「この人がいなければ、いまの僕はいなかった」。そう自身で言い切るほど、松任谷正隆さんに影響を与えた人物がいます。松任谷さんの著書にもたびたび登場する“鎌倉の伯父”その人であり、今回見せてもらったカメラの数々にも、伯父さんの影響が色濃く残っていると言います。
「僕が小学生のころは、それまでのブローニーフィルムから35mmフィルムに移行して、カメラ業界が盛り上がった時代。だから、子どもたちはみんなカメラに興味をもっていました。当時、ライカはそれ一台で家が一軒買えると言われていた時代で、そんなライカを伯父が持っていたんです」
とは言え、当然ながら松任谷少年にとっては高嶺の花。伯父さんのライカを遠巻きに見ていたというのが実のところで、小学校6年生の松任谷さんは、当時、どうしても欲しかった「アサヒペンタックス」を手に入れるため暴挙に出ます。
「3万4900円だったかな? 当然、お小遣いで買えるわけもない。だったら、お金を盗めばいいじゃないかと(笑)。当時、同居する祖父は神田にある何軒かの家を貸し出していて、その賃料が毎月、現金書留で家に届いていた。その中の4万円くらいのものを盗んで、自由が丘のカメラ店でアサヒペンタックスを買ったんです。まあ、すぐ親に見つかっちゃうんだけど…。なぜ、そんなことをしたかというと、その伯父も昔、父親からお金を盗んでカメラを買ったという話を聞いていたから…。バレて三脚で殴られたってことも知っていたけど、伯父がやったのなら、僕もやっていいんじゃないかと思ったんだと思う。それくらい、ものすごく影響を受けていたんです」
そんなカメラ小僧だった松任谷さんも、中学に入ってからはバンド活動に没頭し、大学を卒業するころには、れっきとした音楽家に。以降の活躍は誰もが知るところですが、ふとした瞬間にライカとの再会をはたすのです。
「80年代の終わりごろ、クルマの番組でマカオグランプリの取材があったんです。その帰りに香港の免税店でライカを見たとき、『あ、俺も買えるんだ…』ってふと思って。『M6』というモデルを初めて自分で買った。そのうち、何か思い出したかのように『ライカフレックス』っていうライカ初の一眼レフを中古で買ったり、レンズを買いはじめたんです」
伯父さんが亡くなったのは、そんな矢先のことでした。
「伯父は生前、ライカは僕に相続させたいと言っていたらしく、すべて引き取ることになった。それを自宅に並べて置いてみたら、カメラ熱が再燃しはじめて。機械好きのカメラ小僧が、今じゃカメラグランプリの選考委員なんだからおもしろい(笑)」
そう笑いながら、伯父さんから譲り受けたライカの乾いたシャッター音に耳を澄ます松任谷さん。写真を撮るなら、最新のデジカメがいいに決まってる。それでも古びたカメラを愛でつづけるのは、そこに自分の原点と、あのころの空気を感じることができるから。
PROFILE/1951年、東京都生まれ。作編曲家、プロデューサーとして活躍。日本自動車ジャーナリスト協会に所属し、「日本カー・オブ・ザ・イヤー」選考委員、「CAR GRAPHIC TV」のキャスターも務める。