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サッカー天皇杯2020@(新)国立競技場での開催を祝し、旧国立競技場を振り返る

東京五輪に向けて建設が進んでいた新しい国立競技場が、2019年11月30日に無事竣工。2020年1月1日(水・祝)に行われる「天皇杯 JFA 第99回全日本サッカー選手権大会決勝」を皮切りに、同年7月24日(金)にスタートする東京五輪へ向けて始動します。そこで、その新たなる第一歩を目前に旧国立競技場をプレイバックしておきましょう。

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New National Stadium After Its Construction Completion
Masashi Hara//Getty Images

 2019年12月21日(土)、新たな国立競技場の完成を祝うお披露目イベント「国立競技場オープニング~HELLO, OUR STADIUM~」が開催。このイベントでは、陸上男子100メートル世界記録保持者であるウサイン・ボルトさんやサッカーJリーグの三浦知良選手、そして日本を代表する国民的音楽グループとして「嵐」、「DREAMS COME TRUE」がパフォーマンスを披露。さらに太鼓芸能集団「鼓童」によるオープニングアクトなどなど、様々なコンテンツが展開し大に盛り上がり。

 そのコンセプトは“地域や国という垣根を越え、すべての人類がひとつになり、新時代の文化とスポーツの力を発信していけるような拠点にしていきたい” という思いを込めた「OUR STADIUM その場所で、人類はひとつになる」というスローガンのもと開催されました…。まさにそれは、創始者ピエール・ド・クーベルダン男爵が考案した青・黄・黒・緑・赤からなる世界の五大陸を意味する 5つの輪で構成された五輪が示すメッセージそのもの、ではないでしょうか。

 そうして2020年1月1日(水・祝)、「天皇杯 JFA 第99回全日本サッカー選手権大会決勝 ヴィッセル神戸と鹿島アントラーズ」を皮切りに、7月24日(金)にスタートする東京五輪へ向けた仮称「新国立競技場」は正式に新たな「国立競技場」として実質的なスタートの号砲が世界へと放たれるわけです。

 ではここで、その新たなる第一歩を記念して、1958年3月の完成から56年にわたって我々にこれまでその思いを示し続けてきた旧国立競技場が刻んできた、栄光の数々をプレイバックしておきましょう。新国立競技場が2020年、我々に新たな感動を与えてくれることは確実です。が、その地には、旧国立競技場が世界のアスリートたちとともに育んだ思いが肥やしとなっていることを忘れぬように…もう一度、旧国立競技場の思い出を脳裏に刻んでおきましょう。

完成後早々、上空から見た旧国立競技場

Tokyo Stadium
Three Lions//Getty Images

 1958年3月に旧国立競技場は完成しました。場所は東京都新宿区および港区にまたがる明治神宮外苑。

 多くの方が、「国立競技場」と言えばメインとなるスタジムだけを指していると思いがちですが、実はその陸上競技場としてのメインスタジアムである「国立霞ヶ丘陸上競技場」だけでなく、ラグビー場である「秩父宮ラグビー場」、体育館、水泳場、トレーニングセンター、テニス場も含めた上で、この一体を「国立霞ヶ丘競技場」もしくは「国立競技場」と略称していました。

 この他、この地域には明治神宮が所有する「明治神宮野球場」および第二球場、アイススケートリンク、フットサルコート、テニスコートがあり、東京都が所有するアリーナ、プール、トレーニングルームの他に陸上競技場を有する「東京体育館」が隣接しているというスポーツタウンを形成しています。

トレーニングする代表候補、横溝三郎選手

Japanese Runner Using Pace Maker
Bettmann//Getty Images

 「国立競技場」の前身は「明治神宮外苑競技場」であり、日本で初めての、そして東洋一の本格的陸上競技場として、青山練兵場跡地に建設されました。

 第二次大戦での敗戦から数年後、日本は「平和な日本の姿をオリンピックで世界へ示したい」とし、オリンピック招致の声明を出しています。そのための国際的なアピールとして、1958 年(昭和33年)、「第3回アジア競技大会」を東京で開催しました。そのメイン会場として使用されたのが、完成したばかりの国立競技場だったわけです。

 旧国立競技場の着工は1957年(昭和32年)1月で、「第3回アジア競技大会」を2か月後に控えた1958年(昭和33年)年3月に完成となりました。

 そして、そのアジア大会が成功裡に終了。東京夏季五輪の招致も実現すると、国立競技場はまさしく日本を代表する国際的競技施設という存在を国内外へアピールしていくこととなりました。

 写真は1960年ごろ、東京夏季五輪1964「男子3000m障害」代表であった横溝三郎(当時、中央大学陸上部所属、五輪時はリッカー所属)選手が国立競技場にあるペースメーカー「rabbit」と使用してトレーニングをしているところ。

東京夏季五輪1964の最終聖火ランナー、坂井義徳さん

Opening Ascent
Keystone//Getty Images

 東京夏季五輪の開会式が10月10日に開催。聖火リレーの最終ランナーを務めたには、原子爆弾が都市広島を壊滅させた日に広島で生まれた坂井義徳さんが勤めました。 

 当時の坂井さんは、早稲田大学競争部に所属していました。東京五輪1964の400mと1600mリレーで強化選手に指名されていましたが、代表選考会で敗退。そんな失意の底にあったとき、組織委員会は聖火最終ランナーを「広島への原爆投下の日」という象徴的な日に生まれた坂井に託したのでした。

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東京夏季五輪1964の聖火点灯

Man Lighting Olympic Flame
Bettmann//Getty Images

開会式当日、国立霞ヶ丘競技場の千駄ヶ谷門で前の区間を走った鈴木久美江(当時、中学3年生)から聖火を受け取り、トラックを半周したあと聖火台までの階段を昇りました。

 坂井さんは10万713人目のランナー。 坂井さんはその後、400mと1600mリレーで活躍します。1966年(昭和41年)のバンコクアジア大会では1600mリレーで優勝し、400mでも銀メダルを獲得しています。ですが、残念ながら五輪への出場はかなっていません。その後、1968年(昭和43年)にフジテレビに入社しています。アナウンサーで入社した故・逸見政孝さん松倉悦郎さんが同期にあたります。そして2014年(平成26年)9月10日に、永眠しています。

東京夏季五輪1964の選手入場

Canadian Team Marching in Stadium
Bettmann//Getty Images

 第18回となった東京夏季五輪1964では、93カ国から5151名のアスリートたちが参加しました。

XVIII Olympic Summer Games

XVIII Olympic Summer Games
Central Press//Getty Images

 1964年10月10日、第18回夏季五輪開会の挨拶は、国際五輪委員会会長であるアベリー・ブランデージ氏と東京五輪組織委員会の安川第五郎会長。

 この開会式の前日夜半は雨。同時に安川会長は、誠心を持って晴天になるようにと天に祈ったそうです。すると、その祈りが通じ、開会式当日は雲ひとつない快晴になりました。

 安川会長はこのエピソードを生涯大切にし、揮毫(きごう)を頼まれる際には必ず、吉田松陰の言葉である「誠を尽くせば、願いは天に通じる」を由来とする「至誠通天」の四字を表していたとのことです

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1964年10月21日、男子マラソンでアベベ優勝

XVIII Olympic Summer Games
Keystone//Getty Images

 第18回東京夏季五輪1964では多くの日本人選手が活躍する中、それ以上に注目を浴びた選手がいました。それがエチオピアのマラソン代表であるアベベ・ビキラ選手です。

 その期待に応え、アベベ選手は1964年10月21日に開催された男子マラソンで優勝。このとき、当時の世界最高記録である2時間12分11秒2を走り終えたアベベ選手に、旧国立競技場(国立霞ヶ丘競技場)に集まった観客は大声援で迎えました。

 前回の1960年9月に行われたローマ五輪では、偶然にシューズが壊れたため(さらに現地で新しい靴を買おうとしたが、自分の足に合うものがなかったため)裸足で走ることとなりました。もともとアベベ選手は、子どものころから裸足で野山を駆け回っていたので、足の裏の皮は厚く、裸足で走ることに慣れていました。そこでアベベ選手は裸足でレースに参加します。スタート当初は最後方に位置していましたが、15kmを過ぎて先頭集団に入ります。そして30kmでトップに出ると、あとはそれを譲ることなく、当時の世界最高記録となる2時間15分16秒2で優勝したのでした。

 その当時アベベ選手は全く無名で、先頭集団に加わると「あれは誰だ」という声が沿道からあがり、プロフィールにもほとんど記載のないアベベがゴールのコンスタンティヌス凱旋門に入ってきたときは、各国の報道関係者も騒然となりました。

 このアベベ選手の優勝により、アフリカの高地民族が長距離走への適性を持つことを世界に知らしめることにもなりました。また、陸上競技における高地トレーニングの有効性にも気づくきっかけとなったのでした。

 その後、1961年6月25日に開催された「毎日マラソン(現・びわ湖毎日マラソン。当時は大阪府で開催)」に参加します。これは次回のオリンピック開催国を下調べのためでもあったようです。このレースでは、コースに入ってきた大群衆や対向車線の車、オートバイ、それに気温27度・湿度77%という悪条件が重なって、レース中に立ち往生するというアクシデントもありながらも優勝は果たしています。

 で、気になるのは、この大会でも裸足で走ったか?でしょう。

 それに関しては、アベベ選手自身は裸足で走ることを主張したそうですが、鬼塚株式会社(現アシックス)の社長である鬼塚喜八郎さんが表敬訪問した際、「日本の道路はガラス片などが落ちていて危ない。軽いシューズを提供するから履いてくれ」と説得したことによって、アベベ選手はオニツカ製のシューズを履いて参加しました。

 その後も鬼塚氏はアベベのもとにシューズを贈り続けていたのですが…。しかし、当時は特定のスポーツ用品メーカーとの専属契約という概念がなく、東京オリンピックの際にはプーマのシューズで参加したのでした。

1964年10月21日、男子マラソンの表彰台

Marathon Winners
Keystone//Getty Images

 1964年10月21日、男子マラソンの表彰台に上る3名。

 左から右に、銀メダルを獲得した英国代表のベイジル・ヒートリー選手、金メダルを獲得したエチオピア代表のアベベ・ビキラ選手、そして銅メダルを獲得した日本代表の円谷幸吉選手。

 ヒートリー選手は3番手で当時の国立競技場に入ってきました。そこでゴール前約200メートルで2位であった円谷選手を抜き、2位でゴール。

 その激走により、この2名の選手はアベベ選手の走りに負けず劣らず多くの人に記憶されていました。

1977年9月14日の「ペレ サヨナラゲームインジャパン」

国立競技場, サッカー, 奥寺康彦, ペレ
Kasturo Okazawa//Aflo

 こうして旧国立競技場(国立霞ヶ丘競技場)=陸上競技のイメージとなっている中、1968年 1月に開催せれた第47回天皇杯全日本サッカー選手権大会決勝を開催。その後、取り壊される2014年まで毎年開催されるようになります。

 また、1975年 1月の行われた第12回日本ラグビーフットボール選手権大会も開催され、以降2004年まで毎年開催されることに。さらに1977年 1月には第55回全国高校サッカー選手権大会も旧国立競技場で開催されると、以降2014年まで高校サッカーのメッカにも。

 こうして国立競技場が、陸上競技ばかりではなくサッカー、ラグビーといった球技における頂上決戦の場というイメージも広まっていきます。

 そして1977年9月14日、日本でも大人気のサッカー選手であるペレの2度目の引退を記念した試合「ペレ サヨナラゲームインジャパン」が、当時の国立競技場で行われました。カードは日本代表と(当時ペレが所属してニューシネマとの対戦です。結果は1対3でニューヨーク・コスモスの勝利。

 写真は日本代表の奥寺康彦選手とマッチアップするペレ選手。

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1984年釜本引退試合

釜本邦茂, 引退試合, サッカー
Aflo

 1984年8月25日には、1968年のメキシコ五輪で7得点を挙げて得点王に輝き、日本代表の銅メダル獲得にも大きく貢献した釜本邦茂選手の引退試合が行われました。 

 釜本選手が所属するヤンマーディーゼル対日本サッカーリーグ選抜戦が、旧国立競技場(国立霞ヶ丘陸上競技場)で6万人の観衆を集めて行なわれました。ゲスト・プレーヤーには、往年のスター選手である元ブラジル代表ペレ氏と、元西ドイツ代表のヴォルフガング・オヴェラート氏を迎えて行われました。

 試合は、釜本選手自身が前半15分に得点を決め、引退の花道を飾ったのでした…。

1985年1月2日開催、ラグビー大学選手権準決勝

平尾誠二, Seiji Hirao, ラグビー, Rugby, Doshisha
Aflo

 東京五輪1964、そしてサッカー天皇杯以上に旧国立競技場(国立霞ヶ丘陸上競技場)を盛り上げていたのはラグビーかもしれません。

 そして、ラグビーと言えば大学ラグビー。常に超満員の観客で埋め尽くされていました。写真は、1985年1月2日に行われたラグビー大学選手権準決勝、同志社大学対早稲田大学。結果は27対7
で、故・平尾誠二選手(写真でボールを持つ選手)が率いる同志社大学が勝利しています。

 決勝は慶応義塾大学と行われ、10-6で同志社大学が3年連続4回目の優勝を果たしました。しかしながら日本選手権では、いずれも新日鉄釜石ラグビー部に敗れています。

第22回ラグビー日本選手権 新日鉄釜石

Player, Sports, Sport venue, Team sport, Ball game, Tournament, Sports equipment, Championship, Football player, Games,
Shinichi Yamada//Aflo

 ラグビー日本選手権は、1960年 - 61年シーズンに、「日本協会招待NHK杯争奪ラグビー大会として開催されたのがルーツになります。

 当時、人気低迷していたラグビーの復活を狙って、「夢の対戦」ともいうべき社会人の王者と学生の王者が対戦する機会を設ける大会を行うことになったわけです。そして1961年1月29日に行われた第1回は秩父宮ラグビー場で行われます。

 そうして時は流れ1975年1月15日(1974年度)の開催にあたり、当時秩父宮の改修工事のため、旧国立競技場(国立霞ヶ丘陸上競技場)で代替開催されることになったのでした…。すると、その1974年度の開催が、当時6万人収容だった同競技場を満員で埋め尽くしたこととなり、以後、国立競技場での開催となったわけです。

 この時代に大きくその名を刻んだのが、新日本製鐵釜石ラグビー部(現・釜石シーウェイブス)です。写真は前ページで故・平尾誠二選手率いる学生日本一の同志社大学と1984年度のラグビー日本位置を決める戦い、1985年1月15日に開催されたラグビー日本選手権の1シーンになります。

 中央でボールを持つのは、新日本製鐵釜石ラグビー部のスタンドオフとして、この勝利で日本選手権7連覇を含む優勝8回を達成する主力選手として活躍した松尾雄治選手。

 前人未到の日本選手権7連覇を果たした松尾雄治選手は、この日をもって引退を決めました。

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1985年12月8日、トヨタカップの将軍・プラティニ

これはyouTubeの内容です。詳細はそちらでご確認いただけます。
【TOYOTA CUP】将軍・プラティニが魅せた幻のスーパーゴール!|Michel François Platini
【TOYOTA CUP】将軍・プラティニが魅せた幻のスーパーゴール!|Michel François Platini thumnail
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 1985年は様々なドラマが旧国立競技場では刻まれました。ラグビーばかりではありません。サッカーも…です。

 同年12月8日に旧国立競技場(国立霞ヶ丘陸上競技場)行われたサッカー、クラブチーム世界一を決めるトヨタカップ第6回大会のこのシーンはまだ覚えている方も多いかもしれません。

 “将軍”と異名をとるフランス代表のミシェル・プラティニ選手やデンマーク代表のミカエル・ラウドルップを擁し、世界でも屈指の名門クラブであるユベントスFCと、1970年代にディエゴ・マラドーナが活躍したアルゼンチンの名門クラブAAアルヘンティノス・ジュニアーズの試合。 

 AAアルヘンティノス・ジュニアーズにリードを許して迎えた後半18分、ユベントスFCはミシェル・プラティニ選手のPKが決まり1-1の同点となります。そしてその5分後に、伝説のシーンが生まれたのでした…。 

 コーナーキックのチャンスを得たユベントスFC。クリアされたボールのこぼれ球がプラティニ選手の元へ飛ぶと、胸トラップから右足アウトサイドのキックフェイントでボールを浮かせます。するとマークを外れ、そのまま反転して左足でダイレクトボレーを放つのでした…。

 美しい一撃が決まり、会場は大きく沸いたそのとき。オフサイドでノーゴール判定に…。結果、芸術的なスーパーゴールは幻に消えます。しかし、その物語はそれが山場ではありませんでした。大いに盛り上がったのは、その後のプラティニ選手が見せたパーフォーマンス。オフサイドの判定後、将軍は拗(す)ねた表情でピッチに寝そべり訴えます。

 欧州サッカー連盟 (UEFA) 前会長であり、元国際サッカー連盟 (FIFA) 副会長を経験し、現在はフランスサッカー連盟 (FFF) 副会長と、もはやサッカー界のお偉方の一員となったプラティニ氏。ヨーロッパで開催されるサッカーの映像を観ると、時折、関係者席に座るシーンが観ることができます。

 ですが、多くの方にとっては、あのときピッチに寝ころんだやんちゃなプラティニ選手の映像も頭によぎっているに違いないでしょう。

1990年12月2日 Waseda University v Meiji University - Kanto College Rugby Taikosen Group

Waseda University v Meiji University - Kanto College Rugby Taikosen Group
Sports Nippon//Getty Images

 1990年代もやはり、大学ラグビー=旧国立競技場(国立霞ヶ丘陸上競技場)のイメージでした。写真は1990年12月2日に開催された関東大学ラグビー対抗戦のクライマックス、早稲田大学と明治大学の一戦です。 

 全勝対決となった激突は、旧国立競技場に6万人もの大観衆を集めました。序盤から明治が優勢に。写真は早稲田の今泉 清選手を阻もうとする明治大学の永友洋司選手。その後ろには、早稲田の増保輝則選手もいます。

 後半37分まで、明治大学が24-12とダブルスコアでリードしていました。当時のキャプテンで日本を代表するとトライゲッターである吉田義人選手はこんなコメントを残しています。

 「いま思うと、完全に試合は明治ペースでした。ダブルスコアだったし、いいゲーム運びもできていたし…。みんな勝てると思っていました」と振り返っています。

 そうです、早稲田はその後猛攻を見せ、24-24の引き分けにしたのでした…。

 後半38分、早稲田はゴール前10m付近で右のラックからさらに右へ展開。キャプテンであるスクラムハーフの堀越正巳選手がウイングの郷田正選手へパス。すると郷田選手が右のタッチライン際で2人のタックルをかわし、中央に周りこんでのトライを決め24-18に。

 そして時計は、ロスタイムに入ります。この試合のラストプレー、明治のWTB吉田が蹴ったキックオフを右サイドで受けた早稲田はモールを形成してから左に展開。するとスタンドオフの守屋泰宏選手はインサイドのセンターを飛ばして、アウトサイドのセンター吉雄 潤選手へパスします。吉雄選手はすぐ左にライン参加していたFB今泉 清選手へパスすると、そのまま流れるように左サイドへグングンと加速しトライ。80mにもおよび独走のノーホイッスルトライを決めました…。

 これのプレーに旧国立競技場に集まった観衆は、かつてないほど歓喜の怒号と悲鳴に包まれていました。そしてその歓声が続く中、守屋選手は冷静に(実は冷静ではなかったでしょう…)コンバージョンを決め、24-24と奇跡の同点に。するとその瞬間、ノーサイドに笛があります…。

 この試合は未だかつてないほど、そして、今後もそうなないであろう最高にドラマティックな試合だったのです。

1991年8月第3回世界陸上競技選手権大会でのカール・ルイス選手

Carl Lewis of the USA (centre) celebrates after winning the 100 metres
Getty Images//Getty Images

 ラグビーで盛り上がりを見せた旧国立競技場でしたが、1991年の夏に関しては、陸上競技に染められていました。

 それもそのはず、1991年8月23日から9月1日まで第3回世界陸上競技選手権大会が旧国立競技場(国立霞ヶ丘陸上競技場)で開催された。

 43種目(男子24・女子19種目)が実施され、167の国・地域から1517人の選手が参加しました。中でも人気は、アメリカのカール・ルイス選手(写真中央)です。

 写真は、この大会で一番の盛り上がりを見せたとき。100メートルの決勝で、9.86の世界新記録で優勝を果たしたのです。

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1991年8月第3回世界陸上競技選手権大会でのセルゲイ・ブブカ選手

Sergey Bubka
Mike Powell//Getty Images

 第3回世界陸上競技選手権大会は、陸上界のスーパースターたちがたくさん来日しました。その一人である、棒高跳びのセルゲイ・ブブカ選手。

 期待通り、旧国立競技場(国立霞ヶ丘陸上競技場)のフィールドで5.95メートルという大会新記録で金メダルを獲得しています。

1991年8月第3回世界陸上競技選手権大会でのマイク・パウエル選手

IAAF World Athletic Championships
Mike Powell//Getty Images

 写真は、1991年8月30日に行われた第3回世界陸上競技選手権大会走幅跳の決勝におけるマイク・パウエル選手跳躍時のひとコマ。

 この走幅跳も大きな盛り上がりを見せました。男子100mを当時の世界記録である9秒86で快勝したカール・ルイス選手が、この走幅跳にも参戦。歴史に残る会心のジャンプを連発したいたのですが…。

 マイク・パウエル選手はそれをさらに上回る8m95という脅威のジャンプを見せ、1968年にボブ・ビーモン選手がメキシコオリンピックで樹立した世紀の世界記録を23年ぶりに更新して金メダルを獲得したのでした…。

 ちなみにこの8m95という記録は、2019年12月時点においても更新されていません。

1991年9月、第3回世界陸上競技選手権大会での谷口裕美選手

Tokyo Weltmeisterschaften 1991 Marathon
Laci Perenyi

 第3回世界陸上競技選手権大会を最も盛り上げてくれた日本人選手は?と言えば、マラソンの谷口裕美選手でしょう。

 1991年9月1日、第3回世界陸上競技選手権大会男子マラソンは午前6時の号砲とともにスタート。気温30度を超す高温多湿の過酷なコンディションとなり、優勝候補の中山竹通選手やアベベ・メコネン選手ら60人中24人が途中棄権する中、谷口選手は38km過ぎからスパートして先頭集団を抜け出します。

 すると結果、2位のアーメド・サラ選手に29秒の大差をつけて1位でゴール。日本人選手として世界陸上大会史上初の金メダルを獲得したのでした。

 2019年現在、世界陸上選手権で優勝した日本人男子選手は、この谷口選手とハンマー投げの室伏広治選手、そして競歩の鈴木雄介選手だけになります。

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1994年1月9日、第1回「Jリーグチャンピオンシップ」開催

Kashima Antlers v Verdy Kawasaki - Suntory Championship 1st Leg - J.League 1993
Etsuo Hara//Getty Images

 1993年に10クラブで開始した日本のプロサッカーリーグ。略称は「Jリーグ」の頂上決戦である「Jリーグチャンピオンシップ」の第1回が、1994年1月9日に旧国立競技場(国立霞ヶ丘陸上競技場)で開催されました。

 開幕年の1993年シーズンから2004年シーズンまでの11年間(1ステージ制だった1996年シーズンを除く)は、サントリーが特別協賛となり、「Jリーグサントリーチャンピオンシップ」の呼称で実施。1stステージと2ndステージの優勝クラブが出場し、ホーム・アンド・アウェー方式による2試合で年間優勝のタイトルを争いものでした。ちなみにJリーグの年間順位は、この大会の勝者が優勝で、敗者が2位となります。

 その初の大会は、Jリーグ初年度1stステージ1位の鹿島アントラーズと、2ndステージ1位のヴェルディ川崎の対戦。第1レグが行われた1994年1月9日の旧国立競技場では、三浦知良選手による先制点、続いてビスマルク選手による追加点により、0-2でヴェルディ川崎の勝利。

 さらに同年1月16日に行われた第2レグでは、1-1で引き分けに。そして第1レグとの合計スコアでヴェルディ川崎が勝ち越していたため延長戦を行わず、そのままヴェルディ川崎の優勝となりました。

2005年1月8日第83回全国高等学校サッカー選手権大会準決勝

全国高校サッカー選手権,  準決勝, 本田圭佑, KeisukeHONDA, 国立競技場
Big Friend Photo//Aflo

 もしかすると少年たちにとっては、旧国立競技場(国立霞ヶ丘陸上競技場)=サッカーのイメージのほうが強いかもしれません。なぜなら、1977年 1月に第55回全国高校サッカー選手権大会
において、準決勝・決勝が旧国立競技場で開催されて以降、取り壊される前の2013年度まで、全国の高校サッカー部がお正月にこの地で試合することを目標に日々練習に励んできたからです。

 つまり高校野球における甲子園、高校ラグビーにおける花園というわけです。

 この高いから多くのヒーローも登場しました。写真は2005年1月8日に行われた第83回全国高等学校サッカー選手権大会準決勝、千葉県代表の市立船橋高校と石川県代表の星陵高校との一戦。

 写真中央でボールをドリブルするのは、当時星稜高校3年でキャプテンの務めていた本田圭佑選手。残念ながらこの準決勝で2-2の同点の末PK戦で敗れるも、石川県勢として初のベスト4に大きく貢献しました。

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