2016年開催のリオ五輪カヌー競技で日本人初となる銅メダルを獲得し、東京2020大会でも活躍が最も期待される一人、羽根田卓也選手。彼がブラジル・リオデジャネイロで成し遂げた快挙をきっかけに、日本国内ではカヌー競技への注目度はグンと高まりました。

 しかし、それまでは確実にマイナースポーツの領域に属していたカヌー…その先駆者として羽根田選手が歩んできた道のりには、まるで荒れ地を開墾するかのごとく幾多の困難があったようです。

 そんな自身が切り拓いてきた軌跡、競技の魅力、そして2020年の先にあるカヌー界の展望について語っていただきました。


 水上での移動手段として生まれたカヌーですが、競技スポーツになったのは19世紀。その始まりはイギリスからでした。五輪競技としてのカヌーには、流れのない直線コースで着順を争う「スプリント」、激流を下りながら吊るされたゲートを順に通過してタイムと技術を競う「スラローム」があります。

 日本人のカヌー選手の戦績を見てみると、2008年北京大会ではスラローム女子シングル、フラットウォーターでは女子カヤックダブル500m、そして女子カヤックフォア500mの3種目で入賞を果たしています。

 しかしながら、これまでのカヌー競技においてヨーロッパ人以外の選手が五輪の舞台でメダルを獲得するには、大きく高い壁がありました。

 羽根田卓也選手が競技を続ける「スラローム・カナディアンシングル男子」も、その例外ではありません。1992年のバルセロナ大会以降、メダルを獲得したのはほぼ(北京大会で銅メダルのオーストラリアのロビン・ベル選手以外)ヨーロッパの選手ばかり…。栄冠はいつも、フランスやドイツ、イギリス、そしてスロバキアといった強豪国のアスリートたちが独占していたのです。

 …ところが、2016年のリオデジャネイロ大会でその歴史は動きました。

 表彰台の上には、日の丸を胸につけた選手の姿が…。それが羽根田選手であり、彼は日本人として、そしてアジア人として初めて五輪のカヌー競技でメダルを手にしたのです。これはまさに、快挙と呼べるでしょう。そこで彼は、本場ヨーロッパ勢が圧倒的な強さを誇る種目で異質な存在となり、世界から注目を集めるようになったわけです。

激流を漕ぐ羽根田卓也選手
Thomas Lohnes//Getty Images



“北京、終えて思ったんですよね、
『世界と全然戦えてないじゃん…』って”


 そんな羽根田選手がカヌー競技を始めたのは、10歳のとき。高校3年時には日本選手権で優勝を果たしています。しかし、同年に出場したジュニアの「世界大会」では、世界のレベルの高さを知ることに…。

 大会では表彰台に上がれなかった悔しい思いをした反面、6位入賞という結果から、その間に距離は感じながらも「世界を相手に戦えるという確かな手ごたえを感じた」と言います。その経験が契機となり、高校卒業後は練習環境の整った海外へ行くことを決意します。

 修業先に選んだのは、カヌー強豪国のスロバキア。憧れのミハル・マルティカン(金メダル2個・銀メダル2個・銅メダル1個を獲得した伝説的アスリート)をはじめ、世界のトップ選手たちを間近に見ての練習は、かなり刺激的だったと言います。

 日本にはなかったコーチの存在や大会で使用されるような人工コース、またビデオ映像を用いた練習のアドバイス、そして練習準備をはじめとする、アスリートへの充実したサポート体制に衝撃を受けたと語ります。

 やはり言語の面でも、苦労が待ち受けていました。コーチとの会話は、スロバキア語が中心です。海外遠征や国際大会の経験で、英語はなんとか話せるレベルではありましたが、踏み込んだ会話ができなかったわけです…。せっかく良いコーチに出会うことができたにもかかわらず、コミュニケーションがうまく取れないという歯がゆさもそこで感じたそうです。

 そんな環境にもったいなさを感じ、競技と並行してスロバキア語の習得にも励んだ羽根田選手。すると、次第に状況は改善されていきます。

 しかしながら、スロバキアに渡ってから最初の五輪を経験するまでの3年弱の間は、海外の一流選手たちと自分がいる位置のギャップを、正確に把握できていなかったですね」と言います。

 「現地では、クラブチームに所属していました。アドバイスをくれるコーチがいて、人工コースもあって…。日本とは違う新鮮な環境で練習を積むことで実力が上がってきていることは自分でも実感できていました。とは言え今思えば、18歳から20歳ぐらいまでの年齢だったので、とっても未熟な時期でした。世界のトップ選手たちとの実力差がどれくれいなのか、実際にはわかっていなかったんです。何の根拠もないまま、実力が上がっていくその先には…自分も、このまま行けば世界のトップになれる気がしていたと言いますか…。2008年の北京五輪を終えてやっとわかりました、『まだ全然世界と戦えていないじゃん』と。そこから、世界のトップになるまでにどれだけ果てしない道のりがあるのか、改めて実感しました」

 五輪初出場となった2008年北京大会での結果は、予選14位。メダルを手にするレベルの選手たちと自分との間にある大きく高い壁を、目の当りにした結果となりました。

 そのとき羽根田選手は、「一度は日本に帰ることも考えた」と言います。ですが、五輪という大舞台を経験したことで、海外でトレーニングすることの意義も再認識していたのです。そうしてスロバキアに残って、さらなる修業に励むことを決意したのです…。

カヌーの羽根田選手
YUTAKA

“スポンサーさんが
なかなか見つからなくて…”

 しかし、ここで新たな問題が浮上しました。それは活動資金…。

 それまでの羽根田選手は、家族や地元の後援会の方々の支援を受けて、この競技に打ち込んでいました。ですが、より質の高いカヌーの技術が磨けるような…世界でメダルが狙えるだけの実力を得るレベルの練習を積み重ねていくためには、他国の実力者たちと同レベルの活動資金を得なくてはできないことは明らかでした。そう、サポートしてくれる企業の存在が必須でした。

 「引き続きスロバキアにいることで、日常の練習はある程度の環境でできていました。自分がレベルアップしている感覚も、確実に実感できていました。ですが、例えば希望する遠征や合宿への参加、また冬の間は南半球のオーストラリアでトレーニングするなどといった活動に関しては、資金的な理由からあきらめざるを得ませんでした。とは言え、必ずその練習をしなければならないというわけでもありません」

 「…とは言え、メダルを獲得しているレベルの選手が実践している練習を自分がしなくて、その選手たちを超えることなどできるだろうか…という結論となりました。自分もその時点ですでに、25、26という年齢でしたし、『このままではいけない』と思って、ロンドン五輪後に活動を支援してくれるスポンサーさんを探し始めたのです…」

 地元であった愛知県の企業を中心に送ったのは、自ら“PRセット”と呼ぶものでした。そこには、自己プロフィールや競技に対する想い、夢、目標を記しました。「働かせていただきながら、並行してトレーニングに励めれば」とも。

 しかし返事は、ただの1社からも来ませんでした…。諦めることなく何十社にもお手製の“PRセット”を送った中で、広報の担当者が唯一対応してくれたのが、現在も所属する三起商行。「ミキハウス(MIKI HOUSE)」でお馴染みの、子ども服を中心としたアパレル事業などを行う企業でした。

 「スポーツ、特にマイナーなスポーツを続けられる環境が、残念ながら日本にはほとんどない、ならば誰かが支援して、安心して目標を目指す環境を整えてあげなければならないと思ったのです」と、ミキハウスは自社ホームページでメッセージを表明しています。

 1988年のソウル五輪をきっかけに、スポーツ支援活動を始めた同社。その言葉を体現するように、現在では15種目以上の競技の選手を支え、卓球の福原 愛選手や柔道の野村忠宏選手など、同社のサポートのもと五輪出場を果たしたアスリートはこれまで66名にものぼります。

 そうして羽根田選手がミキハウスに所属したのは、2013年のことでした。それ以来、アスリートのことを大切に思う企業の支援は金銭面のみならず、「競技生活を送っていく上で心の支えにもなった」とも言います。

 「サポートを受けるようになって、それまで参加することが難しかった合宿や遠征に行けるようになりました。それに加えて、『自分にはバックアップがある』ということは、精神面においても本当に心強かったですね。とは言え、当時の自分がどれほどミキハウスさんに支援の還元をできていたのかは疑問が残りますが…(笑)」

 手に入れた念願の環境でトレーニングを積み、満を持して挑んだ2016年のリオ五輪。結果は、カヌー競技アジア人初の表彰台となりました。競技に対する情熱が起こした行動は、メダルというカタチになって現れたのです。

Canoe Slalom - Olympics: Day 4

“水の流れや呼吸を感じて推進力に…。
それがカヌーの極意です”

 東京2020が歴史に残していくものは、選手たちが繰り広げる戦いの記録と記憶だけにとどまりません。競技の舞台となる施設も、大会後に残り続けます。

 開会式と閉会式が行われる新国立競技場が大きな注目を集めていますが、カヌースラローム競技においても、江戸川区の葛西臨海公園内に「カヌー・スラロームセンター」が新設されました。

 国内初となるこの人工コースは全長200m、幅約10m、高低差4.5m。電気ポンプを用いて毎秒約12tもの水をくみ上げ、うねりのある激流や変則的な渦を発生させます。収容人数は7500人。JR京葉線の葛西臨海公園駅から徒歩12分と、都心部からのアクセスも良好です。その出来栄えは、海外のさまざまなコースを経験した羽根田選手も絶賛するほどのクオリティーということ。

カヌースラロームセンターで競う羽根田卓也選手
Koki Nagahama//Getty Images
2019年に行われたNHK杯。羽根田さんが「世界有数のカヌー場」と絶賛する、カヌー・スラロームセンターで行われました。

 「自分は、葛西の施設は世界一だと思っています。あれだけの立地で交通の便が良くて安全。住宅街も近くにあります。そんなカヌーコースは、世界的にもなかなかありません。一般の方々がカヌーを体験できたり、消防の水難救助の訓練などさまざまな用途も期待できます。『ここをレガシーとして活用してもらえたら、カヌーをもっと身近に感じていただけるのではないか』って期待しています」

 羽根田選手は現在、可能な限りこの競技会場でトレーニングを積み、「コースの“クセ”の把握」に努めていると言います。例え同じコースであっても、流れる水は一瞬ごとに表情を変えます。

 「スラロームのコースは、毎秒同じ放水量を保っています。そして、壁などの障害物や水同士がぶつかることによって、水流に周期が生まれます。その水の流れや呼吸を感じて、掴んで、そしてそれをカヌーの推進力へと変えるのがこの競技の極意とも言えます。競技自体は荒々しくもありますが、0.1秒のタイムを争うスリリングな展開や、パドルを使って流れを操る技術力にも注目していただくと、楽しんで観戦していただけるのではないかと思います」

 小学3年生で競技を始め、今では日本カヌー界を背負って立つ存在となった羽根田選手。その競技人生を振り返れば、「カヌーという競技そのものが抱える困難とともにあった」とも言えるでしょう。しかし、常にそれにめげることなく、自らが置かれた状況を冷静に俯瞰して打開策を見出してきた羽根田選手。

 メダル保持者として、そして開催国の地元選手として挑む東京2020大会は、もうすぐそこまで迫っています。海外生活で見につけた問題解決能力、そして厳しいトレーニングに励むことで培った競技力をいかんなく発揮し、羽根田選手はきっと最高のパフォーマンスを私たちに見せてくれることでしょう。


練習に励む羽根田卓也選手
Eri Takahashi

♢PROFILE
羽根田卓也さん
…1987年、愛知県豊田市生まれ。幼少時からスポーツ一家で、7歳〜9歳までは器械体操、9歳から父と兄の影響でカヌースラロームを始める。世界レベルで活躍することを目標に、高校を卒業後すぐにカヌー強豪国のスロバキアへ単身渡る。2008年の北京大会、2012年のロンドン大会、2016年のリオデジャネイロ大会と3大会連続で五輪に出場。リオ大会にて、この競技アジア人初となる銅メダルを獲得。一躍カヌーを日本中に知らしめた。スロバキアの首都ブラチスラバの国立大学院を卒業し、東京五輪ではさらなるメダル獲得を目指す。


 東京五輪・パラ五輪は当初2020年7月24日からの開催が予定されていましたが、新型コロナウイルスの世界的流行により、「1年程度」延期されることが決定いたしました。
 それでもなお、開催を心待ちにされている読者の皆さまに向けて、「Esquire」は今後も変わることなく、東京五輪に向けて全力で取り組むアスリートや、彼らを支える人々の姿をお伝えしていきます。これからもぜひご期待ください。