2017年のパラ世界選手権ロンドン大会でのパラアスリート山本篤選手の跳躍
Moto Yoshimura//Getty Images

 2005年8月22日、フィンランド南部の都市エスポ―にて。首都ヘルシンキに次ぐ第2のこの都市で、山本 篤選手は興奮を抑えられずにいました。本人いわく、「あまり物事に動じないタイプ」ということですが、この日の彼は違いました。久しぶりに感じる緊張感…筋肉が少しこわばっていることを自覚していたそうです。

 「ヨーロッパ選手権エスポ―大会」は、彼にとって初めて参加する海外のパラ陸上競技大会。競技開始からわずか3年ながら、100mでは当時の日本記録を更新しています。自分の実力が世界でどこまで通用するのか? この大会は、世界との距離を測る絶好の機会でもあったのでした…。

 走幅跳の助走に入る…踏切版までの距離は40mと少し。健足の右足で踏み切って、勢いよく宙に体を投げ出します…。「正直言って、着地はあまり覚えていません」と山本選手。

 「大げさに言えば、世界へのパスポートを手に入れた気分。アスリートとしてのキャリアを語る上で、大きな意味のある大会でした。カタチはどうであれ、『この先パラアスリートとしてやっていくのかも…』と、かすかに意識した大会でもありました」

 3位の表彰台から眺める景色は、実に晴れやかだったとのこと。その後、自身が世界記録を更新することになるとは、当時は思いもしなかったようです。

パラアスリート山本篤選手のジャンプ
Aflo
まるで空の上を歩くような美しいフォームは、山本選手の真骨頂です。

 さかのぼること5年前…。「高校はバレーボール部。運動大好き、勉強はそこそこ。どこにでもいるような高校生でした」と山本選手。

 そんなごく普通の高校生が、3年生になる直前の春休みに…左太ももから下を失ったのでした。バイクによる交通事故。大泣きしたのは1度きり。悲しむ周囲の様子を見て、不思議ともう涙は出なかったと振り返ります。それどころか、2度目の手術を終えた直後には、「『大好きなスノボができるか?』って、主治医に確認していましたね」と笑います。

 高校卒業後は専門学校へ進み、義肢装具士(義肢装具を製作する医療職)を目指すことに…。名古屋市にある日本聴能言語福祉学院で出合ったのが、パラスポーツの「陸上競技」だったわけです。そして、これにハマった山本選手。久しぶりに味わう爽快感…。以来、山本選手は100mのスプリントと走幅跳へとのめり込んでいったのでした…。

 2004年のパラ五輪アテネ大会前は、派遣標準記録を切ることはできず出場は逃しました。ですが、「もっと速く走りたい、もっと遠くまで飛びたい」という思いは変わらなかったということ。そうして専門学校卒業後は、その思いを突き詰めるためもあったのでしょう、大阪体育大学へと進学することを決めています。

世界パラ選手権ロンドン大会での山本篤選手の100m走
Moto Yoshimura//Getty Images
2017年にロンドンで開かれた世界パラ陸上競技選手権大会では、100mにもエントリー。
競技はあくまでカッコよく、
トレーニングは常に理論的に

 筋トレを欠かさない山本選手。167cmという身長は、陸上選手としては決して大柄な部類には入りません。しかしながら実際のサイズ以上に、威圧感を与える分厚い肉体はまさに筋トレの賜物に違いありません。

 「日本人のパラアスリートで筋トレをあまりしない人もいますが、僕はがっつりとやるタイプです。大学で理論的な観点からトレーニングを学んだことは、今のパフォーマンスへとつながっています」

 専門学校時代は自己流の練習メニューを組んでいたそうですが、大学入学以降は専門的な理論に裏打ちされたトレーニングに励んでいる山本選手。すると、記録はあっという間に伸びていきます。

 トレードマークはサングラス・スキンヘッド・あごひげ。そして、世界一とも評される美しい跳躍フォーム…これには理由があります。

 「競技中は結構、えげつない顔になる瞬間があって…。そんな表情を見て応援してもらえるのか? と不安にもなりましたね(笑)。パラスポーツって、応援してもらってなんぼの世界ですから。かっこいいほうが応援してもらいやすいと思うんですよ」

 そして、「パラアスリートこそ、常にかっこよくあるべき」という持論を持つ山本選手。ですが、全力で挑む競技中は顔の表情にこだわっていられないのも確かなこと。この矛盾に打ち勝つため、山本選手は競技中にはサングラスが必需品となったそうです。このように余計なストレスを減らして、より美しい跳躍フォームへの探求が始めることができたそうです。

 ときには練習にカメラマンを呼び、フォームを撮影することも…。そして、踏み切り足は健足から義足の左足へと代え、美しく大きな跳躍フォームが誕生したのでした。

 これは「前代未聞」とも言えるでしょう、「見た目のかっこよさ」から始める競技フォームの修正ですから…。ですが、記録は伸び続けます。2016年には、6m56cmで当時の世界記録を更新。さらに2019年の5月には6m70cmを飛び、さらなる記録を更新します。このときの年齢は37歳。より進化できる可能性も感じ、その思いはいまも継続しているとのこと。「引退」という文字は、まだまだイメージにも上がらないようです。

東京2020オリンピック・パラリンピック TOKYOどこでも競技場@渋谷」で山本選手が圧巻のジャンプ
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渋谷の交差点を封鎖して行われた、「東京2020オリンピック・パラリンピック TOKYOどこでも競技場@渋谷」のとき、山本選手は大観衆の前で圧巻のジャンプを披露しました。
恵まれた環境を
捨てる覚悟でプロになる

 現在の肩書はプロアスリート。兵庫県神戸市に本社を構える新日本住設とプロ契約を締結。そんな自分自身を、「恵まれているケース」だと話しています。

 「以前にも、プロのパラアスリートの方はいました。でも、契約期間はそう長くはなかったですし、活動資金的にも今ほどには恵まれてはいなかったと思います。そんな先輩たちが道を切り開いてくれたおかげもあって、今自分は、プロとして活動できている面もありますね」

メダリストのパレードで笑顔を見せる山本選手
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2016年のパラ五輪では、走幅跳で銀メダル、4×100mリレーで銅メダルを獲得。リオ五輪・パラリンピック日本代表メダリストの合同パレードに参加し、沿道から熱い声援をもらう山本選手。

 以前は、実業団に所属。大学卒業後に入社したスズキ株式会社で、1日の半分をデスクワーク、半分を競技に充てる生活…競技は順調そのもの。数多くの記録を打ち立ててきた自負も。しかしながら、日本のパラスポーツの第一人者の1人と目されるようになり、少しずつ心境に変化が訪れるようになった山本選手。「今、自分がすべきことは実業団を出ることではないだろうか…」、その解答がプロになることだったのでした。

 「その思いを実現するためには、現状を整理する必要がありました」と振り返る山本選手。2020年のパラ五輪東京大会に向けて、パラスポーツはかつてないほどの注目を集めていることを実感していた真っ最中。その顕著な例として、企業のパラアスリートに対する活動支援の輪が拡大し、実業団に所属するアスリートが増加している現状も見ています。パラスポーツ界全体の裾野は着実に広がりつつあることを目の当りにしていたのです。もちろんこのことは、「パラスポーツ界にとっては望ましい状況かもしれない」という思いもあった山本選手ですが、ここで「だからこそ」と一念発起して、山本選手はプロになる道を選んだということです。

 「(実業団で十分やっていける状況になることで、)『プロになる』という道が狭まってしまうという一面がパラスポーツの発展を考えると不安に感じる部分もあったのです。もちろん、実業団で活動するのも正解です。でも、今の若いパラアスリートたちに『プロという選択肢もある』ことを伝えたいという思いもあったわけです。そして、パラアスリートとしてしっかりと稼ぐこともできる。そういった姿を見せていくことが、パラスポーツ界全体に向けて果たすべき、今の自分の役割ではないかと決意しました」

 勝たなければ、契約を打ち切られる恐れもあるプロへの転身。それは、自分への甘えを断ち切り、ハングリー精神を求めてのことでもあったわけです。私生活では1児の父。家族のことも考えるとリスキーな選択でもある…ですが、すべてはもっと強い陸上選手になるため…そんな思いを最優先したのでした。

パラアスリートとして
できることを模索する日々
パラ大会のスタンドからトラックを見つめる山本選手
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 海外遠征に出ると時間の合間を見つけて、現地の日本人学校で講演をするようにしているとのこと。講演の話は、黙っていれば舞い込んでくるようなものではありません。自ら領事館に電話をかけ、「講演をさせてもらえないか?」と問い合わせているということ。

 この取り組みを始めたきっかけは、香港にある日本人学校での経験からとのこと。そこで山本選手は、講演を頼まれたものの日程の関係で実現できなかったそう。これが長い間、心残りだったよう。それ以来、海外遠征で時間があるときは、今も欠かさず講演を行っているとのこと。そんな講演で伝えているのは、パラスポーツともにパラアスリートの現状に関して。そして、「最後に少しだけでも、自分のことを知ってもらえたら嬉しいので」と笑います。

 「左太ももから下を失いましたけど、今、とっても楽しく幸せな人生をおくれています。話を聞いてくれた子どもたちが大人になって壁にぶつかったとき、『そう言えば、山本っていうパラアスリートがいたな』『問題にぶつかっても、人生には色々な道筋があるんだな』と思い出してくれたらうれしいです」

 国内での講演にも積極的。もともとは饒舌(じょうぜつ)なタイプではないと自分を分析する。講演を始めて間もないころは、伝えたいことを鉛筆でメモに書き出し、すべてを暗記する作業をしていたそうです。忙しい競技のかたわら、そこまでして伝える理由はどこにあったのでしょうか?

 「パラ五輪の東京開催が決まり、パラスポーツ全体の知名度は格段に上がっていると感じています。だから、今が絶好のチャンスだと思っているんで…。2020年は1人でも多くの方に会場に来ていただいて、パラスポーツの魅力に気づいてもらいたいと思っています」

東京2020の出場権も獲得。
さらなる高みを目指す

 2019年11月、ドバイで開かれた世界パラ陸上選手権。走幅跳で3位に入り、2020年の夏季パラ五輪の代表に内定する。これで同大会には4大会連続の出場。ですが、2019年下半期の自分自身は、到底満足できるレベルではありませんでした。

 「日本新記録を出した前半はオーケーでした。ですが、後半は苦しいシーズンでしたね。5月の日本新までのアプローチは正しかったと思うので、それを今後突き詰めていきたいと思っています」

 実は山本選手は、冬季のパラ五輪にも出場しています。種目? そう、あの日医師に尋ねたスノーボードになります。2018年の平昌で冬季パラの正式種目となり、「ここでないと絶対に後悔すると思いまして…」と語る山本選手。このバイタリティー…、その原動力はどこにあるのでしょうか?

 「自分自身に対する、可能性の飽くなき追究心だと思います。限界はどこにあるのか? それを探す旅の途中です」とのこと。

 そして、その旅はまだまだ終わる予定はなさそうです。まずは2020年8月29日。ちょうど15年前の8月にフィンランドで手に入れたパスポートを胸に、母国日本の空を美しく舞うに違いありません。

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2016年パラ五輪で跳躍する山本選手 
Alexandre Loureiro//Getty Images

♢PROFILE
山本
さん
…1982年、静岡県生まれ。高校2年時のバイク事故により、左足を大腿部で切断。義肢装具の専門学校に進学後、陸上を始める。大阪体育大学陸上部、スズキ浜松アスリートクラブに所属し、2008年北京パラリンピックでは走幅跳(クラス T42:以下同)で銀メダル、13年・15年世界IPC大会では走幅跳金メダル、16年には走幅跳の当時の世界記録を打ち破る6m67で更新を果たす。同年のリオパラリンピックで再び走幅跳で銀メダルを獲得。現在は、客員准教授を務める母校の大阪体育大学を練習拠点に、プロパラアスリートとして活動する。


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