リオデジャネイロ五輪の銀メダリストで、東京五輪の出場も期待されるスプリンター山縣亮太選手(セイコー)には、大学時代から同士として関係を続けるマネージャーがいいます。それは、慶應義塾大学体育会競走部の同級生であり、現在セイコーホールディングス(株)社員である瀬田川 歩さんです。瀬田川さんは、山縣選手を競技に集中させるための媒介であり、ときに相談役ときに代弁者として、フレキシブルに彼を支えて続けて今年で10年目…。そんな彼に、マネージャーとなったきっかけやその仕事の本質を語ってもらううちに、山縣選手の知られざる素顔も見えてきました。


“「何かできることがあるかもしれない…」、
そんな風に思ったんです

 今でこそ、マネージャーとしての日々をおくっていますが、中学・高校と瀬田川さん自身も陸上選手として活動していました。

「走ること自体は好きでしたが、『競技として陸上を続けるのは高校までだ』と思っていました。僕は選手としては、特別に速かったわけではありませんので。100mは11秒台後半、400mだったら54秒くらいの…本当に普通の記録しか持っていませんでした。インターハイどころか、県大会にも引っかからないくらい」と。

 陸上競技を始めるきっかけは小学6年生のとき。それまではサッカー小僧だった瀬田川さんですが、神奈川県川崎市の運動会で等々力競技場のトラックを走る機会を得たのです。

「サッカーをやっていると邪魔でしかなかった陸上のトラックですが、そこで走るということがすごく楽しくて。トラックって思っていたより広くて、『ここで走るのは気持ちいいな』と思って中学から本格的に始めました」

 しかし、本人が認めるように、スプリンターとしては大きな実績を残せずに慶應高校の3年間を終えることになります。その時点では、「大学の4年間は、ランニング同好会や陸上サークルで楽しく走れたら」、そんな風に考えていたと言います。ところが大学入学後、競走部の練習を見学すると、気持ちが揺らぎ始めることに…。高校時代には、“副務”という大会遠征の事務手続きなどをこなす役職を経験したこともあったそうです。が、「何よりも陸上の現場の良さを改めて実感した」と瀬田川さんは言います。

学生時代の瀬田川さんと山縣選手
母校・慶應大学の陸上トラックにて。大学時代はお互いを、「ダンディ(瀬田川さんのこと)」、「ガッチャン(山縣選手のこと)」と呼び合っていました。

「簡単な言葉になってしまうんですが、1秒でも速くなろうと真剣に練習しているその場所が、とてもキラキラと映ったのです。特に慶應の競走部はコーチもいない中、自由闊達(かったつ)で伸び伸びと陸上に取り組んでいる印象があって、それも大きな理由なのかもしれません」

 以来、「陸上サークルで楽しく競技を」といった淡い思いはすぐに変更され、瀬田川さんはマネージャーとして大学の競走部に所属することに。

部員約150人を10人ほどのマネージャーで見るという大所帯当時、山縣選手はその選手の中の1人といったくらいで、大親友というわけではありませんでした。そんな2人は現在、ともに世界を目指すチームの一員に…。

 第一印象はどうだったのでしょうか?

「僕は内部校の生徒ですから、彼が(広島の高校から)慶應に進学するらしいという噂くらいは聞いていました。やっぱり高校生で陸上専門誌の表紙を飾るような“メディアの中の人”でしたから、最初は『おお、本物だ』くらいの感じでしょうか」

 ただ、日本陸上界の未来を担う猛者が多く集まる部員の中で、特に強烈な自主性を放っていたことは、今も強く記憶に残っているとのこと。そして迎えた最終学年。瀬田川さんが「主務」、山縣選手が「主将」に。今につながるコンビとして、ともに陸上部を引っ張ります。

 それから間もなく、瀬田川さんは一般企業への就職が内定し、山縣選手もセイコーホールディングス(株)への入社が決まっていましたところが話を聞いてみると、山縣選手は同社初の陸上選手で、陸上部もなければ、マネージャー探しも難航中とのこと。そして、「自分なら、何かできることがあるかもしれない…」と瀬田川さん。

 大学入学直後、思ってもみなかった競走部への入部、そしてマネージャー就任でしたが、大学卒業間近には再び同じような体験が口を開けて待っていました。自ら山縣選手のマネージャーを名乗り出た瀬田川さんは、急遽内定を辞退。セイコー社員として山縣選手のサポート役を務めることになったのです。

 ここに、チーム山縣が走り出すのです。

そこに大葉、差し込むの?
付き合いは長いですが、性格は真逆ですね
山縣選手
Matt King//Getty Images
山縣亮太(やまがた・りょうた)…1992年、広島県広島市生まれ。セイコー社員アスリート。リオデジャネイロ五輪男子4 × 100mリレーの第一走者として、銀メダル獲得に貢献。個人では、五輪における日本選手史上最速を記録したトップスプリンター。自己ベストは10秒00。

 自身のプライベートは、「ずぼら」だと笑う瀬田川さん。ですが、マネージャーの仕事はそれとは正反対。その仕事は細やかで多岐にわたります。

 トレーニング場所の確保やジムの予約に始まって、練習中は記録や撮影のためのカメラとストップウォッチを携え、トラック内外を動き回りますスタッフや関係者のアテンドに加え、合宿地フロリダにも飛んでくるメールへの返信や必要書類の作成。さらにメディアからの取材オファーの対応などをこなす毎日は、思い描いていた以上に刺激に満ちていたと言います。

 ところで山縣選手は、大学時代から現在まで特定の技術コーチを就けずに独自の練習方法で強化を進めています。その姿を“異色”と呼ぶファンもいれば、“異端児”と称するメディアがあるのは事実かもしれません。そんな中、大学時代から山縣選手をサポートし続けてきた瀬田川さんは、「そういった姿勢こそが、山縣選手のストロングポイントなのではないでしょうか?」と指摘します。

「彼は、アスリートとして『なんで?』を積み重ねることができるんです。そして、それを細部まで徹底的に突き詰める。彼の強さは、それに尽きると思います。とにかくあらゆることを疑問に思い、研究し、突き詰めていくんです」

 決して気難しいわけではなく、むしろ純粋で素直…と瀬田川さんは山縣さんのことを表します。

「よく、『山縣亮太は天才だ』などと評されることもあります。ですが、僕個人としては、彼は天才ではないと思っています。でも、そうなると逆に、『素の状態で、あそこまで細部を突き詰めていけるのってすごくない?』とも思うんです」

 聞けば山縣選手は、プライベートでも突き詰めるタイプなのだとか…。

「例えば、夕食に買った刺身のパックを、僕なんかはズボラなのでただ皿に盛って食べるだけなんですけど、彼はそこもこだわることが多いですね。『おい、そこに大葉を差し込むか!?』、『ミョウガを刻む!?』、『箸置きまで用意しちゃうの!?』みたいな感じで…。僕は興味深く観察しています。付き合いは長いですが、性格は真逆。本当に不思議ですよね」

空港、みたいなものでしょうか…?”
競技場での瀬田川さんと山縣選手
Aflo
首からはカメラを提げて、ストップウォッチも持参。それが瀬田川さんのいつものスタイルです。

 マネージメントという言葉には、明確な定義はありません。マネージャーには、「このサポートをすれば間違いなく金メダルを獲得できる」という正解のない…それを承知の上で、わざと曖昧な質問をぶつけてみました。

「瀬田川さん、いいマネージャーってどんな人ですか?」と。すると瀬田川さんは…。

「基本的にはマネージャーはアスリートの、アスリートの数だけ存在すると思っています。だから、抽象的なイメージでしかないんですけど…」と前置きをした上で、「空港」という意外で一見意味不明な答えが…。空港?

「空港って基本的には、誰も特別扱いしないじゃないですか。おのおののタイミングでそれぞれが来て、違う目的地へ向かっていく。荷物の受け渡しから搭乗まで円滑な運営がされて、その間に売店やレストランなどがあって、ありとあらゆるものが考えられて設置されています。トラブルがあったときは全力で対応してくれますし、何より安全第一で、最後は快く笑顔で送り出してくれる。それも『良い旅を~』と、あくまで軽く言ってくれはしますけど、『絶対、良い思い出をつくってきてくださいね、絶対ですよ!』と手を握ってきたりすることもありません。そのあたりの熱量と距離感は意識しています」

 世界の頂点を目指すからには、ややこしい計算や課題も繊細に解析・解決しなくてはなりません。ですが、それも当たり前のように平常心で選手へと掲示していくことがなによりも大切であると言いたかったのかもしれません。そして誰よりも近くにいるからこそ、誰よりも遠くで見守る存在あろうとする瀬田川さん。それでも、ときには本音が出てしまうときもあるようです。

「陸上レーンに送り出すとき、本音を言うと『頑張れ!』と大声で言いたいときもあります。でも、僕が気持ちを入れることが、必ずしも山縣の良い結果につながるわけではないので…」と、冷静を務めているとのこと。

「主役は選手です。僕らがどれだけいい準備をしても、最も大切なのは『選手が力を出せるかどうか』です。絶対に選手主体であるべきなんですよね。逆に言えば、彼が良かったとしても悪かったとしても、僕らのせいではないとも言えてしまうんです。スタートラインに立ってしまえば、選手は独りです。だから、僕らは環境を整える…あるいは、環境の一部になることしかできないんです」

 いつだって飛行機は、空港から飛び立つ…。そして、旅を終えて着陸したら、寡黙に温かく迎えるだけ…。

巡り合わせの順番を
手繰り寄せたいですね
自分の思いを語る瀬田川さん
Mamoru Kawakami
これまで10年にわたり、苦楽を分け合ってきたチーム山縣。同年代の仲間が中心となり、国内有数のスプリンターを支えています。

 チーム山縣は、2019年11月から米フロリダで敢行中の5カ月の長期合宿を再開させるため、成田空港を発ちました。スピード練習に取り組みながら、2020年3月から当地での大会にも出場するため調整中とのこと。

 桜が咲くころには、その合宿も打ち上げて帰国…。五輪出場へ向けて国内で試合と調整を重ねつつ、WA(世界陸上競技連盟)が定める参加標準記録の10秒05をクリアした上で、2020年6月に大阪(ヤンマースタジアム長居)で開催される日本選手権で、3位入賞というタスクをクリアしなければなりません。

 山縣選手の伴走者として大学時代から数えれば、10年目を迎える瀬田川さんにとっても、今夏の東京五輪は「ある意味では集大成です」と口元を引き締めます。

「取り組まなければならないことは明確で、今はそれに向かって逆算して準備をしているところです。4年に一度の五輪は大きなマイルストーンであるのと同時に、巡り合わせのようなものも存在します。それをしっかり認識した上で1つ1つの準備を重ねて、その巡り合わせの順番を手繰(たぐ)り寄せたいですね」


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Mamoru Kawakami

♢PROFILE
瀬田川 歩さん(せたがわ・わたる)
…1992年、神奈川県川崎市生まれ。セイコーホールディングス(株)社員。学生時代は、慶應義塾大学体育会競走部のマネージャーを務める。現在は、山縣亮太選手と女子短距離の福島千里選手のマネージャーとして活動を続けている。趣味は映画鑑賞と週3回のランニング。好きな言葉は「自分の仕事は『なんとかすること』なので、かなり矛盾があるのですが…」とした上で、「ハクナ・マタタ(スワヒリ語で「どうにかなるさ」)」「ケ・セラ・セラ(スペイン語で「なるようになるさ」)」。ニックネームは「ダンディ」。


 東京五輪・パラ五輪は当初2020年7月24日からの開催が予定されていましたが、新型コロナウイルスの世界的流行により、「1年程度」延期されることが決定いたしました。
 それでもなお、開催を心待ちにされている読者の皆さまに向けて、「Esquire」は今後も変わることなく、東京五輪に向けて全力で取り組むアスリートや、彼らを支える人々の姿をお伝えしていきます。これからもぜひご期待ください。