2020年11月25日、サッカー界に衝撃が走りました。
アルゼンチンが生んだサッカーの「天才」、ディエゴ・マラドーナ氏が心不全のため60歳とおよそ1カ月で亡くなりました。アルゼンチンサッカー協会はもちろん、FCバルセロナに所属する元教え子のリオネル・メッシ選手や、サッカーの「神様」ペレ氏らをはじめ、世界のサッカーファミリーが彼に心からの哀悼の意を表しています。
ディエゴ・アルマンド・マラドーナ…生まれはアルゼンチン・ブエノスアイレス南部の町ラヌース。貧困に苦しむ家庭で育ちました。
公称の身長は165センチで、全盛期の体重は69kg…。巨大な丸太のような太ももの太さが印象的です。ずんぐりむっくりした体型ながら、現役時代はまるでボールを手で扱っているかのように華麗な足技を披露し、サッカーボールに魔法を掛けてくれました。ときには本当に手でボールを扱う魔法を使い、ワールドカップという大舞台で得点を決めてみせたことも。
フィールド中央付近から相手5人を抜き去って決めた伝説的なプレイや、華麗なフリーキックは今も語り草です。イタリアのクラブチームに所属していた当時、1990年のワールドカップイタリア大会で開催国イタリアを破り、憎まれ役を演じてみせたこともありました。たった1人で局面を打開してしまうサッカー技術は、自分が応援する相手チームに迎えるには、憎くてたまらないほどの存在。その反対に、味方とするにはマラドーナ以上に頼もしい存在はいませんでした。
現役時代から夜遊び、買春、薬物との交友などに関する悪い噂が絶えることはありませんでした。自身最後のワールドカップとなったアメリカ大会では、試合後の尿検査で禁止薬物が検出され、追放処分を受けています。マスコミやパパラッチとの反目もありました。取材記者に向けてエアガンを発砲したことも…。そう、スキャンダラスな話題にも事欠かない、本当に世話の掛かるお騒がせな天才でした。
そして、華麗な選手生活の反面、薬物依存・アルコール依存・急激な体重増加にも苦しんでいたのもまた事実。苦しむたびに病や依存症から立ち直り(ときには脂肪吸引手術を施し)、私たちの前に元気な姿を見せてくれました。だから、どこかで油断をしていたのかもしれません。マラドーナは決して死なない…と。
今となっては、それらの全てが私たちの記憶の中にしかありません。だから、彼のことを思い返すしかありません。現在は、無意識のうちにさまざまな彼の名プレーばかりか、さまざまな珍プレー共に強烈な映像が鮮明によみがえるのではないでしょうか。直接お目に掛かったことすらないのに…。
果たしてマラドーナは、聖人だったのか? それとも悪のヒーローだったのか? それは誰にもわかりません。その人懐っこい笑顔と、魔法の足技にお目に掛かれば、私たちには彼を好きになること以外の選択肢は残されていなかったのではないかとすら思えます。
母国の代表チームを応援するために、スタンドから一心不乱にマフラーを振り続けるレジェンドなんて、これまでにお目に掛かったことはあったでしょうか? 念願だったアルゼンチン代表チームの監督になり、選手以上に派手なリアクションを披露。試合そっちのけで私たちの目を奪ってしまう監督なんて、他に存在したでしょうか? そして、どれだけのキッズがマラドーナのプレイに魅せられ、ボールを蹴り始めたのでしょうか?
いま、世界は深い悲しみに打ちひしがれています。
彼の活躍をリアルタイムで見たことのない若者から、声を枯らして実際に応援したサポーターまで…。いま世界のサッカーファミリーが泣いています。「あんな奴、削っちまえ!」と叫んだであろう、ライバルチームのサポーターも同じです。2度のリーグ王座をもたらした、SSCナポリのファンも同様でしょう。もちろんここ日本でも。そして、母国アルゼンチンは3日間の喪に服すと言います。
サッカーを愛し、サッカーに愛された永遠の天才を失ったこの空白。その埋め合わせなんて、果たしてできるのでしょうか? その答えはまだわかりません。それでも、(これまでがそうだったように)サッカーが止まることはありません。いつか新たなヒーローを見つけ出し、繰り出される魔法に酔いしれることになるのかもしれません。それでも今は、くどいほどに、しつこくリフレインする彼の活躍の姿をもう一度脳裏に焼きつけてみたいと思います。しばしのお付き合いを…。
1960年10月30日、アルゼンチン・ブエノスアイレス南部の町で貧しい家庭の子として生まれたディエゴ・マラドーナ。幼い頃から「天才」として注目を集め、9歳のときにAAアルヘンティノス・ジュニアーズの少年チームに加入。1976年には、15歳11カ月でプロデビュー、翌年にはフル代表デビューを果たします。
1979年、日本で開催されたFIFAワールドユース選手権で来日。
そして、第2回目となった1979年ワールドユースサッカーで見事優勝を飾り、自身は大会最優秀選手に選出されます。
1981年、アルゼンチン国内の二大クラブの一つ、ボカ・ジュニアーズに移籍。入団早々、人気を二分するCAリーベル・プレートとの試合で3得点を挙げるなど、ファンを魅了しました。
1982年のワールドカップスペイン大会では、弱冠22歳ながら10番を背負ってプレイ。大会で2得点を挙げます。
同ワールドカップスペイン大会のブラジル戦でレッドカードを受けて退場し、チームも敗退。自国で開催された1978年大会に続く連覇が絶たれ、大会を去ることに…。
1982年、スペインのリーガエスパニョーラ・FCバルセロナへ移籍。
度重なるファウルに激怒し、相手選手と乱闘騒ぎを起こして3カ月の出場停止処分を言いわたされるなど、トラブルもあったバルサ時代でもあります。1983-1984シーズンを最後に退団。
1983年、アルゼンチンの地元のグラウンドにて。当時23歳。
1984年、イタリア・セリエAのSSCナポリへ移籍。移籍金は当時の史上最高額の推定移籍金1300万ドル。
「世界最強リーグ」とも呼ばれた当時のセリエA。ASローマ戦では、当時ブラジル代表のトニーニョ・セレーゾ(左端・元鹿島アントラーズ監督)やロベルト・ファルカン(左から3番目・元日本代表監督)らとも対戦。
1985年、FIFAワールドカップメキシコ大会予選のペルー戦(0対1で敗戦)。
イングランドのトッテナム・ホットスパーFCのユニフォームに、袖を通した貴重なカット。これは、アルゼンチン代表の先輩に当たるオズワルド・アルディレスの功労試合に出場したときのもの。
1986年、FIFAワールドカップメキシコ大会のトレーニングキャンプでのひとコマ。右は同国のレジェンドの一人、ダニエル・パサレラ。
メキシ大会でも常に相手の脅威として、ファウルの餌食(えじき)に。
当時アルゼンチン代表を率いていた、カルロス・ビラルド監督と。
1986年、FIFAワールドカップメキシコ大会時。
1986年、FIFAワールドカップメキシコ大会準々決勝のイングランド戦。後半4分、相手ゴールキーパーを競り合い、手でボールをはたいてゴールをゲット。「神の手ゴール」 として、今も語り継がれています。
同じく1986年、FIFAワールドカップメキシコ大会準々決勝のイングランド戦。まぎれもなく「手」です。
これも同じく1986年、FIFAワールドカップメキシコ大会準々決勝のイングランド戦より。後半8分には、センターライン付近でパスを受けてから単独で約60mをドリブル。5人を抜き去りゴールを決めたスーパープレイ(5人抜き)で追加点を決めます。