現地時間2022年10月2日(日)、サチーン(サシーン)・リトルフェザーがカリフォルニア州北部(サンフランシスコのすぐ北)にあるナヴァトの自宅で逝去しました。

映画芸術科学アカデミーは2022年6月にリトルフェザーと和解し、9月17日(土)に彼女を称える式典を開催したばかりでしたが、日曜日の夜、ソーシャルメディアでこのニュースを明らかにしました。リトルフェザーは2018年に乳がんと診断されたことを公表しており、近年その症状がさらに進行していたということです。

1973年アカデミー賞受賞拒否事件のあらまし

映画史に残るあの事件の顛末は、以下のようなものでした。

マーロン・ブランドは1973年3月に開催された第45回アカデミー賞授賞式において、主演男優賞を受賞するもボイコットします。それは、映画におけるネイティブ・アメリカンのの描かれ方に対しての抗議であり、同年2月にアメリカン・インディアン運動(AIM)のメンバーおよそ300人がサウスダコタ州の(1890年、アメリカ軍の騎兵隊が民族浄化としてネイティブ・アメリカンを虐殺した事件)町ウンデッド・ニーで数千人の連邦保安官や他の連邦捜査官と対峙した「ウーンデッド・ニーの占領」に敬意を表してのこととでした。

授賞式でプレゼンテーターのリヴ・ウルマンとロジャー・ムーアがマーロン・ブランドのアカデミー主演男優賞受賞を告げると、テレビカメラは当時26歳のリトルフェザーを映します。すると彼女は、アパッチ族の伝統的なドレスで壇上に向かい、アナウンサーのドロシー・チャンドラー・パヴィリオンが「欠席した『ゴッドファーザー』のマーロン・ブランド氏に変わりサチーン・リトルフェザーさんが最優秀主演男優賞を受賞します」とアナウンスしました。

しかし、壇上に進んだリトルフェザー氏はオスカー像を渡そうとするロジャー・ムーアを右手で遮(さえぎ)り、「ワシントンポスト」が伝えるところによれば約8.5億人の視聴者に向けて「(ブランドは)大変残念ながら、この非常に好意的な賞を受け取ることはできません」と話し始めたのです。

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Marlon Brando's Best Actor Oscar win for "The Godfather" | Sacheen Littlefeather
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これにはブランドの指示があったことを、同記事は伝えています。ブランドは彼女にオスカー像に手を触れないよう伝え、彼女に8ページにわたるタイプしたスピーチ原稿を授けていました。ですが、放送プロデューサーはリトルフェザー氏に、「持ち時間は60秒しかない」と言ったのです。

そこで彼女は、「原稿があるけれど時間の都合で読み上げることができない」とした上で、スピーチを敢行。「今回の受賞拒否理由は、現在の映画業界でのアメリカン・インディアンの扱い方、及び最近のウーンデッド・ニーでの出来事によるもの」であることを語りました。その後、「ニューヨーク・タイムズ」紙は彼女が読み上げるはずだったブランドが用意したスピーチ全文を3日間にわたって紙面で公表しています(ウェブ版はこちら)。

アカデミー賞会場でのリトルフェザーの発言は、ブーイングと喝采両方を受けました。当時はコレッタ・スコット・キング(公民権活動家)やシーザー・チャベス(労働組合指導者)などひと握りの人々の賞賛を除き、直後の世論は概ね否定的なものだったのです。いくつかのメディアは、彼女のネイティブ・アメリカンとしての血筋(父親がアパッチ族とヤキ族の血をひき、母親は白人)の正当さを問いながら、「衣裳も授賞式用に借りたものだろう」とデマまで流しました。ジョン・ウェイン、クリント・イーストウッド、チャールトン・ヘストンなど、西部劇に数多く出演した保守派の俳優はブランドとリトルフェザーの行動を批判したとされています。

サチーン・リトルフェザー
Bettmann//Getty Images
1973年アカデミー賞授賞式でスピーチをするリトルフェザー。

俳優人生を引退に追いやったハリウッドとアカデミー

その後の彼女は、いばらの道を歩むことになりました。

1973年のアカデミー賞授賞式の直後、リトルフェザーはサンフランシスコのアメリカンコンサーバトリーシアターで演技を学ぶための全額奨学金を受け取ります。「ダンスと演技は、私にとって現実からの逃避でした」と、彼女は2010年に「ザ・ネイティブ・アメリカン・タイムズ」に語っています。

その後、彼女はハリウッドで本格的な役柄を見つけるのに苦労しました。「アメリカ人はブロンドの、サンドラ・ディーのようなルックスを好みます。イタリアの映画でセリフ付きの役を貰いましたが、それは彼らがエキゾチックなものが好きだったからです」と、リトルフェザーは述べています。

サンドラ・ディー
Silver Screen Collection//Getty Images
サンドラ・ディー(Sandra Dee)1965年撮影

リトルフェザー氏はアカデミーでの「事件」の数年前、ワシントンで連邦通信委員会で人種とマイノリティについてのプレゼンテーションを行ったときに初めてマーロン・ブランドと出会っています。

リトルフェザーは、「1970年代にはAIMやインディアンの公民権運動があり、私も参加していました。私はテレビや映画で描かれる典型的なネイティブ・アメリカンのスポークスパーソンだったのです。そのとき私が言いたかったことは、チャック・コナーズ(※1)にジェロニモ(※2)の役を演じて欲しくないということだけでした」と述べています。

※1 元プロ野球・バスケットボール選手。引退後ハリウッドに進出した白人俳優 
※2 ネイティブアメリカン、アパッチ族の英雄。対白人抵抗戦線の象徴

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Sacheen: Breaking the Silence - Official Trailer
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2018年に上映されたドキュメンタリー映画『Sacheen: Breaking the Silence』で、1973年当時アカデミー賞授賞式に着ていくドレスがないとマーロン・ブランドに話すと、「彼は『君のバックスキン(のドレス)を着ればいいじゃないか』と言いました」とリトルフェザーは述べています。

アカデミー賞の3カ月後、マーロン・ブランドは「ディック・キャヴェット・ショー」に出演し、「サチーンが恥ずかしがった。彼女は意図したことを言えなかったし、それが私自身に向けられていたとしても、人々がブーイングや口笛、足踏みをしたことに心を痛めました。少なくとも、彼女の話を聞く礼儀はあったはずだ」と述べました。

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Marlon Brando on Rejecting His Oscar for 'The Godfather' | The Dick Cavett Show
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ブランドの目論みは、ウーンデッド・ニーへの関心を新たにするという効果を狙ったものでした。ですが、リトルフェザーにとってそれは、「自身の命を危険にさらし、俳優としてのキャリアを台無しにした…映画科学アカデミーでの会員資格を失い、業界からも追放された」としています(アカデミーは1973年の彼女のスピーチ後、受賞者が代理人を立て、自分の代わりに賞を受け取ったり拒否したりすることを禁止しました) 

リトルフェザーはドキュメンタリーで、「私はブラックリストに載った、あるいは、レッドリストに載ったと言えます。ジョニー・カーソンやディック・キャベット(二人ともテレビ司会者)などは、私を自分の番組に出したがりませんでした。ハリウッドへのドアは固く閉ざされ、2度と開かれることはありませんでした」と語っています。

米アカデミーの遅すぎた謝罪

その事件から50年近くを経て、映画芸術科学アカデミーは今さらながら彼女に謝罪の意を表しました。

「あなたが受けた長年にわたる被害は、不当で正当化できないものでした。あなたが経験した精神的負担と、私たちの業界におけるあなた自身のキャリアへの代償は、取り返しがつかないものです。あなたが示した勇気はあまりにも長い間、認識されることがありませんでした。これに対し、私たちは深い謝罪と心からの賞賛を捧げます」と、映画芸術科学アカデミー会長のデイヴィッド・ルービンは2022年6月18日付けの彼女への書簡に記しています。

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リトルフェザーは、映画『ザ・トライアル・オブ・ビリー・ジャック』(1974年公開)、『Johnny Firecloud』(1975年公開)、『誇り高きインディアンの英雄・ウィンターホーク』(1976年公開)など、いくつかの映画に出演した後に俳優業を辞め、アンティオキア大学でホリスティックヘルスの学位を取得し、ネイティブアメリカン医学を副専攻しました。

オクラホマ州のキオワ族の新聞に健康に関するコラムを書いたり、アリゾナ州ツーソンのセント・メリーズ病院のインディアン伝統医学プログラムで教えたり、ベイエリアのエイズ患者のためにマザー・テレサと働いたりと、ウェルネスの分野で活躍します。その後、サンフランシスコのアメリカン・インディアン・エイズ研究所の創設理事を務めることになりました。

リトルフェザー氏は芸術活動も続け、1980年代前半に非営利団体「National American Indian Performing Arts Registry」を共同設立し、公共放送サービス(PBS=Public Broadcasting Service)の複数の番組でアドバイスを行い、ハリウッドにおけるネイティブアメリカンの受容を提唱し続けていました。 

主張するマイノリティ俳優たちの先駆け

「アカデミー賞の歴史上、有色人種の女性として初めて政治的発言をしたのは私です」と、リトルフェザーは前述のドキュメンタリーで述べています。

数十年の時を経て、あの彼女のステージ上での主張が、現在も続くハリウッドの多様性に関する対話の先駆けであることは明らかです。ジェイダ・ピンケット・スミスは、2016年のアカデミー賞(#OscarsSoWhite式典)をボイコットした際に影響を受けた人物として彼女を挙げています。

2人はメールのやりとりをし、スミスは 「私たちへと道筋をつなげてくれた勇敢さと勇気ある行いに感謝します」と書いています。

リトルフェザー氏は、オクラホマ州レッドロックにある彼女の夫、チャールズ・コシウェイの隣に埋葬される予定です。コシウェイは2021年11月に血液がんのため死去しました。2人は32年前、カリフォルニア大学デービス校のパウワウで出会ったそうです。米国アカデミーの謝罪を受けたリトルフェザーは亡き夫について、「彼の魂は今も私のそばにいます。彼が私に望んでいたのは常に正義と和解だったのです」と語りました。

そして彼女の死2週間前、彼女の名誉を称えるアカデミー映画博物館のイベント「アン・イブニング・ウィズ・サチーン・リトルフェザー」が開催され、リトルフェダーはこう話しています。

「私はここで、謝罪を受け入れます。私ばかりでなく、今夜この謝罪を聞く必要があり、それに値する全ての部族の人々への言葉として…この会場にいるすべてのインディアンの方々に立っていただきたいと思います。仲間を見て、お互いを見て、私たち全員が生存者として立っていることを誇りに思ってください」

「私がいなくなっても、あなたが真実のためにどこに立ち向かおうとも、私の声、そして私たちの国と民族の声を守り続けるのだということを、いつも心に留めていてほしいのです…私はサチーン・リトルフェザーのままであり続けます。ありがとうございました」

生涯2度目となるアカデミーの舞台に立った彼女は、「自分の身に死が間近に迫っていることを知っっていた」と、「ワシントンポスト」同記事は伝えています。

サチーン・リトルフェザー
Frazer Harrison//Getty Images
2022年9月17日、映画芸術科学アカデミー(AMPAS)が設けた謝罪の講演会で登壇したリトルフェザー氏(右端)。

リトルフェザーはお悔やみの代わりに、オークランドのアメリカン・インディアン・チャイルド・リソース・センターへの寄付を希望していました。