありません」と、ディーンは続けて答えてもいます。

代表作『理由なき反抗』に
隠された物語

1955年、スーパースターになりかけていたディーンはワーナー・ブラザースの検閲を無視して、映画『理由なき反抗』の中にニコラス・レイ監督と協力して、「同性愛者のラブストーリー」を静かに織り込んだのです。“同性愛嫌悪”がまん延する50年代に、です。この映画は、「“戦後における男らしさ”とは何か?」が問われている作品です。

ディーンは共演者のサル・ミネオに、彼が演じるプラトンがディーンに惹かれていることを表現して演じるようアドバイスし、ミネオは熱い眼差しでこれを実現しました。映画の最後でディーンは、プラトンの死に号泣しながら“恋人の嘆き”を表現していました。

この作品に対し、何世代ものクィアの男性たちは「映画で初めて、10代の同性における恋愛に関して共感を持って描いている」ということに希望を見出していました。ですが半世紀の間、ストレートの視聴者のほうはこのことにほとんど気づきませんでした。カトリックの道徳的監視機関であるNational League for Decencyでさえ、この映画を「問題なし」と評価しました。映画評論家ロジャー・イーバートが、2005年になってようやくこの映画の同性愛的要素を認めましたが、「その程度はごくわずかだ」と言っています。しかし観客の中には、ディーン本来の姿に気づく者も増え始めます。そして、その実情を知れば知るほど、居心地が悪くなっていく者も増えていったのは確かでしょう…。

ディーンが亡くなった瞬間、彼の人生は肉体とともに粉々に砕け散りました。

割れた鏡に映った断片のように、後に“本当の”ジェームズ・ディーンを探ろうとする人たちは、決してフィットしない断片から歪んだイメージを組み立てるしかありませんでした。ディーンに関する山のような伝記や回想録を読むことは、アメコミに欠かせないマルチバース(multiverse=複数の宇宙の存在を仮定した理論物理学による論説)に入るようなものです。

1931年の誕生日、そして幼い頃に母親を亡くしたこと、インディアナ州の親戚の農場で過ごした思春期、テレビやブロードウェイ、映画での急成長など、それぞれのバージョンのディーンにはいくつかの基本的要素の共通性が見い出せます。

ですが、現存する彼のことをつづった書物それぞれを読み比べると、「同じ人物なのか?」と不思議に思うかもしれません。ジャーナリストや作家が、彼の短い人生とわずかな証拠書類から伝記をつくろうとするたびに、ジェームズ・ディーンは映画で演じたキャラクターと絶望的に絡み合っていきます。彼のイメージが持つパワーを説明する必要があった著者たちは(そのほとんどが男性です)、本物のディーンに自分自身の姿を投影してきたとも言えるでしょう。

最も人気のあるディーンの伝記のひとつ、『ローリングストーン』誌の共同編集者でニューエイジに傾倒していたデイヴィット・ダルトンがつづった『James Dean: The Mutant King(ジェームズ・ディーン孤独の生涯)』の中には、多神教の神話を取り上げながら「ディーンは、エジプトの神オシリスの化身である」と真剣に結論づけています…。

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John Kobal Foundation//Getty Images

24歳の若さで亡くなった
国民的スター

1955年9月30日に訪れたディーンの死に対し、全米のティーンエイジャーやヤングアダルトたちはまるで親友を失ったかのように受け止めていました。女子はそのニュースを聞いて気絶し、男子は涙をこらえていました。多くの人がディーンの死を信じようとせず、何百ものファンクラブが設立され、「亡くなったスターには、毎月5千通ものファンレターが届いていた」とのこと。

彼らが映画のスクリーンで観た人物をどれほど深く愛していたか? 今となっては想像もつきません。この前代未聞の国民的な悲しみは、もしかすると、後のアメリカに新たな愛を抱くきっかけのひとつになったのかもしれません。

ディーンが亡くなった数週間後に公開された映画『理由なき反抗』には、ティーンエイジャーが殺到します。不満を抱え、“本物”の男になろうと苦悩する、クールさと弱さを兼ね備えたヒーローに、自分たちの姿を重ね合わせたのです。

ここで突然、10代の少年たちは力と目的、そして解放的なロールモデルを手に入れたのです。彼らの親の世代のほうは、自分の息子も同じように「神経質で女々しいクィアになるのではないか?」と心配し、この映画を嫌ったのです。そして大人たちには、これを制御する十分な力もあったのです。

後にワーナー・ブラザースは、ディーンのプロフィールを健全なものにするため、さまざまな人生の問題点を削除し、彼の怒りや尖った面を丸く削り取ります。その反抗的な行為を、俳優としてのパフォーマンスであったかのように装飾し、10代の親たちに受け入れられるようにします。

ディーンが亡くなった翌年、出版社バランタイン・ブックスはウィリアム・バストにディーンの伝記作成を依頼しました。バストは頼まれるまでもなく出版社の命令に従い、ディーンの人生からクィアな要素を排除し、彼が愛した男を守り続けました。

ですがクィアの人々は、バストの伝記や映画の中に存在する…ストレートの観客が気づかなかった点を見抜いていたのです。クィアの劇作家であるウィリアム・サマセット・モームも、後にゲイ活動家となるジャック・フリッチャーも、この作品を読んだだけで十分理解していたそうです。

「ジェームズ・ディーンは男性的で、金髪で、セクシーで、カリフォルニア的で、アメリカ的で、ゲイだった」と、フリッチャーは10代の頃に夢中になっていたディーンを振り返っています。「私はジェームズ・ディーンが欲しかったし、彼になりたかったんだ」とも。

「私は同性愛者じゃない
でも、苦労はしてきたよ…」

1956年、『エスクァイア』誌は「THE APOTHEOSIS OF JIMMY DEAN(ジェームズ・ディーン崇拝」と題して、粉々になったガラスの下にディーンの顔を描いたイラストを掲載しています。そして1959年には『エスクァイア』創刊50周年を記念して、著名な小説家ジョン・ドス・パソスにディーンについての執筆を依頼します。

ドス・パソスは、「邪悪な」ディーンの「まるで男女(おとこおんな)のような失敗した男らしさ」を酷評し、10代の少年たちが女々しいディーンの服装や行動を真似し、虚栄心や自己愛が強く、感受性が強すぎることを嘲笑します。実際、彼らは性別を超えた存在であり、そんな若者たちはもちろん、気にも留めていませんでした。

若者たちは、大人たちに笑われても関係ありませんでした。彼らは、より自由で素直な男らしさの概念を見い出していたのです。少なくとも、しばらくの間は…。しかしこれはまだ20世紀の話、そんな彼らも年を取るにつれて、その過激さは失われていったことは否めません。

世間がつくり上げた
ジェームズ・ディーン
という人物像と現実の齟齬

1970年代半ばには、ディーンが男性と性的関係を持っていたことを公表した4冊の伝記が出版されました。これを振り返ってみれば、ディーンを崇拝していたストレートの少年たちが中年男性となり、「裏切られた!」と感じたことは容易に想像がつきます。

ジェームス・ディーンこそ、彼らにとって男らしさの手本となっていたのですから…。さらには、ゲイの権利運動の始まりを告げる「ストーンウォール暴動」の後、文化評論家のパーカー・タイラーやジャック・バブシオのようなオープンなクィアの男性たちが、ディーンをゲイ解放のアイコンとして主張します。彼の写真はゲイバーに飾られ、サンフランシスコ初のレザーバー(ゲイのBDSM愛好者向けの場所)「Fe-Be's」では、ミケランジェロのダビデ像を、レザーをまとったジェームズ・ディーンにつくり変えたバイカー像を制作しています。

その結果、「異性愛者として(当時の)男らしさを裏切った亡きディーンを罰する」という風潮が生まれました。ストレートとゲイの両方の著者が、「ディーンは性犯罪者であり、社会病質者であり、バロック的な方法で間違って思い描いていた彼の性生活を恥じるべきだ」と主張し始めたのです。伝記作家ヴェナブル・ハーンダンに至っては、「ディーンがゲイのセックスワーカーであり、すべての行為が下品で過激すぎる」と主張します。

映画監督であるケネス・アンガーがつづった『Hollywood Babylon II』の中で、ディーンがタバコで自分自身の肌を焼いている様子がつづられています。アンガーはこれを、「性的自罰」と表現しています。

また、いまから5年前の2016年、伝記作家ダーウィン・ポーターは、「ディーンはマーロン・ブランドとの性的な主従関係の中で、マゾの立場にあった」と主張しましたが、そこには虐待に近い不快な色合いも帯びていました。

ディーンの映画『ジャイアンツ』について研究したドン・グラハムは、「ディーンを社会病質的でありながら攻撃的なストレートの性的捕食者で、力のある年上の男性を陥れるためにセックスを組織的に利用していた」という考察を主張しています。

さらに2021年の夏、『L.A.コンフィデンシャル』の著者ジェイムズ・エルロイは新作『Widespread Panic』の中でディーンに関して、「悪者であり、セックスワーカーであり、ポルノ製作者であり、不道徳な中性的な性の狂人」として描きました。

ディーン自身がかつて、「僕は本当は優しくて穏やかなんだ」と言っていたことを思い出します…。

しかし、今や本を読む人は少なくなりました。本の中身について聞いたことがある人は、ほとんどいないでしょう。LGBTQ+コミュニティや学界以外では、ジェームズ・ディーンの性生活は半世紀遅れのニュースとして扱われています。

ハリウッドとマディソンアベニューは、ディーンのイメージの力を信じており、1950年代のワーナー・ブラザーズの宣伝キャンペーンからそのまま切り取ったような、くすぶったストレートの男性という異なるジェームズ・ディーンを長い間大衆に売り込んできました。そのジェームズ・ディーンは、テレビの伝記映画や「トミー ヒルフィガー」や「モンブラン」などのブランドの煌びやかなキャンペーンで見られるように、70年間にわたってアイコンイメージとなり、沈黙と安全を守る映画の聖人となりました。

このことは、ある程度理解できます。

広告主やプロデューサーはかつて、メインターゲットはストレートの消費者であるため、同性愛者を起用することで大きな反発を受けることを懸念していました。そんなイメージ戦略によってジェームズ・ディーンは、今でもアメリカで最も稼いでいる亡くなった有名人の1人になっています。『フォーブス』誌の最近の年間ランキングによると、今でも年間850万ドルもの収入があるということ。

皮肉なことに、「クールな反逆者」というジェームズ・ディーンのイメージは意図的なパフォーマンスであり、映画の役柄に混じって彼の人生を表す伝記の破片のように、不完全に彼を代弁する写真のようなものだったのです。

ですが、イメージの背後にある本物の、複雑で、不安で、オタクで、クィアな人物は、危険で衝撃的なほど現代的であり、21世紀の人生を歩むために戦ってきた20世紀の男性(英雄とも…)です。

そろそろ、その本当の姿を認めてあげるときではないでしょうか。

Source / ESQUIRE US
Translation / Yuka Ogasawara
※この翻訳は抄訳です。

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