[INDEX]

▼ “当時はみんなロレックスさ”

▼ 人間の狂気と勇敢さを詰めた腕元の小宇宙

▼ パネライとイタリア軍。そして、潜水の歴史

▼ アクアラングが潜水を変える

▼ CEOは熱心なダイバー。ブランパンの台頭

▼ 海中の世界は映画や音楽にも


“当時はみんなロレックスさ”

1970年代、海底パイプラインの敷設工事(ふせつこうじ)を行なっていたケビン・ケイシーの前に立ちはだかっていたのは、サメでもエイでもなく、1匹のアナゴでした。

「あの日はナイジェリア沖で潜っていて、ちょうどパイプラインの先端部分に差し掛かったときでした…」と、ケイシーは言います。この話を聞いたのは、現在彼が館長を務めるイギリス・ハンプシャー州ゴスポートにあるThe Diving Museum(ダイビング博物館)でです。

「パイプの中を覗くと、そこに巨大なウツボが1匹いるのを見つけました。中は暗く、そいつの口元だけが見えました。近寄りたくなかったのですが私はダイバーなので、とにかく仕事をやり遂げなければなりません。なので、私は一番大きなバールを手に取り、パイプの端から手を伸ばしてそのウツボの頭めがけて振り下ろしました。

もちろんその瞬間、ウツボは怒り狂ったのは言うまでもありません。砂や沈泥が舞い上がって何も見えなくなりましたが、私としてはそいつがいなくなるまで見届けなければなりません。すると、ウツボは再び姿を現すわけですが、その大きさと言ったら…。もし噛みつかれでもしていたら、私はここにいなかったかもしれません」

それはおそらく、映画『センター・オブ・ジ・アース2 神秘の島』のクライマックス、ノーチラス号上で電気ウツボと格闘するシーンに匹敵するものだったかもしれません。

ケイシーは石油産業に携わるダイバーとして勤めた40年間、ずっとロレックスを愛用していました。そして、それは今も変わりません。この日、彼の手首に巻かれていたのは、ステンレススチールのベゼルを採用された『シードゥエラー』です。このモデルは1967年に、より長時間の水中任務への課題に対応するために製造されたもの。その後、フランスの潜水会社コメックス社(Compagnie Maritime d'Expertises)の専門家との密接なパートナーシップによって性能を向上させ、現在では1220m(4000フィート)までの防水性能を備えています。特出すべきは、ヘリウム排出バルブを搭載しているところ。ヘリウム排出バルブによって浮上時の減圧に耐えることができ、深海探査の最終段階である「海面への帰還」の際の問題を克服したプロツールです。

彼いわく、「従来の合金では海中で生じる化学反応によって腐食してしまう可能性があることを相談したら、私のためにつくってくれた1本なんだ」とのこと。そう言うと彼は、その時計を外して私(本稿の筆者であり、イギリス版「Esquire」のエディター、リチャード・ベンソン氏)に触らせてくれました。経年劣化が美しく、掌にはずっしりとした重みを感じました。

「当時、(僕の回りでは)誰もがロレックスでした」と、ケイシーは言います。「ダイバーなんてひと握りしかいない時代だったので、着用している腕時計を見ることでダイバー同士だというのを確認し合っていましたね。それは、今でもそうです」

人間の狂気と勇敢さを詰めた
腕元の小宇宙

ロレックス「サブマリーナ―」
JeanDaniel Meyer
1953年、水深100mまでの防水を確保した初めての時計として登場したロレックス「サブマリーナー」。

腕時計の世界で、ダイバーズウォッチほど魅力的で神秘的なカテゴリーが他にあるでしょうか? 腕時計の中でも、売り上げの高いカテゴリーであることは疑いようもありません。それは数値化こそされていないものの、時計愛好家たちの声に耳を傾ければ、最も人気の高いカテゴリーであることがうかがえます。

ほぼ全てのブランドが、少なくとも1種類はダイバーズウォッチをつくっており、なかにはビジネス再生の鍵として売り出すブランドもあります。映画『007』シリーズでジェームズ・ボンドが着用する腕時計、いわゆる“ボンド・ウォッチ”となった「シーマスター300」がオメガに何をもたらしたか。あるいは2012年に、70年代のチューダー「サブマリーナ」の復刻として発表された「ブラックベイ」がチューダーにとってどのような価値を持つ時計だったかを考えてみてください。

もちろん、そのような成功譚は理屈で割り切れるものではないでしょう。時計としての基本的な機能なら、はるか昔にコンピューターに先を越されています。例え数千フィートの防水性能を売りにしたところで、これまで生身の人類が潜水で到達した深度は最高でせいぜい1090フィート(約330メートル)と言われているのです。着目すべきはその歴史的な側面となるでしょう。これほど小さく完璧な歯車とダイヤルを備え、そして地球のあらゆる場所を目指して探検に挑もうとする人間の狂気と勇敢さが詰め込まれた機械など、ほかに存在するでしょうか。

ブランパン|フィフティ ファゾムス 70 周年記念「act 3」
Courtesy of Blancpain
誕生70周年を記念して2023年に発表された、ブランパン『フィフティ ファゾムス 70 周年記念「Act 3」』

2023年、ブランパンは「フィフティ ファゾムス」(1953年)の誕生70周年を迎えました。ロレックスの「サブマリーナ―」(1954年)と並び、世界で最初のダイバーズウォッチと目されている時計です。果たしてそれは事実でしょうか? 深海の苛酷な使用条件に耐えることをダイバーズウォッチの特性とするのであれば、事態はそう単純にはいかなくなります。コルクで密閉された二重ケース式防水機構を備えたオメガの「マリーン」は、1932年につくられています。あるいは1926年に特許を取得したロレックスの初代「オイスター」はどうでしょう? いずれも正解とは言えません。なぜなら、そのコンセプトが生み出されたのは、それよりはるか以前だからです。

「ダイバーズウォッチの起源をたどれば、100年以上の時をさかのぼらなければならない」と主張する、純粋主義者も存在します。そしてそれは、必ずしも“スイス発祥”という話でもありません。

オメガ「マリーン」の広告
Omega
オメガ「マリーン」の広告。

パネライとイタリア軍。
そして、潜水の歴史

本当の物語は、1918年にラファエル・ロセッティというイタリア海軍士官の登場で幕を開けます。ミサイルの命中確率を上げるには、遠くから発射するよりもできるだけ目標に接近するのが好ましい。では、ミサイルに人を乗せて、操縦させたらどうだろう?――そんな発想のもと、ロセッティは操縦可能な二人乗りの魚雷を開発したのです。ただし、それは自爆攻撃ではありません。吸着機雷を敵艦に設置したのち、操縦士は脱出するフローだったのです。

ロセッティの発明したこの魚雷は、オーストリアの戦艦を撃沈するという目標を果たしたものの、潜水装備を持たない操縦士たちは頭を水面に出したまま逃げなければならないという欠点がありました。イタリア海軍が潜水式の人間魚雷を開発するのは、それからさらに20年後の話。操縦士にとって課題となったのが、魚雷の位置を把握すること、そして計画通りに進行できているか否かを確認する手段でした。その解決のために1935年、イタリア海軍は軍用精密機器メーカーだったジュゼッペ・パネライに計器の開発を依頼したのです。

ブラパン、ダイバーズ
Blancpain
ダイビングには、ダイバーの身体に複雑で致命的な変化をもたらす可能性があります。そこで適切に対応するためには、時間計測が必要不可欠となります。だからこそ、潜水時間を計測するためのクラシックな回転ベゼルや、その他の計時機能が必要となるというわけです。

そしてパネライはロレックス製ムーブメントを手に入れ、それをベースに開発に乗り出します。ラジウムを原材料に用いた「ラジオミール」という視認性の高い発光塗料が用いられました。当時はまだそれが放射性物質であり、毒性があることが認知されていませんでした(やがて、代替の原料に切り替えられることになります)。

「それはあくまで軍用機器であり、時計として洗練されていたわけではなかったのです」と解説するのは、パネライのジャンマルク・ポントルエCEOです。

「暗闇の中で時間を確認する必要があったため、大きな時計となりました。水深30メートルの世界では、ほぼ何も見えません。だから数字を大きくデザインし、秒針をなくして2本の針だけにしました。複雑機構もなしにして、防水性能には特化したというわけです」

パネライ「ラジオミール」
Panerai
パネライ「ラジオミール」

その時計が「ラジオミール」へと進化を遂げ、第二次世界大戦後にイタリア軍の特殊部隊に供給されるようになったことで、パネライとイタリア軍との切っても切れない縁が生まれました。1993年に市販が開始され、現在ではアメリカズカップに挑むイタリア代表チームの公式パートナーとして時計の供給を行うほか、イタリア各地のダイビングクラブとの関係も生まれています。

パネライの熱狂的な信奉者として、希少モデルを追い求める“パネリスティ”と呼ばれるマニアの存在は有名です。パネライがムーブメントを他の時計メーカーに依存してきたのは事実であり、競合ブランドのムーブメントほどの伝統を持つわけではありません。ですが、ダイビングの歴史におけるパネライの役割はもっと高く評価されて然るべきでしょう。

潜水にまつわる歴史こそがパネリスティを惹きつける要素であることを、ポントルエCEOも否定しません。「ミリタリーの文脈とダイビングの歴史においてパネライが果たしてきた役割が、パネリスティを魅了するインスピレーションとなっています。それらの要素が、このコミュニティを強固な存在にしていると言っていいでしょう」

アクアラングが潜水を変える

技術的な面で言えば、国際標準化機構(ISO)の6425規格を満たしていることが、ダイバーズウォッチの専門的な定義となります。これは、水深100m(330フィート)以上の海中で呼吸装置を装着して潜水するのに適した時計の条件を定めたものになります。

潜水時間(標準的なスキューバダイビングであれば30~50分)を計るための回転式ベゼルやその他の時計機能が「ISO6425」の規格に含まれているわけではありませんが、ダイバーの健康や生命を致命的なリスクにさらさないためにも、さまざまな機能が実装されています。

大まかに言えば、私たちが呼吸する空気には21%の酸素と78%の窒素が含まれていますが、地上では窒素は私たちの体内をただ通り過ぎるだけです。スキューバダイビングに使われるボンベは、一般に「酸素ボンベ」と言われていることを耳にします。なので、その中には酸素が入っていると思っている人もいいかもしれませんが、実際は「呼吸ガス」が入っています(最近では減圧症などの症状を軽減するため、「通常の空気に比べて窒素の割合が低いため、同じ深度と時間を潜った場合は減圧症になりにくいとされる「エンリッチド・エア」や「ナイトロックス」と呼ばれる呼吸ガスが使われることもあります)。その元はごく普通に空気で、1平方インチあたり3000ポンド(気圧で言えば、約200気圧)に圧縮され、潜降する水圧に応じてバランスがとられています。

アクアラング
Matt Porteous//Getty Images

ここで問題となるのは、地上よりも圧力の高い空気を吸うことになるため、血液中に多量の気体が溶け込んでダイバーに色々な影響を与えることです。高分圧の酸素を吸えば、酸素中毒になります。ピリピリするような痛みを感じたり、焦点発作(顔や唇のひきつり、体の片側の手足のふるえ)、回転性のめまい、そして吐き気や嘔吐、視野狭窄などの症状が現れます。そして約10%の確立でけいれん発作や失神を起こす人もいると言われ、その場合通常は溺水につながってしまうのです。

また、高分圧の窒素を吸えば、アルコール中毒のような酩酊状態となる恐れや、血中や筋肉内に窒素の気泡(窒素ガス)が入り込む危険性もあります。また多幸感が生じ、時間通りに浮上できなくなったり、さらには水面に向かっていると思い込みながらより深い方へ潜ってしまうことすらあるとのこと。そうした状態を避けるためには、一定の深度で身体を慣らし、窒素を追い出す必要があります。それを怠れば、水面に浮上した際に窒素ガスが膨張し、背骨や関節や肺などを痛めてしまう危険性も。これがいわゆる、「潜水病(減圧症)」という症状になります。これを取り除くには、一定の深さで一時停止し、窒素を吐き出さなければなりません。

こうした条件下、ダイバーズウォッチに搭載された標準的なベゼルは水深計が示す数値と、水深毎の無減圧限界時間の数値を照合するための重要な役割を果たすというわけです。異なる深度でそれなりの時間を過ごさなければならない場合、この関係が複雑になるため、ダイバーズウォッチの機能は命に係わる不可欠なものなのです。

オメガ「マリーナ」
Omega
オメガ「マリーン」。

1940年代までのダイバーたちは、防水時計と無減圧限界時間のチャートを頼りに潜水を行なっていました。しかし1940年代半ばに元フランス海軍将校のジャック=イヴ・クストーとエミール・ガニャンによって、海底での撮影時間を延ばすことを目的に「アクアラング(Aqua-Lung:潜水用呼吸装置の商標)」という潜水用の呼吸器具が発明されたことで、より多くの機能が求められるようになりました。なぜなら、アクアラングによって呼吸装置の性能が著しく向上し、ダイバーはより深く、より長く潜水できるようになったからです。

第二次世界大戦後の1946年にアクアラングが発売されると、それまで主に軍用品として使われてきたウェットスーツなどの潜水用品が広く出回るようになったことも手伝い、たちまちダイビングブームが起こりました。軍用品が底をつくと、人々はまた「スキンダイビング」へと回帰します。1951年には専門誌『Skin Diver(スキンダイバー)』が創刊され、ダイビング機材の広告や、当時大流行した空気圧式のスピアガン(水中銃)で仕留めた魚やロブスターを手にした人々の写真が誌面を飾りました。

『スキンダイバー』誌には、事故に遭ったダイバーたちのマッチョなレポート記事がたびたび掲載されていました。「60ドルの日当を稼ぎ出していた25歳のダイバー、酸素不足による重度の低酸素脳症に」という内容の記事が、タヒチのパールダイビング(真珠採り)関連のニュースとして創刊号に掲載されています。

そこに載っていたのは、「パールダイバーが死ぬ瞬間を目撃したこともあります。30歳のダイバーでした。実力不足にも関わらず、20ファゾム(約37メートル)くらい余裕だと言って潜っていくと、そこで心肺機能停止に陥り、そのまま死んでしまったのです」などといったエピソードです。

skin diver magazine
Skin Diver Magazine
ダイビングの世界を広める役割を果たした雑誌『スキンダイバー』。

CEOは熱心なダイバー。
ブランパンの台頭

潜水時間と酸素ボンベの残量とを把握するのに、当時のダイバーたちが苦心していたのは明らかです。ダイバーの心肺をターゲットとしたこの新興市場における最初の成功者となったのが、スイスのヴォー州にあるジュウ渓谷の村、ル・ブラッシュのとある高級時計メーカーでした。

ジャン=ジャック・フィスターは、熱心なダイバーとしての顔を持つ経営者でした。1950年初頭のある日、フランスの沖合でダイビングに興じていたフィスターは、酸素が底をつきつつあることに気づき、潜水病のリスクを覚悟で水面を目指しました。本業であるブランパンCEOとしての日常へと戻る彼の頭には、そのときすでに世界初となる現代的なダイバーズウォッチのアイデアがひらめいていました。

当時ブランパンが進めていた開発は、あるフランス海軍兵士から届いた緊急連絡により加速します。ボブ・マルビエ大尉は第二次世界大戦でウィンストン・チャーチルの結成した特殊作戦執行部で活躍した軍人であり、破天荒なことで知られていました。

フランス国防省は1952年、水中から秘密裡に敵陣深くへと潜入し、爆発物を仕掛ける特殊潜水部隊「ナジュール・ドゥ・コンバ(nageurs de combat)」の編成を進めていました。その部隊の中心的存在としてアルジェリアに駐留していたマルビエ大尉は、減圧時間などを計測する機能を備えた時計が必要だと考えていました。フランス国内には適当なマニファクチュールが見つからず、そこでブランパンに白羽の矢が立ちます。そうして1953年に誕生したのが、モノクロームのミニマルな美しさを湛えた「フィフティ ファゾムス」でした。50ファゾム、つまり91.44メートルの水深まで耐える防水能力があることを示す名称です。

フィフティファゾムス
Blancpain
1953 年に登場したオリジナルの「フィフティファゾムス」。

マルビエ大尉かフィスターCEOか、どちらが回転式ベゼルのアイデアを思いついたのかは定かではありません。ロレックスの「サブマリーナ―」やゾディアックの「シーウルフ」といったベゼル付きの時計がすぐ後を追って登場している状況を見れば、おそらく同時発生的に現れたものだったのかもしれません。

「サブマリーナ―」が初期のダイバーズウォッチを象徴する存在となったのに対し、「フィフティ ファゾムス」は市販された初めての現代的なダイバーズウォッチとして新時代の海底探検家たちの空想をかき立てるタイムピースとなりました。ドキュメンタリー映画の傑作『沈黙の世界(Le Monde du silence)』でクストーとその仲間たちの手首に巻かれていたのが「フィフティ ファゾムス」であり、また人気俳優のロイド・ブリッジスも、この時計と共に『スキンダイバー』誌の表紙を飾っています。そして1958年には、米国海軍特殊部隊(US Navy SEALs)のコンバットダイバー向けの標準装備としても採用されました。

海中の世界は映画や音楽にも

ダイビングの(あるいはレクリエーションダイビングの)黄金時代の幕開けは、クストーによるマルセイユ沖の水中考古学調査を『ナショナル・ジオグラフィック』誌が特集した1953年だったと言われています。そのときの記事によって、アクアラングをはじめとするダイビング機材や水中カメラなどの需要が高まりました。

「フィフティ ファゾムス」や「サブマリーナ―」「シーウルフ」、そしてオメガの「シーマスター」などに続き、いわゆる“スキンダイバー”と呼ばれる小型のタイムピースが流行しました。ドーム型でコインエッジベゼルを備えたベーシックかつ安価な、100~200メートル防水のダイバーズウォッチが次々と登場し、1960年代の終盤にはどこででも見掛けるほどに普及しました。

このような時代の波に乗って評価を高めたのが、ロレックスです。「深海で活躍する時計ならば、地上における信頼性も高いはずだ」と考える人々の心理を、うまく捉えたということでしょう。経験を積んだダイバーであれば、「どこまでの深さまで潜ったことがあるか?」と尋ねる初心者もみは辛辣な態度を投げかけることもあります。前出のケイシーは、「実際30フィート(約9メートル)以下の世界では、視界はほとんど失われる」と答えてくれましたが…なぜなら、それは常に深さを追求しているからなのです。

1960年にスイスの海洋学者ジャック・ピカールと、アメリカ海軍のドン・ウォルシュ中尉が潜水艇トリエステ号でマリアナ海溝の底を目指した際には、潜水艇の外側にはロレックスの試作モデル「ディープシー スペシャル」が取りつけられました。その頃すでに「サブマリーナ―」は定番の人気モデルとなっていましたが、その後、ショーン・コネリー演じる『007』シリーズに登場するなど、文化的アイテムとしての色合いを濃くしていきます。

1965年公開の『007/サンダーボール作戦』では、スピアガンを使った水中アクションなど見応えのある水中映像が話題になりました。それ以外にも『ペティコート作戦』(1959年)、特撮TV番組『サンダーバード』(1965~1966年)、『北極の基地/潜航大作戦』(1968年)など1960年代には水中を舞台にした冒険映画が数多くつくられ、科学力の進歩が喧伝(けんでん)されました。

ビートルズ「イエロー・サブマリン」のミュージックビデオ
これはyouTubeの内容です。詳細はそちらでご確認いただけます。
The Beatles - Yellow Submarine
The Beatles - Yellow Submarine thumnail
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前出のアクアラングを発明したクストーが、巨匠ルイ・マル監督と手掛けたドキュメンタリー映画『沈黙の世界』(カンヌ国際映画祭で最高の栄誉である「パルムドール」、そしてアカデミー長編ドキュメンタリー映画賞を受賞)では、海底における色彩の変化--海水によって赤やオレンジの光線が吸収されてしまうことで、肉眼では青や緑に変換されます――が表現されています。もしかすると、それが1960年代のサイケデリック・ムーブメントに何らかの影響を及ぼした可能性もあるかもしれません。

ジョン・レノンが1965年に初めてLSDを体験した際、ジョージ・ハリスンの自宅が巨大な潜水艦となってしまったかのような幻想に襲われたという逸話は、ザ・ビートルズの『イエロー・サブマリン』の創作秘話として有名です。ポールは、「あの曲はギリシャでの休暇中に思いついたものだ」と言ったりもしているようですが、では『イエロー・サブマリン』の続編とも言える楽曲『オクトパス・ガーデン』の場合は、どうだったのでしょうか?これはリンゴ・スターが1968年に、イタリアのサルデーニャで休暇を過ごしていたときにピーター・セラーズから聞いた話に由来していると言われていますが…。

ケイシーはそのことについて、「自分はそれほど想像力が豊かではない」としながらも、「あり得ない話ではありませんね」と言って否定はしません。「水中では、この世のものとは思えないような景色を目にすることも珍しくありません。異世界に足を踏み入れているという確かな実感があります。海底の掘削現場で、まだ誰も見たことのない景色の中を歩きながら、『これをみんなにも見せてあげれたら』という思いに駆られたこともありました…」

<後編>:深く、深く、さらに深く。ダイバーズウォッチ100年の歴史を辿る【後編】 へ続きます。


Source / Esquire UK
Translation / Kazuki Kimura
Edit / Ryutaro Hayashi
※この翻訳は抄訳です