「日本の伝統技術を担う職人こそブランドの主役になるべき」という理想をかなえるため、そして日本の文化と職人の紡ぐ技を世界に向けて発信するため 、2022年4月に立ち上げられたプロジェクト「MIZEN(ミゼン)」。
そんなプロジェクトをけん引するのが、代表である寺西俊輔氏。彼はヨーロッパのハイブランドで3Dデザイナーとして経験を積むという華々しい経歴を擁しますが、その素顔は人間味あふれる愛すべき人物でした--。第1回は、そんな彼がファッションに夢中になった少年時代へとさかのぼりましょう。
大学時代の僕は、本来の建築の勉強より、服づくりに情熱を注いでいました(笑)。少し長くなりますが、ファッションに強く惹かれ始めた中学生の頃の話からさせてください。僕が通っていたのは中高一貫の学校で私服だったのですが、中学時代にはすでに、毎日自分の着る服を意識していました。
とは言っても、母親がすすめる服の中から自分の好きなものを選ぶ程度なのですが、なぜかジャケット・スタイルが気になって、「早くジャケットが着られるようになりたいな」と思っていました。そして、ファッションにはブランドというものがあることを知り、調べていくうちに雑誌で“Alexander McQueen(アレキサンダー・マックイーン)”というブランドに出合ったのです。
記事を見ると、シャツの値段が親に買ってもらうものの5倍とか6倍もする。「何なんだこれは?」という衝撃がありました。 でも、「カッコいいから高くても買う人がいるんだ」「いいものは高いんだ」と何となく思いました。それからはマックイーンを中心に、いくつかのブランドのお店に行っては試着をさせてもらったりするうちに、服のデザインに興味をもつようになったのです。
Interviewee
寺西俊輔
京都大学建築学科卒業後、YOHJI YAMAMOTO 入社。生産管理・パタンナーを経て、イタリア・ミラノに渡る。CAROL CHRISTIAN POELL チーフパタンナー、AGNONA クリエイティブディレクター STEFANO PILATI 専属
3Dデザイナーとして経験を積んだ後、HERMÈSに入社し、フランス・パリに移る。アーティスティックディレクターNadège Vanhée-Cybulski のもと、レディスプレタポルテの3Dデザイナーとして働いた後、2018年日本に帰国し伝統産業の新たな価値を発信することを目的とした STUDIO ALATA を設立。「装い」を提案するライン ARLNATA (アルルナータ)を立ち上げる。その後2022年4月にふるさと納税ポータルサイト「ふるさとチョイス」の創業者とMIZENを立ち上げるが、MIZENとは伝統技術とクリエイター/アーティストとを結びつけて作品を創り上げるプロジェクト。MIZENの扱う洋服のラインは全国の伝統織物xARLNATAのコラボレーションという位置づけで活動する。
高校3年近くになり、進路を決めなきゃいけなくなったときにはファッションのことも頭にありましたが、進学校だったということもあり、大学に進むことが自然な流れでした。「どうせ進むなら物をつくることを学びたい。なら、建築が最も現実的かな」と思い、建築学科を選びました。
一浪して京都大学建築学科に入学。入ってしまうと時間に余裕があったので、今のうちに本気で服を学ぼうと、夜間のファッション学校に入学。空いた時間は塾講師のバイトをしていました。最初の給料で念願のマックイーンの服を買いました。脇にドレープの入ったとても面白いトップスで、当時で8万円くらい。その後も、お給料のほとんどをマックイーンに費やすという生活でした。
中学の時に出会って以来、僕にとってのファッションの先生はずっとマックイーンでした。だけど、夜間学校で習う教科書の内容はマックイーンの服づくりとは全然違う。「ここで学ぶ意味はないんじゃないか?」と、半年足らずで辞めました。そこからはアウトレットのセールなどで買ったマックイーンの服の裏地を開けて、「ああ、こうやって縫っているんだ」と自分の目で確かめ、考えるようになりました。
ミシンも買って独学で服をつくりました。そのタイミングで夜間学校のときの仲間たちとファッションサークルをつくることになり、京都駅の大階段の踊り場でファッションショーを催したり…やること全てが楽しくて、授業よりサークル活動に熱を上げていた毎日でした。
とは言え、4年生になると当然、これから進む道の選択しなければなりません。これまでさんざん洋服をつくってきたけれど、ファッションの道に進むためにはどうやったらいいのか分からなかった。「やっぱり建築を選ぶべきなのかも」と考え、大学院に入ることを前提に尊敬する存在でもあった建築家の先生のゼミの面接試験を受けることにしました。
そのゼミは、トップクラスの学生たちだけが入っている花形のゼミ。希望者ももちろん優秀な人ばかり。面接では自分の作品をプレゼンするのですが、みんなはメチャクチャきれいな模型、メチャクチャきれいな図面、メチャクチャきれいなCGだったりする。僕に回ってきたらショボショボな模型と図面で、みんなも先生も「なんだこいつは」と思ったに違いありません。でも、僕はそこで終わらせるのではなく、続けて「実は僕はファッションをやっていまして……」と、今までつくった洋服やファッション・ショーの写真を作品として見せたのです。
結局、ゼミは受からなかったんですけど、先生は何かを感じてくれたみたいで、前期の授業が終わった打ち上げの席で「寺西、お前はファッションと建築とどっちがやりたいんだ?」と訊かれました。「実は迷っているんです」と答えると、「本当にやりたいのならデザイナーを紹介するよ」と先生。お酒が入っていたせいもあり、周りの先輩たちも「先生、そのデザイナーって誰ですか?」と盛り上がりました。僕は内心、「断りたくなるようなデザイナーの名前が出てきたら、どうしよう…」と困惑気味でしたが、先生の口から出たのが「YOHJI YAMAMOTO」だったのです。
僕は驚きながらも「親に断りを入れるので数日待ってください」と、先生にお願いをしました。家に帰り、台所で洗い物をしている母にその日の出来事を話すと、「自分で好きなことやればいいんじゃない。あれだけミシン踏んでいるんだから、ファッションが好きなことくらい分かるわよ」と言ってくれました。それで、先生に正式に紹介をお願いすることになったのです。
本当のことを言えば、関心がなかったというか、自分のスタイルと全く違うものと思っていました。だからこそ、世界から評価されるその理由を知りたいと思いました。
その当時、YOHJI YAMAMOTOは社員の大募集をしていました。二次面接で山本耀司さんご本人から「何がしたいんだ?」と訊かれ、今思うと失礼なんですが、「一流の服づくりをしたい」みたいな、ふわっとした答えをした記憶があります。
そして入社となったのですが、配属されたのは期待に反して生産管理の部署でした。「これは服づくりの基礎を勉強するための経験に違いない」と思って、日々の仕事をしていましたが、1年経った頃に上司から「これからもっと責任のある仕事を任せようと思う」と言われ、「やばい」と…。
しかし相談する人もいなかったので、タイミングを見計らって社長室のドアをノック。「生産管理の寺西と申します。服づくりがしたいのでパターンのほうに回してもらえないでしょうか」と訴えました。もちろん、すごく緊張しました(笑)。でも、その効果があったのでしょう、レディスのパタンナー職につくことができました。
そうですね、いろいろとありました。一番は、型紙(パターン)がデザインになっているということ。YOHJI YAMAMOTOには、デザイナーという職種がないんです。パタンナーと呼ばれる人がデザインして、それを3D(立体的)の形に縫い上げて、耀司さんのチェックを受けるという流れ。だからデザイン、パターン、縫製、その3つの技術がそろっていないとパタンナーとして認めてもらえない。それは本当に勉強になりました。YOHJI YAMAMOTOだけでなく、COMME des GARÇONSもそう。ISSEY MIYAKEも、折り紙のように一枚の布という平面から三次元の立体構造をつくり上げます。今ではヨーロッパにも同様のブランドは多くありますが、私が向こうに渡っていた当時は、「日本人のブランドの“型紙がデザインになっている”ということが、みんなのリスペクトの対象になっているんだ」と肌で感じました。
あります。図面(平面)が立体になるという思考です。今でこそ、僕はそんなに奇抜なものはつくりませんが、一見シンプルなのに、実はこんな型紙なんですよと説明すると驚かれるような服が好きで、今もそこは大切にしています。
マックイーンの影響が大きかったと思うのですが、高校生のときから日本のブランドに興味がありませんでした。「海外に行って、海外のメゾンで働いて、海外で死ぬんだ」と思っていました。そして28歳のときに念願がかない、ミラノのCAROL CHRISTIAN POELL(キャロル クリスチャン ポエル)に入りました。
YOHJI YAMAMOTOで働いていたとき一番仲の良かった同僚が、イタリアに出張した際につないでくれた縁だったのですが、キャロルが大好きで、ずっと彼の元で学びたいと思っていました。だから、とにかく何でも吸収したかった。言葉もよく分からなかったし、本当に毎日必死でした。今でも一番尊敬しているし、一番影響を受けたデザイナーです。
次のAGNONA(アニオナ)は、ステファノ・ピラーティがクリエイティヴ・ディレクターに就任したばかりの頃。エルメネジルド ゼニアの友人から、「YOHJI YAMAMOTOかCOMME des GARÇONSにいたパタンナーを、それもメンズのテーラーができる人を探しているのでどうか」と声をかけられたことがきっかけでした。
そして35歳の秋、アニオナを辞めて、しばらく新陳代謝の時期を過ごしていたときに、日本人の友人から「寺西さん仕事を捜しているんですよね。Hermèsとか興味あります?」と訊かれたんです……。
MIZEN 寺西俊輔氏インタビュー Part2に続く。
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